超解釈テニスの王子様  人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

人生への圧倒的肯定を描き出す『テニスの王子様』についての個人的な考察を綴ります。 出版社および原作者など全ての公式とは一切の関係はありません。全ては一読者の勝手で個人的な趣味嗜好です。 Twitterアカウント:@namimashimashi

閑話_ブログ開設から一年経ったので…

odaibako.net

 

いつもご覧いただいている皆様、

検索等でたどり着いてご覧いただいた皆様、

当ブログをお読みいただきありがとうございます。

心より御礼申し上げます。

 

個人的に書きたくて書いていることなので、

こういうものは自力で考えて、対象と対話して、練り出す物だとも思いつつも、

スターやコメント、引用などリアクションをいただけると、とても嬉しいです。

 

2018年3月6日にブログを開設し、最初の書き溜めていた記事の一気アップ以降は細々としか書いておりませんが、何とか1年間経ってもまだテニスの王子様・新テニスの王子様を精読したいという情熱が続いています。

 

これからも気がつき、思考がまとまり次第、記事のアップを続けたいとは思っていますが、一人で考え続けるよりも他の方の視点もあった方が思考も深まりますし、自分の間違いにも気がつくので、もしも匿名であれば、感想などいただけるようであれば、お題箱から送っていただけると、とても嬉しく思います。

ご質問をいただいた場合は、お答えできる範囲になりますが、お答えしたいとも考えております。

 

テニスの王子様』『新テニスの王子様』原作者・許斐剛先生作詞「テニプリっていいな」の歌詞によると、テニプリは「色んな人達と出会え そして 語り合える」ところも美点の一つのようですし、何卒、よろしくお願いいたします。

覆い隠される真理

本稿は『テニスの王子様』『新テニスの王子様』を宗教的気づきをもたらす物語として解読することを目的としているため、この試合のストーリーにおいて語られる精神的やりとりに着目して解析している。

テニスの王子様はテニスのルールどころか物理法則をも超えてしまうようなその過激な表現から超常現象に注目が行きがちであるが、その姿を通して語られる登場人物たちの魂のやりとりは普遍的な人間の姿である。

 

テニスの王子様は述べるまでもなくファンタジーだ。

それもかなりのファンタジーである。

 

少なくともテニスシーンに我々の生きている現実の物理的なリアリティは無い。特に原作漫画単行本の22巻以降の作品後半は物理的な現実性・リアリティはかなり低いと言って差し支えないだろう。

そもそも漫画に登場するキャラクター達の身長、BMI、パーソナリティーなどもおしなべて現実味が薄い。

 

それもその筈である。

というのも、作者である許斐剛がファンタジー漫画と同列で語ることのできる週刊少年漫画を描こうとして描いている作品であり、また、漫画読了後には前向きな気持ちになるべきだとの考えから苦悩や悲壮は極力描かれないストーリーであるからなのである。

 

仮にテニスの王子様に物理的なリアリティを感じるのであれば、それを持ち込んでいるのは、アニメとミュージカルのキャストなのではないだろうか。

キャストの彼、彼女達によってキャラクター達に人間という存在の多面性が可視化されるようになる。

 

そしてまた、テニスの王子様はいわゆるキャラ漫画である。

キャラクターこそが漫画の命とする作者の考えから、ストーリーや絵よりも圧倒的にキャラクターに比重が置かれた漫画となっている。

そんな漫画であるからこそ、キャラクター達の人間性が可視化されることによって一気にリアリティが出てくる。身近なストーリーになってくるのである。

 

 

テニスの王子様』の連載が始まったのは1999年だった。

連載開始から20年が経った現在、西洋人のスポーツでの日本人の台頭や10代前半選手の活躍は、現実において、テニス・卓球・サッカー・スケート・バドミントン・将棋・水泳etc.様々なプロの世界でも現実になってきている。

"日本人の中学1年生が西洋スポーツで八面六臂の活躍をする"越前リョーマの設定もありえないことではなくなってきている。

現実のスポーツでありえることを少年漫画でファンタジーで描いても現実には敵わない。リアルのスポーツを超えるエンターテインメントにはなれない。

では、漫画コンテンツが漫画の中だけてはなく他のエンターテインメントとも比べて選ばれるために魅力的になるためできることはなんだろうか。

テニスの王子様には、ファンタジーがリアルを越えた魅力を放ちたいという意志がある。

 

 

科学法則に反した必殺技、物理法則を無視したボールの威力、テニスのルールに即さない試合展開など人智を超えた展開を見せるが、こういった自然科学法則を無視した現象は、聖書や仏陀伝説における超常現象の類だと考えている。

 

 「科学的に否定される事象を全て取り払ったとしてもそれは何ら聖書の価値を損ねることにはならない」

これは私が縁のあるキリスト教教会での礼拝の説教で語られた言葉だ。

 

この言葉と同様に科学的見地から否定されてもそれがテニスの王子様の価値を損ねることにはならないだろう。

登場人物がより高みを目指して切磋琢磨しあう姿は、自己存在を成長させ、人間としての高みを目指すようだ。

テニスの王子様の深淵を読み取ろうとした時、紙面に表現された目に映る絵だけを捉える「見える側に囚われているようじゃまだまだ」なのではないだろうか。

 

