超解釈テニスの王子様  人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

人生への圧倒的肯定を描き出す『テニスの王子様』と、その続編『新テニスの王子様』についての個人的な考察を綴ります。 出版社および原作者など全ての公式とは一切の関係はありません。全ては一読者の勝手で個人的な趣味嗜好です。 Twitterアカウント:@namimashimashi

《ショー》・マスト・《ゴー・オン》-君島育斗&白石蔵ノ介ペアを考える

※タイトルに脱字があったため、アップロードし直しました。

 

『新テニスの王子様』U-17 W杯 準々決勝 日本vsフランス D2君島育斗&白石蔵ノ介vsトリスタン・バルドー&ティモテ・モローの試合と、楽曲『go on/白石蔵ノ介 』について書きたい。

 

まず第一に、私はこの試合が大好きなのだ。

めちゃくちゃ面白くて好きな試合だ。

 

そもそも君島育斗の試合が面白い。

君島がプレーする試合は、君島育斗の能力(スキル)『交渉』が存分に生かされる試合展開になっている。

交渉が成立すれば君島サイドが勝利し、失敗すると敗北となる。

詳細は割愛するが、W杯前の合宿所での入れ替え戦も『交渉』に沿った試合展開になっている。(参照:『新テニスの王子様』9巻10巻Golden age84〜90)

この君島&白石vsトリスタン&ティモテも、試合途中で『交渉』のテーブルに事前になかった手札:"トリスタン&ティモテが2人とも両利き"を出されて交渉成立のシナリオが崩れる。

 

日本vsフランス戦D2は、ストーリー展開も上手い。

最初はポージング対決の突拍子もなさにゲラゲラと大笑いしてたのが、試合が後半に進むにつれて真剣勝負の試合展開に引き込まれて行き、カミュが「可笑しいねいつの間にか4人共ポージング対決忘れてるよ」と言う頃には読者側も最初のポージング対決を忘れて漫画を読むようになっている。まるで漫画世界と読者心情がリンクするかのような感覚を覚える。

また、決着スコアだけ見ると日本ペアは結構な惨敗であるが、内容の描き方で白石にも君島にも魅せ場がちゃんとあり、さらには白石の成長物語にもなっていて、でもしっかりフランスが勝っているのでフランスの格落ちにもなっていない。

ストーリーの上手さは応援で描かれる人選にも現れており、試合後半Golden age240可笑しなイケメン達においてベンチで切原赤也がヤジを飛ばして、それを遠野篤京に諌められる(殴られてる)が、これは、

・5番コートvs3番コートの総入れ替え戦D2で白石蔵ノ介と切原赤也がペアを組んだこと

遠野篤京と君島育斗がダブルスを組んでいたこと

・U-17W杯大会vsギリシャD1で遠野篤京切原赤也がペアを組んだこと

以上3つを踏まえて成り立つ描写で、ここまでの『新テニスの王子様』で展開された人間関係を綺麗に踏襲している。

 

そして、とりわけ印象的なのが、白石蔵ノ介のキャラソン『go on』の歌詞から引いてきたようなサブタイトルGolden age237 so attack。

『go on/白石蔵ノ介』は、テニプリフェスタ2016合戦テニプリソング1/800曲!の投票で総合4位ソロ部門2位に選ばれている。

2010年4月の発売から支持され続けるテニプリソングの中でも色褪せない名曲の一つだ。

 

本稿のタイトルに用いた"The show must go on."。

この試合は白石蔵ノ介と君島育斗とのペアだ。

この試合の白石のパートナーが種ヶ島ではなく君島だったのは必然だ。

 

審判が試合開始を告げた直後に君島は言う。

「さぁショーの開幕です!」

 

この試合はショーだ。

 

The 「Show」must「go on」.