また、テニスの王子様では効果的に理解していない観客・傍観者=第三者の声が入ってくる。

コアの精神的なやり取りの真髄に近づくとそれを覆い隠すかのように何も理解していない者達からのヤジが飛ぶ。

それが現実的感覚とを繋げる一方で、読解を難しくしている。

テニスの王子様の世界では観客と選手に明確な一線がひかれている。

コート上でのやり取りは同じくコートに立てるだけの力量のある人間たちにしか理解できていないのだ。

原作漫画では、同様に、試合を解説する人物も、出場の如何を問わず、その試合を理解できる者が選ばれている。

 

さらに、テニスの王子様を読み解くにあたっては、読者と登場人物の間に情報格差があること、それに伴う認識の差異が生じていることにも気づく必要があるだろう。

青学メンバーについてだけでも、例えば手塚の怪我からの復帰に関しては全国大会氷帝戦S2で青学は手塚について評価しているが、九州でのイップスの一件は彼らは知らない。

全国大会決勝D1中で竜崎スミレの語りかけ「そう言えばお前達がピンチの時−常にリョーマがきっかけになりよったわい」によって越前リョーマが青学の柱になっていたことに気がつく(越前リョーマが作中で自他共に認める青学の柱として試合をしたのはおそらく全国大会決勝S1の一戦のみだと思われる)。

 

「瞳に見える外側に囚われている様じゃ…まだまだだぜ」というのは主人公・越前リョーマの父、『テニスの王子様』における最高到達地点・天衣無縫の極みに一番最初に到達した人物・越前南次郎が全国大会決勝戦前に息子・越前リョーマを指導した際に投げかけた言葉だ。

これは、もっぱら作中世界で息子に語りかけた言葉のように見えるが、もしかすると、テニスの王子様の世界を見つめようとする読者にむけても語りかける言葉なのかもしれない。

 

参考資料:

ジャンプGIGA 2017 vol.1 掲載「許斐剛×藤巻忠俊 クリエイティブの秘訣お答えしますスペシャル」 2017年4月28日発売 集英社

テニスの王子様 公式ファンブック40.5 許斐剛先生 百八式破答集 2007年12月9日 発行

「桜咲くこの街で 大きく笑おう」

竜崎桜乃は想定される読者の立ち位置を体現する存在なのではないだろうか。

傍観者から当事者になろうとする、物語から正しく勇気をもらう人物のシンボルだ。

彼女の言葉は真実を覆い隠す傍観者ではなく、越前リョーマをまっすぐにみつめる彼女の越前リョーマに対する言葉から『テニスの王子様』と『新テニスの王子様』のストーリーの方向性が見えてくるだろう。

 

テニスの王子様は、登場人物の構成が他の週刊少年ジャンプ漫画である銀魂と同じような構造になっているように見受けられる。

銀魂はジャンプヒーローは坂田銀時なのであるが、主人公は志村新八であるといえないこともない。

テニスの王子様もジャンプヒーローは越前リョーマであるが、実は主人公は竜崎桜乃であると見ることもできる。

この場合の主人公はいわゆる典型的少年漫画主人公といわれる、ゼロベースから周囲の影響を受けて成長する”普通の”人間に一番近い、すなわち、漫画登場人物とは住む世界を異にする傍観者になるしかない読者と漫画世界とをつなげる人物のことを指す。

要するに漫画主人公とは別に読者との架け橋係が存在する物語構成となっている。

 

その読者との架け橋的存在である竜崎桜乃は今読者が読んでいる物語がどういう物語であるのか、すなわち我々読者が受け取るべきメッセージを教えてくれる。

テニスの王子様』『新テニスの王子様』の両方で竜崎桜乃越前リョーマに向けたセリフを見ると

テニスの王子様』では、「私も その………リョーマくんにテニスを教えてもらって…すっごくテニスが好きになって…」と言葉の向いている先は”テニス”である。それは、『テニスの王子様』が越前リョーマ(とその他王子様達)がテニスに出会う物語であり、

『新テニスの王子様』では、「どこの代表でもリョーマくんのテニスを応援してるから」と言葉の向いている先は”越前リョーマのテニス”になり、これは、『新テニスの王子様』が"越前リョーマ(とその他王子様達もそれぞれ)のテニス"が確立される物語であると、定義づけることができると考える。

 

読者は、『テニスの王子様』という漫画の最終回に際して、竜崎桜乃と同じように「Thank you!」と言えるようになることを想定されているのではないだろうか。

 

“テニスは人生”の法則を思い出せば、

テニスの王子様』からは我々読者は生きることを好きになるメッセージを受け取り、

『新テニスの王子様』は各々の人生を歩む自己肯定感を受け取る。

そして、

「今までの勇気を たくさん拾い集めて 桜咲くこの街で 大きく笑おう」

最終話まで読んだ『テニスの王子様』からもらった勇気を自ら拾って、集めて、新しい季節がくる自分がいる場所で大きく笑いたい。

今までの『テニスの王子様』が見せてくれた物にありがとうとお礼を言って、今度は自分の番だと、自分の道を今までのことを勇気にして前向きに歩いていこう、というのが、テニスの王子様の描き出した人生への肯定感なのだと思う。

 

ここから先は想像混じりの憶測になるが、

2020年早春公開予定の映画について、『テニスの王子様』と『新テニスの王子様』の間となる『新生テニスの王子様』は越前リョーマ越前リョーマの自我を獲得する物語になるのではないだろうかと想像している。 だから映画タイトルが「リョーマ」なのであれば非常に納得感がある。