君島育斗&白石蔵ノ介の組合せだったからこそ導くことができる力強いフレーズが見えてくるのではないだろうか。

 

 

この試合の中で白石が掴み取った『星の聖書』(スターバイブル)も幸村が言うように「ずっと『聖書テニス』に拘り続けた」から辿り着けたものだ。

今までの過去の上にある今日。

ギリシャ戦S3の時のような苦味を残したことも無駄な一日じゃない。

自分の人生(スタイル)を進み続けた先の答えだ。

go onの歌詞に「目指してくその場所は変わることのない一本道」とあるが、星の聖書は、聖書テニスを変わらずに進み続けた先に辿り着いた場所なのだろう。

 

Golden age237。「so attack」。

拳をもう一度握るぎゅっと

まだここじゃ終わらない。終われない。

進み続ける意志を硬く結ぶ一試合だ。

 

私はこの試合が大好きだ。

この試合を読むと前を向く力が湧いてくる。

 

余談だが、「show must go on」は故・ジャニー喜多川氏の座右の銘でもあったし、イギリスの伝説的ロックバンドであるQueenにも『The Show Must Go On』という楽曲がある。このフレーズに込める決意を、力強さを、覚悟を、感じる。

youtu.be

 

最後に、白石蔵ノ介の座右の銘についても触れておきたい。

白石は、今までに公開されたプロフィールで座右の銘が3度変わっている。

その変遷は下記の通り。

 全国大会準決勝後 無印40.5巻 有終の美

 W杯ギリシャ戦後〜フランス戦前 新23.5巻 「…この質問パスしてええか?」

 W杯フランス戦後 テニプリパーティ No man is an island.(和訳:人は一人では生きていけない)

 

終わりを超えて、迷いを経て、その先に踏み出す。

そんな姿が見えてくる。 

 

 

ショー・マスト・ゴー・オン。

何があっても止めない。続けて行こう。

keep it tough

go on 白石蔵ノ介(細谷佳正) 歌詞情報 - うたまっぷ 歌詞無料検索

そこから 未来を 始めてるんだ。

「ギリシャ戦が面白い」と言いすぎて理由を書くよう勧められたので

ギリシャ戦は面白い。

『Bloddy Dance』/遠野篤京

遠野篤京の「Bloody Dance(アニメ「新テニスの王子様」) - Single」をiTunesで

と『閃きCHAY BOY☆』/種ヶ島修二

種ヶ島修二の「閃きCHAY BOY☆(アニメ「新テニスの王子様」) - Single」をiTunesで

を聞きながら読むともっと面白い。

越知月光のギリシャ戦モチーフ楽曲が2020年9月22日現在で未だ無いのが残念極まりない。

2020年2月20日に『新テニスの王子様 We LoveテニプリCh #15〜平等院・鬼がやってきたSP〜』で平等院鳳凰役:安元洋貴氏と鬼十次郎役:遠藤大智氏がフリートークで「ギリシャ戦は面白いと思いますよ」とniconico生放送の視聴者コメントを拾って会話が続いたくらいには面白い。

なお、平等院も鬼もギリシャ戦には出場していないキャラクターだが、この評価である。

ギリシャ戦は面白いのだ。

 

さて、閑話休題

 

この「ギリシャ戦が面白い」について掘り下げて考えてみた。

 

 

Young Men's Christian AssociationことYMCAは、その正章ならびに略章に「精神(心)spirit」「知性mind」「体body」を掲げ、この3つが調和した全人的な人間を育成するシンボルとしている。(東京YMCA. "YMCAとは". 

https://tokyo.ymca.or.jp/about/ , 広島YMCA. "YMCAのロゴについて".

http://www.hymca.jp/about/logo.html , 鹿児島YMCA. "YMCAについて". 

http://kagoshima-ymca.org/?page_id=41 , (2020-09-22))

注釈)なお、YMCAは2017年10月にロゴとスローガンを新しくしている。詳細は日本YMCA同盟のWebサイトや全国各地のYMCAが発信している情報を参照されたい。

 

 

この「精神(心)spirit」「知性mind」「体body」になぞらえて読むと非常に面白い団体戦が『新テニスの王子様』にある。

18巻&19巻Golden age178〜195のvs ギリシャ戦だ。

 

第1試合〜第3試合まで「精神(心)spirit」「体body」「知性mind」の順に展開される。

以下、各試合を簡単に紐解く。

 

 

・「精神(心)spirit」

第1試合 ダブルス2 タラッタ・ヘラクレス&パパドプーロスエヴァゲロス vs 越知月光&大石秀一郎

最初は『無邪気なしっぽ(アベレース・ケルコス)』と『マッハ』のサーブ合戦に加えて大石の領域(テリトリー)と『蜃気楼は語る(アンディカトプリズモス ディエルケスタイ)』で技の見せ合いで始まる。

その後、試合中盤4-4時にヘラクレスの『オリンポス 白銀の光(レウコンアルギュロスポース)』と越知月光の『精神の暗殺者(メンタルアサシン)』発動から精神面での潰し合い合戦になっていく。

キーポイントは、敵にも味方にも精神的重圧をかける越知月光の『精神の暗殺者』への対応だ。ヘラクレスの『オリンポス 白銀の光』は精神攻撃系ではなく、自らの身体能力を覚醒させる技である。

エヴァゲロスと大石の中学生二人はどちらも越知月光の『精神の暗殺者』の重圧は耐えられない。

一方でヘラクレスについて、自身は、越知の『精神の暗殺者』には『オリンポス 白銀の光』で覚醒させた身体能力で対応できるが、その後の大石の大和魂の前に精神的重圧がかかり迷いがでてしまい、互角だった技の打ち合いに競り負ける。

ここでは時系列が重要である。

・技同士はほぼ互角

・越知月光の『精神の暗殺者』への対応方法

・『精神の暗殺者』から生き残った者同士対決で大石が仕留める

この三段階の順番がどれか一つでも入れ替わると違う展開になっていたであろう。

総括すると、越知の能力『精神暗殺』で確実に1人を仕留め、相手の攻撃で精神が殺されず生き残った大石の日本ペアの勝利、となる。

 

・「体body」
第2試合 ダブルス1 アポロン・ステファノプロス&オリオン・ステファノプロス vs 遠野篤京&切原赤也

言わずもがな、誰が見ても視覚的に分かるであろう物理的な身体攻撃での潰し合い試合。

血飛沫が舞う処刑対決。

処刑法は、遠野もステファノプロス兄弟も身体への物理攻撃だ。

ゲームカウント4-4の時に、兄者アポロン介錯完了と遠野の限界で互いに1人ずつ動けなくなるも、残ったもう1人のダメージが日本の方、つまり電気椅子1回で眠らされていただけの切原赤也の方が、介錯を残すのみまで処刑法を喰らっていた弟者オリオンに比べてダメージが少なかった。そこに能力ブーストの悪魔化が加わり勝負有り、となる。

この試合の決着については、直前まで有利を確信していた弟者オリオンが、突然の形勢逆転かつ1人残されたかつ悪魔を相手にする展開に、大いに焦り、精神的にもノックアウトを喰らってまともに動けなくなった。という見方もできるだろう。

また、人間の処刑法では悪魔は処刑できなかった、と見ることもできるかもしれない。

いずれにせよ肉体攻撃の物理的な潰し合いとなった試合である。

 

・「知性mind」
第3試合 シングルス3 ゼウス・イリオポウロス vs  種ヶ島修二

「知性mind」としたが、「精神(心)」と「体」ではない人間の構成要素であり、精神(心)spirit・知性mind・体bodyを心・技・体にすると"技"にあたる試合。

名前の通りの"オールコントロール"試合の全てを支配する能力持ちの全知全能ギリシャ神話の神々の王であるゼウス神に対抗する、無効化能力持ちの種ヶ島修二、な構図となっている。

ここでキーポイントになるのが、種ヶ島の無効化技の名前が仏教用語の『已滅無』を採用されているところだろう。

見方によっては、ギリシャ神話vs仏教の様相を呈している。

つまり、人間の信心的な部分の概念を能力にしている者同士の試合になっている。

結局、試合自体は、"無い"ものは"支配"できないということで種ヶ島に軍配が上がる。

付け加えて、この試合が上手いのは、上位概念の捉え方をすると思想系能力バトルだったにも関わらず、というよりも、"だからこそ"、かもしれないが、優劣ではなくて『無』vs『支配』といった相性で勝敗が決まったように読むことができるようになっているところだと思う。

 