そして越前リョーマテニスの王子様の物語で果たしてきた主人公の役割から考えると

この

テニスとの出会い

自我の確立

自分のテニススタイルの獲得

一連の流れは王子様として登場した全てのキャラにも当てはまるとすると、要するにテニプリはそういう人間の成長を記す物語と言えるだろう。

人間の成長を描く物語であるがために、テニプリにおける救い・カタルシス・浄化はそのキャラクターが成長する、成長カタルシスの表現方法を取る。つまり、成長した瞬間にそのキャラクターに救いが訪れるのである。

価値観の格付けがされない世界

試合は哲学と哲学のぶつかる場所だ。

どちらの希望の力が強いか。

試合相手は互いにとっての絶望の姿をしている。

 

主人公を誰にするのか、思い入れを誰にするのか、によって見える正義の形も希望の姿も変わってくる。

 

そこで『テニスの王子様』は青学が主人公でなければならなかった。

テニスの王子様』の爽快感はテニス以外に理由の無い青学だからこそ成立する。

不遇な経験をした不動峰でも、地方から寮生活をするルドルフでも、天性の能力をいびつに持ち上げた不均衡を飲み込んだ山吹でも、プライド高い氷帝でも、親の期待を背負う緑山でも、内地への見返しを誓った比嘉でも、ましてや難病から復活した部長と彼のためにと悲壮なまでの覚悟で歴史を守ってきた立海でも成立しなかった物語の爽快感は青学が主人公だから成り立ったものなのだ。

 

無印『テニスの王子様』で敗退していった学校はチームの形が少しづつ歪だ。

それはテニスに勝ちたい、テニスそのものにだけ向かい合う状態ではないことに起因する歪さだ。また、テニス以外に共有したい哲学があることは、個々人間で理由の捉え方に少しずつずれが生じる可能性があり、ひいてはテニスをするための理由がずれることで結果としてチームの形も歪になる可能性を孕む。

 

分かりやすく例えばの話を想像してみる。

例えばもしも立海大付属が全国大会で優勝してみよう。

彼らの病気の部長のために掲げた常勝無敗の掟は報われるだろう。

だが、どうだ。

先輩や顧問からのいじめに耐えて這い上がった不動峰の思いはどうなる?

勝つために地方から集められたルドルフは、

26年間の不遇の想いを背負って本土に乗り込んできた比嘉は、

彼らの勝ちたかった理由は、バックグラウンドは、立海のそれに比べれば報われなくても構わないものなのだろうか。

立海の想いのみが成就されれば良いのだろうか。

 

この全ての背景を一蹴してみせる方法こそが勝ちたいがために勝ちたい青学になる。

何かのために理由がなければ戦えないチームではない、テニスに勝ちたい思い、ただそれのみで繋がる青学が優勝することで逆説的に全ての生き方を否定せず順位づけもしない世界を構築することに成功している。

また、この戦う理由や背景、ひいては生き方の格付けをしないことが『テニスの王子様』のテーマである"爽快感"(テニスの王子様 公式ファンブック 40.5 許斐 剛先生百八式破答集 参照)につながる。

 

しかしながら、実は作中にこの青学と同じく勝つための理由を持たない、勝ちたいから勝ちたい思いで戦うチームが2校登場する。

六角中四天宝寺である。

 

そのため六角と四天宝寺の敗北は青学が敗北するかのような悲壮感が伴ってしまうはずなのだが、これを『テニスの王子様』はそれぞれ別の方法で綺麗に覆い隠し補う。

 

六角は青学の仲間として描き、

四天宝寺は彼らの一切の回想をなくし歴史の厚みを見えなくし、敗北の直後に遠山金太郎という可能性の象徴を登場させ、一気に前を向かせる。

 

六角と四天宝寺は作中での立ち位置も非常に青学に近しい存在になっている。

 

例えば、六角は合同合宿(ビーチバレーの王子様)エピソードに由来して彼らの果たす役割は青学の身内になる。この昨日の敵が今日の友になる身内への役割転換は比嘉戦で効果を発揮する。

 

四天宝寺の勝つために勝つという価値観(=勝ったモン勝ち)も『テニスの王子様』の世界観においては爽快感の基準になるポテンシャルがあったため、あえて一切のバックグラウンドが分からないような描かれ方をされているのだろう。

だから原作の四天宝寺は"得体の知れないバケモノ"のような雰囲気を放つのである。

四天宝寺が今まで勝ち上がってきた歴史を目撃してしまっては『テニスの王子様』の"爽快感"が表現しきれなくなってしまう可能性がある。

四天宝寺が全国大会準決勝までどうやって勝ち上がってきたのか、その一切を省かれ、あたかも最初から強いかのように見せることで青学の敵、更に言えば、"今まで対戦してきたどの学校をも上回る、予測不能な存在"で"今までの敵を全て上回っている"(テニスの王子様 公式ファンブック 40.5 許斐 剛先生百八式破答集)存在として見せられている。

 

そしてこのテニスの勝利以外に目的意識を持たない青学の全国制覇は、どんな事情にも筆者という外部からの視点で順序がつかなかったということだ。

逆説的に、全ての事情がそれぞれにとっては重要であったのだと尊重されたことになるのである。

だからこそ、何の事情も持たない、テニスそのもののみが理由の青学が主人公でなければ成立しない世界がそこにはある。

 