ちなみに、余談だが、西洋系思想において「無」が語られていることはほとんど無い。西洋思想では「有」が先立つことが主で、「無」は概ね「有」の対立概念否定概念程度である。東洋やインド系統の思想のように「無」そのものについて論じたりしていない。

 

 

ギリシャ戦は、全人教育が目指す人間像、すなわち、知識・感情・意志の調和のとれた人、the whole person, all-rounded personを構成する人間の全部の要素を分解して全三試合に分配した団体戦だと読むことができるだろう。

 

文字通りの"人間"ドラマになっている。

 

 

そして最後に述べておきたい以下個人的な感想。

 

無印の『テニスの王子様』の頃から引き継がれている部分ではあるが、『新テニスの王子様』の一番面白くて上手なところはこの上位概念が作中で言語化されていない部分だと思っている。

登場人物たちは「これは精神の闘いだ」といった内容はセリフやト書きで言わないのである。

あくまで、彼らは各々のテニスで試合をして、自分のテニススタイルで勝利を目指して、結果的にテニスの試合の勝ち負けがついているだけなのである。

メタ認知しようとすると思想的なぶつかり合いに見えなくはないものが、表現の次元で純粋なバトル漫画に落ち着いている。

この、ある意味での"はぐらかし"が、各方面への配慮が求められる現代において世界大会編を大々的に展開することができる一面なのではないかと思う。

キャラクター考_主人公校とライバル校に関する観測

ふと、思ったのだけども、無印『テニスの王子様』で明確な団体戦の勝ち試合描写が無い学校は【聖ルドルフ・六角・緑山】の3つだけではないだろうか。

 

主人公校の青学以外のいわゆるライバル校の中でも【不動峰聖ルドルフ・山吹・氷帝・緑山・六角・立海・比嘉・四天宝寺】のベストゲームスシリーズOP映像に出てくる9校中のカウントではあるが、他の6校はどこかに明確に団体戦に勝つ試合の描写があるかと思われる。

名古屋星徳をこの中に混ぜるか悩みどころだがレギュラー選手全員分の名前が作中に出てないので除外。

氷帝は微妙だけど都大会コンソレーション勝上りに裕太vs慈郎の試合描写が回想数コマだけどあるので勝ち描写に含めるとする。

 

その上で、セリフやトーナメント表だけでしか勝ちを確認できないのは【聖ルドルフ・六角・緑山】3校だけではないだろうか。

 

全校青学に敗北しているのは自明だが、勝利校は以下の通り。

不動峰氷帝(都)、山吹(関東)

聖ルドルフ

山吹→不動峰(都)

氷帝聖ルドルフ(都)

緑山

六角

立海→愛知六里ヶ岡(全国)、名古屋星徳(全国)

比嘉→六角(全国)

四天宝寺不動峰(全国)

また学校単位での観測対象として主人公校の青学を除いたら上述9校を抽出するのにベストゲームスシリーズのOP映像登場校を選んだ理由として、ベストゲームスシリーズの監督川口敬一郎氏の言葉を参考にしている。(『THE PRINCE OF TENNIS BEST GAMES‼︎ 手塚vs跡部』封入特典ブックレットSTAFF INTERVIEWなど)

 

聖ルドルフは青学の身内がいる。

緑山はコーチ枠で南次郎とつながりがある。

テニスの枠外で青学身内枠。つまり、読もうとすると明確な勝ち描写の無い【聖ルドルフ・六角・緑山】この3校は青学身内枠なのではないだろうか。

すなわち、勝利の爽快感や救済は青学が身代わりできる存在として判断されたのでは。

 

また、私は、ライバル校の中でも不動峰と六角は主人公サイドだと読んでいて、でもこの2校の立場は明確に異なっていて、不動峰は好敵手で六角は身内っぽい。と思っていたら20.5巻に原作者の的確な表現があった。「不動峰は仲間、六角は兄貴分」(P239)

不動峰と六角は、従来の少年漫画では主人公サイドが経験するであろう敗北イベント、無印『テニスの王子様』での青学が経験するであろう敗北を肩代わりして経験した2校と読むことができるのではないか。

 