テニスの王子様』の世界では、戦う理由、すなわち、生きている理由に格付けがされてない。

テニスの王子様』の世界では逆説的な手法ではあるが全ての理由が順位づけされず肯定されているのだ。

比較で生きることを強いられない世界が生きる安心感に繋がり、生き生きと生命の輝きを放つことができるのは、想像に難くないだろう。

この世界を作る側から全て人の価値観が平等に尊重されている世界で生きているから、『テニスの王子様』のキャラクター達は生き生きとしているのではないだろうか。

 

キャラクター考_氷帝学園に魅せられるということ

本稿は、『テニスの王子様』におけるライバル校:氷帝学園について考察する試みである。

 

最初に断りを入れさせてもらいたいが、無印『テニスの王子様』は青春学園中等部男子テニス部が主人公のため、ライバル校の考察は非常に難しい。

ライバル校はどうしても主人公の属する青学のキャラクター達の目を通しての姿でしか見ることができない。

ライバル校のみをただまっすぐに目撃することは意外なほどに困難である。

当然といえば当然のことであろうが、今まで見てきたテニスの王子様は、全てのキャラクターが主人公だといわんばかりに、あまりに生き生きと描かれていたことで錯覚していたのだと思う。ライバル校キャラクターである彼ら自身が主人公となるストーリーは、漫画『テニスの王子様』で描かれた世界とは別基軸で存在しており、我々読者は漫画となって切り取られた部分のみを、しかも主人公越前リョーマ(とその所属校である青学)の目を通して観察しているにすぎなかった。

そんな中でも、"氷帝狂騒曲"と題した一話が描かれるほどに描写の多い氷帝学園とその所属キャラクターについて、彼らが読者へと語りかけるメッセージや哲学性を読み解こうと思う。

 

 

<プライドをもたらす者達>

人間の矜持を置いていこうとするときに、思い出させてくれる、それは忘れてはならぬと語りかけてくる存在、本当にそのプライドは捨てても良いものなのか、と問いかけてくるのが氷帝の人々だ。

だから、我々は氷帝学園中のキャラクターの前に立った時、彼らに恥じぬように生きたい、誇れる生き方をしているのか、と自らを再び鼓舞できるのではないだろうか。

 

氷帝学園中の正レギュラーキャラクターのそれぞれ代表的な台詞(決め台詞)を見ても、他の学校のキャラクターに比べて彼らのアイデンティティがそれぞれの美学に立脚していることが窺いしれる。

跡部景吾「俺様の美技に酔いな」

芥川慈郎「ボレーなら誰にも負けねぇ」

忍足侑士「攻めるん遅いわ」

宍戸亮「激ダサだぜ」

向日岳人「もっと跳んでみそ」

鳳長太郎「一球入魂」

樺地崇弘「勝つのは氷帝です」

日吉若「下剋上だ」

 対自分への言葉であったり、美しさが基準になっている言葉が多い。

(補完であるが、新テニスの王子様に登場した氷帝学園中等部OB現高等部所属の越知月光「さして興味はない」も自分基準の価値観をうかがわせる)

 さらには関東大会での顧問榊太郎の指導も以下のように己に問いかける言葉が使われる。

D1後「満足いく試合が出来たか?」

S1中「お前のテニスを見せてやれ‼︎」 

己の美学を確立させ、それに恥じぬよう戦ってみせるのが氷帝学園中である。

 

 

氷帝学園中は作中で青学と二度戦う。

 氷帝は作中で唯一真正面から青学に二度負けた学校である。(立海については関東大会は両者万全の状態ではなかったこと、また、不在の部長同士の様子を鑑みると、正面から挑んで負けたとは考えづらい。このことの詳細については、また改めて論考したい。)

 

全国大会氷帝氷帝テニス部は作中の桃城武の言葉を借りると

「二度負けるつもりはない氷帝は このリベンジに自尊心 油断 過去の栄光など 全てをかなぐり捨てて挑んで来ている」のだ。

 

敗北してもなお傷つかない魅力を有する。

気絶してもなお君臨した跡部景吾の姿こそが氷帝学園中の本質だ。

氷帝の奴らは全員が跡部景吾である。

その跡部景吾が象徴した姿、負けてもなお凛と立つ折れてはならないプライドと自信

表面的な美を失ってもなお残る美しさを彼らの中に見る。

 

敗北からの立ち直り、負けから学ぶもの、挫折から這い上がるという姿勢は跡部景吾以外の氷帝メンバーにも強く現れる。

それがわかりやす丁寧に描写されているのは宍戸亮ではないだろうか。

例えば、宍戸亮が自分なりのテニスを築き上げた流れ、橘に負けたことで大きくなったことで確立されたテニススタイルや、油断しなくなった、相手を舐めてかからなくなった精神の確立にもその姿をみることができるだろう。

 

 

彼らは総じて敗北との向き合い方が美しいのだ。

 

人生を生きていれば挫けることもうまくいかないこともままならないこともある。

その時になお歩みを進める、一層強く踏み出す、折れない精神こそが氷帝学園の姿であり、その姿に我々読者も自らの背筋を正したくなる。

正しい自己肯定感や、プライドを手に入れて、なお立ち上がる気概をもらう。

読者に、敗北では消えないプライド、そこから立ち上がる精神力、努力、正しい自己肯定感精神的な高潔さを見せてくれる集団である。

 

 

全力で挑んだ物事に敗れるというのは怖い。

負けると分かった上でも全力でぶつかっていけることは稀だ。

そこで失うものの大きさに足がすくむだろう。負けた時の無力感に絶望してしまいそうになる。

そんな時に「負けても自分のプライドの大切な部分は傷つかない」と教えてくれるのが氷帝学園中のレギュラー達だ。

 敵わないものへも全力で向かっていくこと、

敗北からも学ぶこと、

それでも折れない傷つかない精神的な志を大切にしていくこと、

彼らの戦い様からはそんな人生との向き合い方を教えられるのではないだろうか。

 

本当に無様であるとはどういうことか、そういう問いかけを発している。

またその無様であることへの抵抗感と恥と無様にみせない生き方を彼らが掴み取っていく姿が彼らのかっこよさであり魅力である。

 

それはまさしく『氷のプライド 誇り高き美学』なのである。

 

氷帝学園の魅力は何かと考えると結局たどり着くのが原作者の許斐剛テニプリFEVERの歌詞として各校につけたキャッチフレーズになる。

『氷のプライド 誇り高き美学』に惚れ込むのが、氷帝学園に魅せられるということ。

プライドと美学を共有した者たちの集まりが氷帝学園なのではないだろうか。

(なお、他のライバル校についても、その学校の魅力はどこかと尋ねられて一言にまとめようとすると、この各校キャッチフレーズにたどり着くと思っている。このことの詳細についてもまた改めて論考したい。)

 

 

以前本ブログでは青学が人生のどんなテーマをかけて各校と対戦したのかについて論考したことがある原作漫画を読み解く_無印で語られる具体テーマ - 超解釈テニスの王子様 人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)手前ながらこの考察によると関東氷帝戦は「チーム・仲間」をテーマに戦った。

この試合で敗れ、青学に雪辱を誓った氷帝は全国氷帝戦でチームとして勝つことに主眼をおいたオーダー戦い方をするようになる。

原作漫画中のシーンを拾うと、D2の榊監督「竜崎先生 これが勝つ為の我氷帝学園のオーダーです‼︎」、S2樺地「勝つのは氷帝です‼︎」D1「俺達は勝って跡部に繋げなきゃならねーんだよ」S1「しかし今の跡部は違う… 自分の欲求は捨てた」「部長としての選択だ 氷帝の勝利の為に!」

この流れからも氷帝学園が敗北から学び克服するという生き様を全うしていることがうかがい知ることができるだろう。

そしてさらに青学は氷帝を負かしたことでプライドも手に入れる。それはすなわち強豪校の自覚であり、自信だ。

 

比較による考察を深めるためにライバル校同士を比べてみる。

氷帝学園立海大附属の部長と他レギュラーとの関係性の書き分けがなかなかに難しいが、あえて表現するのであれば、

氷帝は、跡部景吾が頂点であり、

立海は、幸村精市が中心である。

跡部景吾氷帝の中心ではないし、幸村精市立海の頂点ではない。

氷帝メンバーは濃度の差こそあれど、全員が跡部景吾なのである。

立海メンバーは幸村精市ではない。

立海レギュラーは幸村精市の方向を向いているが、氷帝正レギュラーは跡部景吾のために戦ってなどいない。

氷帝は全員跡部景吾なのである。

氷帝学園所属として描かれるレギュラーメンバーは全員「より優れた他者の力を認め、自分が劣っていることをきちんと理解し、驕ることなくひたむきに努力をしているところ」(「テニスの王子様 BEST GAMES!! 手塚vs跡部」松竹株式会社 2018年8月24日発行 映画パンフレットP14 CAST INTERVIEWより)が魅力な王子様達なのである。

 

 

 

以下は、氷帝学園中男子テニス部正レギュラー内では芥川慈郎を愛する筆者による願望混じりのキャタクター考察。

 

氷帝学園は全員が跡部景吾である。

跡部景吾が頂点である。

彼は氷帝学園を体現する完全形である。

そして跡部景吾以外の全員は跡部景吾を目指す。

跡部景吾は「より優れた他者の力を認め、自分が劣っていることをきちんと理解し、驕ることなくひたむきに努力をしているところ」(前述BEST GAMES!! 手塚vs跡部パンフレットより引用)が彼の魅力の本質であろう。

そして氷帝No.2とされる芥川慈郎はその特性が陽の方向に全振りして出現していると見受けられはしないだろうか。(なお頂点である跡部景吾は陰陽全てを内包して「より優れた他者の力を認め、自分が劣っていることをきちんと理解し、驕ることなくひたむきに努力をしている」。)

芥川慈郎は氷帝学園中というチームにおけるバランサーになる。

彼の氷帝の哲学を共有しながらの陽のエネルギーが氷帝のチームとしての全人的なバランスを保つ。

全国大会準々決勝で彼はベンチであったが、このバランサー感覚が非常によく現れている。

氷帝がピンチの時(作品的には青学が活躍する時)氷帝は悔しがったり否定したりするような言動が多いが、芥川慈郎だけは肯定的なメッセージを発するに終始している。すごいものはすごい。驚くべきことは驚く。すごいものにはドキドキする。純粋なまでに。これは団体戦メンバーとしてはチームの勝利に執着しておらず自分勝手ともとれるが、一方で相手のことも素直にすごいと認めることができる人間性でもある。

だからこそこの勝利への渇望や熱量を青学が得た(であろう)この団体戦にはこの精神における対戦相手になり得ず出場できなかったのだろう。

 