いずれにせよ無印『テニスの王子様』は無我の境地や天衣無縫の極みの扉を開くきっかけが無意識の体の記憶であるため、越前リョーマが過去に対戦したり観戦したりした選手すべてが最終奥義に繋がるので主人公による身代わりの擬似勝利はラスボスの幸村精市を除く全ての登場人物につながっているのであるが。

注釈として幸村精市の救済については、越前リョーマとの直接対決という形で昇華されていると読んでいる。(この件の思考については過去の記事にて仔細に述べている。例:https://namimashimashi-tpot-373.hatenablog.jp/entry/2020/01/16/202318 、 https://namimashimashi-tpot-373.hatenablog.jp/entry/2019/01/05/032649 )

 

私はテニスの王子様の「一度試合に勝ったからと言ってそれで強い弱いが決まる訳ではない」価値観が好きだ。

2018年3月2日許斐剛のパーフェクトLINE LIVE!で許斐剛が話した言葉である。

他にも、テニスの王子様20周年アニバーサリーブックTENIPURI PARTY テニプリパーティー 一問一答ラリー内Q9「日吉くんと鳳くんはシングルスで戦うとどちらが強いですか?」A.「鳳くんのサーブの調子によって勝敗が変わります。」(P166)と記載されている。

実はこの法則は全団体試合全勝の主人公校青学ではなく"青学の仲間のような一緒に伸びていく"(テニスの王子様 公式ファンブック 20.5  P239)不動峰によって作中で提示されている。

無印『テニスの王子様』ではその通りに、不動峰vs山吹は2回対戦があり勝敗が変わるのである。オーダーの組み方やその時の選手の調子によって変わるものである。

『新テニスの王子様』まで含めると手塚国光vs跡部景吾は無印と新とで勝敗が変わっている。シングルスとダブルスなど違いはあれど。

 

何が言いたいのか、みたいなところであるが、

・ライバル校と一口にまとめても主人公からの立ち位置に違いがあるように設計されている

・近しい存在の勝利がもたらすカタルシス

・勝利の刹那性と強くなれる可能性の提示

この辺りを表現しているのは試合外での青学身内ライバル校の存在も大きいのではないか、という話だ。

 

勝利描写はないが、聖ルドルフ・六角・緑山がテニスの王子様のストーリーの中で担う役割は大きいだろう。

でないとやってられない、という個人的な願望もこめつつ、今回は一旦筆を置く。

愛されるよりも愛したい

テニスを。

 

 

テニスに愛されるよりもテニスを愛したい。

その生き方を魅せてくれている奴らがいる。

 

 

この文章は、ジャンプSQ.2020年7月号が発売され、Golden age302『零感のテニス』までを読み終えて考えていることである。

 

U-17 W杯準決勝S2幸村精市(日本)vs手塚国光(ドイツ)の試合が展開されている。

この試合は、作者の許斐剛から「テニミュ立海で涙した皆にも是非見て欲しい。」(ジャンプSQ.2020年5月号 巻末作者コメント)と言われて始まった。

テニミュ立海とは、2020年2月16日に大千秋楽を迎えたミュージカル3rd season テニスの王子様 全国大会 青学vs立海 後編のことであろう。

上記演目は無印『テニスの王子様』の最終決戦である越前リョーマvs幸村精市の試合であり、越前リョーマが『天衣無縫の極み』の扉を開いて幸村精市に勝利し青学が日本一を決めた無印『テニスの王子様』の最後までを見せるストーリーだ。

 

このこともあり、幸村vs手塚を読むにあたっては無印の越前vs幸村を頭においている。

 

そして最新話Golden age302『零感のテニス』までを読んで頭に浮かんだのは、

テニスに愛された越前リョーマ

テニスを愛した幸村精市

対比のような構図だった。

 

 

人生は望んだ物を得られなくても生き続けるのである。

 

幸村精市はこの手塚国光とのシングルスマッチに臨むにあたり、自らが所属する学校の後輩である切原赤也にこう宣言している。

「【天衣無縫】にならなくてもテニスを諦めなくてもいい事 自分が証明する」と。

 

 

たとえテニスに愛されなかったとしても、テニスを愛し続ける。

愛されたかったものから愛されなかったとしても、自分が愛し続けることは自分の意思で可能だ。

その生き方も否定される言われはない。

 