20.5巻において原作者の許斐剛氏がインタビューで「芥川慈郎は一番キャラクターに変化があった。結果的に氷帝を明るくできてよかった」と語ったように、彼はその役割を集団の中できっちりと果たしている。

また、その彼がその真偽はどうであれ、氷帝学園実力No.2という強いキャラクターとして存在していることも、他に陽の方向に振ったキャラクターのいない氷帝学園において、絶妙なバランスをもたらした要因だと思っている。

 

ペアプリで原作者が「氷帝No2として出したのに、芥川慈郎を活躍させてあげられなかったのは後悔している」と語り、山吹戦で不二がD2で負けたことを「あんな風に簡単に描くべきではなかった。不二は簡単に負けさせてはならない」と語っていたことからも、おそらく本当に対戦相手が悪かっただけなのである。

不二周助を強いキャラにするために使われてしまったのが関東大会氷帝戦の芥川慈郎なのである。

 結局関東大会vs氷帝戦を見る限りだと、S2不二周助を圧倒的に強いキャラクターとして描くためだったような気がする。また、その後のS1への流れに沿うと、おそらくダブルスはダブルス専門、シングルスでも3と2、2と1との間に強大な実力の壁がそびえ立っているように読める。

 

『BEST FESTA!! 青学vs氷帝』感想とか何か色々書きたくなったこと

(前置き)

本当はTwitterで呟こうと思っておりました。

書きたいことを書き出していったら、あろうことか3,000字(ツイート20個分)近くなったのと、文字数制限140字を数えるのが面倒になった(こっちが本音)ので、ブログ活用します。

(前置き終わり)

 >細々としたシーン・曲ごとの心の声

・19日Get out the way

Get out the way「そうさ 俺たちは群れない~」

私(数分前のトークタイムでのカメラ写りこみ大会を思い出す)「いや、めっちゃ群れてたな?!」

 

・19日鳳長太郎パート

Days(リズムとか音程取るの難しそうな曲)歌う鳳長太郎もとい中の人浪川大輔さん「宍戸(楠田)さんがいないと不安です」

私「私も割と不安」(テニフェス2013まで様々な事情でソロゼロだったことを思い出す)

その後の宍戸&鳳デュエット曲Bring it on!で息を吹き返したようにかっこ良く煌めく鳳長太郎もとい中の人浪川大輔さん

私「宍戸さんの安心感たるや」

 

>個別感想

ジローのハーフパンツがトランクス設定が公式見解だということは分かっているんだ…!わかってはいるんだけども…!

あえて右足ロールアップ靴下見せうえだゆうじを見てしまった私はジローのハーフパンツもあれはあえてわざとやっているのではないかと思えてきてならない。

水色ストライプの方がかっこEじゃんっていうやつ…みんな知らないやつ…(ジローに夢を見たいオタクの妄想)

 

個人的な今回のMVPは小野坂昌也氏。

スタンディングライブに戸惑うというか遠慮がちで探り探りな客席を効果的に盛り上げていたし、初回公演ではどうやら調子のあまり良くなかったっぽ気なイヤモニの様子を微塵も感じさせもせず。さすがのベテランだと思い、ヤングがテニプリにいてくれて良かった!って思った。そこを分かりやすく見せずに隠すところまでがヤングの美学だからなあ。結構誤解しているオタクたくさん見るぞ。でも、それでいいんだろうね。そこがまた好き。ヤング、テニプリキャストでいてくれて本当にありがとう。ヤングさんがいるからテニプリここまで来てるところある。

しかもどうやら当日は足を肉離れしていたらしいという話を聞きさらに感服。

桃城武が、都大会決勝山吹戦S3で右足を痙攣したまま試合続行させた姿や全国大会準々決勝氷帝戦S3で額から流血しながらなおも挑んでいった姿を思い出して重なってしまった。

 

千秋楽の青学トークタイムでベストゲームスの話題になり

不二周助(cv.甲斐田ゆき)「順調にいけば、今年中に切原赤也を倒せます」(鬼かっこいい)

会場「きゃー!!」(圧倒的黄色い歓声)

甲斐田ゆき「あ、まだ全然分からないんですけど。来年かもしれませんが」

のくだりで思い出したけど、ここまで今度のダブルス2試合も含めて青学全然勝ってないのな。

ベスゲで青学が勝利するの第三弾の不二周助が一番最初じゃん?

勝って…主人公校…。

誰にとってのベストゲームズなんだ?

少なくとも試合した青学っ子当人たちにとってのベストではなさそう。

置鮎さんも「関東氷帝S1は手塚は勝っていないし怪我もするし嫌だ」って言ってたし、なんなら皆川さんも「手塚の痛がる姿は見たくない」って言ってたし…。

 

やっぱりテニフェスは最高だな、って思って。

テニフェスに何を観に行っているのか突き詰めて考えると推しが愛されているのを体感しに行っているんだろうなって思うんです。

オタクにとって推しは人生じゃないですか。

推しが愛されているのを目撃して共有して体感して「あぁ、私このキャラクターのこと好きで良かった。好きでいて良かった」って思って人生ごと丸ごと肯定されに行っているんじゃないかと思うのです。

テニプリは人生が肯定される場所。(宗教すぎる)

 

やっぱり生アフレコ凄いわ。

実在してるのを感覚神経に直撃で感じる。

 

跡部景吾は決して1人であの場所に立っているのではないのだな、というのをあまりに強く感じてしまった。

跡部景吾氷帝学園中等部3年男子テニス部部長の跡部景吾

榊監督の言葉を借りるなら「氷帝学園200人の頂点に立った男」

それはすなわち跡部には199人(原作設定にそえば正確には211人)の部員達がいて、彼を支えている。

頂点には底辺が、土台がしっかりなければ頂点とは成り立たない。

その跡部景吾が頂点に立つための土台はしっかりと氷帝学園が構えている。そのことを見た気がした。

さらに全員がトップを狙って頂点に向かって鋭利に研ぎ澄まされていく氷山のような雰囲気を形成する跡部景吾と彼に続く8人。がっつりその様子が見えて最高に痺れた。氷帝学園実在していた。

 

20日夜公演の氷帝トーク「自分が演じるキャラクターの今後の展開の希望」がすごかった。

あんな回答は自分のキャラクターのことを200%理解している人にしか言えない。

しかも全員キャラ的に大正解じゃん。

3年生卒業させちゃう日吉も、長身とマッチョで迷う向日も。

さらにそれをキャラクターとしてじゃなくてあくまでキャストとしての希望として語るあたりが流石すぎて。

テニプリ声優キャストは声優がメインの仕事ではない方々もそれなりにいる中、氷帝キャストチームは割と声優業をメインにしている人が多い職人集団の印象が強いんだけど、その氷帝チームだからこそできたトークタイムで感動どころか圧倒された。

 

やっぱり青学チームは出番も多いし長いしでこのキャラクターと18年間!みたいなのを今までも感じていたけど、氷帝の皆さんも、しかも跡部みたいに出番の多いキャラクターだけじゃなくて全員、氷帝の自分のキャラクターを16,7年間事あるごとには見続けてきた人達なんだなぁというのを強く強く感じたステージだった。

 

始まる時のBEST GAMES!!映像

審判「これよりシングルス1の試合を始めます」

置鮎&諏訪部両氏による冒頭5分の生アフレコ

手塚国光/Never Surrender

この流れ感動しすぎて変な声出た。

S1の試合してる手塚を降臨させるのに十分すぎた演出。

 

千秋楽公演の河村隆いつもの歌い終わりセリフのタイミングがあまりに神懸かっていた。

成さんが「ありがとう」と発したその瞬間に河村隆がスクリーンに映って神が降りた。

タカさんは「ありがとう」が似合う人だなぁ。

 

今回氷帝チーム割と感極まっていたように見えて、そのことに感極まった私。

 

今回氷帝本当に良くて、氷帝割とキャラクター生きてた。

「うわ〜!いる〜!!」ってなった。

個人的な最も生きてるキャラクターは向日岳人さんでした。

向日岳人「おい、侑士。こっちはアクロバティックで有名な菊丸だぜ」って出てきた瞬間、

私「うわわわわわ岳人いる!!生きてる!!ちょっと!実在してるんだけど!!」って震えた。

 

氷帝ファンへのご褒美テニフェスだったな。

氷帝のフィーチャーされ具合が大きくてキャストさんの熱量もコミットも大きくて。

 

氷帝の影の濃さは寒さに由来する気がすることに気が付いた。

氷帝が良いとゾクゾクするのが寒気に似ている。

だから氷帝が強くなると温度は下がって空気が凍てついていく。

ゾクゾクさせてくれればさせてくれるほどに空気は冷えていき、まるで氷の世界に連れて行かれたように感じる。

冷たい氷の世界には光もどんどん届かなくなっていく。

だから影が濃くなっていく。

あたり一面が張り詰めたみたいなキーンと凍るようなまさしく氷の帝が降臨したような雰囲気にしてくれる。

氷の反射する光でのみ輝く世界がどんどん構築されていく。

それがあまりにかっこいいし、THE氷帝学園

それを体感してまた私たちは寒気にも似たゾクっと感を覚えるという無限ループで氷帝学園エゲツないほどにかっこいい。

 

そして、

青学は光。

何かが開ける 闇を切り裂く光。

眩しい 暖かい

そして色鮮やか

あらゆる色に光る 光の奇跡の虹。

氷帝が凍らせた世界を切り裂いて届く世界を照らす光。

 

20.5巻で先生がライバル校達は青学にとってそれぞれどういう存在か?というのに答えているのですが、その時の氷帝の答えが「大ボス的存在」なんです。

しかもこの先に続くのが「青学が完全に挑戦者の立場にまわる、関東最大の壁です。」と続く。

今回のベストフェスタ青学vs氷帝は完全にこの体現。

特に本編ラストの学校曲Get out the way→Tricolore。

漫画が具現化したと思った。

テニスの王子様という青学が主人号の世界では主人公になることはない、永遠の青学のライバルとして存在する氷帝学園

お互いが強くなればなるほど互いが強くなるライバル校同士。

それが青学vs氷帝

いや〜ドラマチック!!

それでいて中の人々は「先輩を卒業させたい」だの「ハイスクール氷帝で高校1年生になりたい」だの「日常スピンオフが見たい」だの、そうだよね〜!中の人達にとっては主人公じゃないとかライバル的立ち位置とかそんなの関係ないもんね!その子の人生まっすぐに見つめてるんだもんね〜!!ってなって嬉しくてさらに感動。

 

氷帝学園ってどういう学校なのよ?って考えた時にたどり着いたのが、原作者の許斐剛作詞テニプリFEVERの歌詞で与えられた「氷のプライド 誇り高き美学」という言葉だと思うわけだ。氷帝レギュラー陣の決め台詞も己の美学にこだわった言葉が多い(比較のために持ち出すけど、立海(20.5巻「一番の強敵」)は、対相手への威圧言葉が多い)。

出演校が絞られたことによって氷帝にあたるスポットライトが増えたから見えたのか、青学とはまた違う雰囲気を纏いながらステージを作る氷帝キャストに「氷のプライド 誇り高き美学」を感じた。

氷帝学園は美学を共有する者達なんだよなぁ。(また氷帝についてがっつり考察したい。)

 

ベスフェス〜Are we cool?〜歌ってる時のキャストさん達が学校ごとに前に出てきて「Are we cool?(自分たちかっこいいこと知ってる顔)(当然かっこいいだろ?というテンション)」

最高にかっこよくでCOOLでテンション上がったな。

 

ペンラ持って行って振ってたけど、DISCOVERとかベスフェスとか"握れ拳"だの"拳を掲げろ"とかいう歌詞に触発されてテンション上がって最終的にペンラが邪魔になってしまい、ペンラ放棄して拳突き上げて楽しんだ。

ライブで拳握って掲げるの力がみなぎるようで大好きなんだよね。なんていうかすごい勇気出る。

 

笑って泣いて感動して元気もらって。

テニスの王子様はやっぱり自分がこの世に生を受けたことが祝福されているように感じさせてくれるんだよなぁ。

テニスの王子様に出会えて楽しめたこの奇跡に感謝したい思いでいっぱいになってZepp Divercity TOKYOを出ました。

"解釈違い"の果てに

ここでは、"公式が公式設定を覆したこと"を解釈違いと定義づけよう。

そうすると、テニスの王子様の解釈違いは私個人が簡単に思い返すだけでも以下のような事案があった。

 

・漫画

上(兄・姉)兄弟が後付けで出てきた

同じファンブック内で試合オーダーが異なる

本編とファンブックで試合結果が違う

キャラクターの名前が変わる

 

・アニメ

漫画と兄弟姉妹構成、所属委員会が違う

アニオリ展開(アニメオリジナルキャラクター、原作にはない試合、試合展開が異なる)

悪夢の関東立海

キャラクターの髪の毛の色が違う(跡部、芥川、佐伯、柳生)

ミニキャラコント

一部キャラソン(いわゆる"キャラ崩壊")

キャラ声での声優キャスト私的ラジオトーク(いわゆる"キャラ崩壊")

 

・ミュージカル

キャラクターが消える

顧問がいないことによるセリフ再編

演者の判断で披露される日替わりネタ

 

などなど…

 

要するに何が言いたいかというと、数多の解釈違いを経験しているのだ。

そして、その先に在るのが現在のテニプリテニスの王子様・新テニスの王子様)である。

 

そんな解釈違いとは無縁ではなかった中、連載開始から20年が経ちながらもファンがい続けるテニスの王子様について、ファンや消費者は何を以って、公式供給物をテニスの王子様のコンテンツであると認識しているのだろうか。

テニスの王子様である」とは、どういうことをいうのだろうか。

 

多くの人に認識され、発信されてきたテニスの王子様

その多くの人々の手に渡っても共通して生き残っている要素、異なる部分が有ってもなお全てのテニスの王子様コンテンツで共有される価値観がテニスの王子様の真髄なのではないだろうか。

それはまるで様々な人の手を経て編纂され読み継がれてきた聖書や仏典のようにも見える。

傷ついて傷ついた先にその奥に残ったものがそれでも傷つかなかったものがコンテンツの真髄になるのではないか。

 

そしてまたそれと同時に、今までとは異なった情報や有り得ないような展開をも受け止めて許して存在を認めること。

発信者を信じ、発信者側も信じる側の人々に真摯に向き合う、という有機的な相互やり取りの関係性であるが故に生じる解釈の余地。

この伸縮性と懐の深さがテニスの王子様なのかもしれない。

 

絶対に揺らがない"核"

全てを受け止める"許容力"

この2つを兼ね備え続けていることを我々はテニスの王子様だと認識しているように思える。

 

 

"終わらない世界で 見つけたい答えを 両手広げいますぐ受け止めたい

全て抱きしめて 届けたい未来へ この願いを信じて 歩いてゆくだけ

 

止まらない世界で 探したいゴールを 一人では見つけられないとしても

今を抱きしめて 託したい思いを 一つ一つ集めて 歩いてゆくだけ"(Gather/青と瓶と缶)

 

 

正しいことも正しくはなかったことも全て抱きしめて、今まで一つ一つ歩んできたものと今いる場所とこれからの未来、それらがテニプリテニスの王子様・新テニスの王子様)というコンテンツの真の姿なのかもしれない。

 

 

(以下、余談。)

(2018年12月Twitterで解釈違い騒動が起きました。その発端となったヒプノシスマイクについて私はほぼ知識ゼロなので詳しいことはよく分かりませんが、「こっちよりもマシだろ」と言うつもりは毛頭ありません。「その傷はいつか見た傷」。おそらく我々も同じ痛みを知っていると思う。そういうこともあるよね。慰めあおう。と思いました。公式が出した設定を公式自ら無視された傷は癒えないと思います。オタクは癒えない傷をかかえてオタクを続けるしかないと思います。それでもその先にしか見えないものもきっとあるんだと思う。多分だけど。)