 

聖書の言葉を引こう。

 

使徒言行録 20章35節

"あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。"

(新共同訳)

 

幸せには、自らが受けるのを望むよりも自らが与える。

自分の幸せは相手の行動を待つのではなく自分の行動で掴もう。

 

テニスに愛されるよりもテニスを愛することを目指す。

その幸いを感受するテニス人生だって真なのだ。

 

自分がテニスを好きだ、と疑わずにいられるか。

自分は強くテニスを愛していると、他の何よりも自分に言えるか。

今、この瞬間、テニスをする、テニスを選んだ自分を自分で裏切らない。自分に嘘をつかない。自分を信じる。

 

誰かと比べた相対的な強さではない、絶対的な基準で自分一番、誰よりもテニスを愛しているのだ、と言えるか。

 

その強いテニスへの気持ちを持っているのが幸村精市なのではないだろうか。

 

ここでもう一度、聖書の言葉を引く。

ローマの信徒への手紙 5章3-5節

(前略)"苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。"(後略)(新共同訳)

 

希望が苦難の中にある。

苦難が希望に繋がる。

 

座右の銘に「冬の寒きを経ざれば春の暖かきを知らず」と掲げる、Golden age161で「テニスを出来る喜びは 俺は誰よりも強いんだ‼︎」と自らを鼓舞して五感剥奪の暗闇から自力で抜け出した幸村精市に、苦難の中から生まれる揺るぎない希望が降るのだと、神に祈るように信じたい。

 

 

『新テニスの王子様』Goledn age 296から始まったU-17 W杯準決勝S2幸村精市(日本)vs手塚国光(ドイツ)では、「天衣無縫にならなくてもテニスを諦めなくていい事を自分が証明する」と宣言して天衣無縫の極みこと矜恃の光を発現させる手塚国光との試合に臨んだ幸村精市ではあるが、考えてみると、現在の日本チーム高校生でGenius10と呼ばれるU-17メンバーの上位11名のうち天衣無縫の極みに到達していることが分かっているのは鬼十次郎1名のみである。

また、プロで活躍しているスイスチームのアレキサンダーアマデウスのテニスは闇(ダークサイド)であり、光ではない。つまり矜恃の光になれるかどうかは判明していない。

さらに、矜恃の光の三種の精神派生を体感吸収したドイツチームのQ・Pは矜恃の光になったのではなく、究極の品質に、テニスの神になった。そして矜恃の光の心強さの輝きとなった鬼十次郎に試合で勝利した。

『新テニスの王子様』において無印『テニスの王子様』の最終奥義であった【天衣無縫の極み】の扉を開く=【矜恃の光】を発現する、それがテニスで上を目指し続けるためテニスを諦めないことへの唯一解ではないことが伺える描写もあると見ることができるだろう。

 

 

ここで、天衣無縫の極みに到達しないキャラクターでもう1人言及しておきたい人がいる。

跡部景吾である。

才能を努力で自らの生きる道をもぎ取って強くなった男だ。

跡部景吾の努力については様々なエピソードはあれど、原作漫画『新テニスの王子様』Golden age43跡部王国の回想で描かれた子供の頃の英国在住時代のエピソードが顕著だろう。

彼は「それしか俺の生きる道はなかった」と語る。そして"誰よりも強くなっ"た。

 

追い続けて追いかけて追いかける。

その先にある物もあるのではないだろうか。

 

話が逸れてしまう上に個人の趣向になってしまうが、『The Prince of Tennis BEST GAMES!! 不二vs切原』のキャストオーディオコメンタリーTIME 30:05〜30:45で切原赤也役の声優キャストの森久保祥太郎氏が切原赤也について語り、越前リョーマ役の皆川純子氏が同意する「赤也って先輩を"超えたい"と感覚がすごい強い。僕だと役者の業界にいて超えたいという感じって持ったことなくて超えるというよりも追いかけたいというのがある」「超えたいとうのはなかなか描きにくいかも」(内容は一部省略。意訳。)という言葉が好きだ。

 

他にも、日吉若の魅力に唐突に目覚めた瞬間があった。

敵わないものへ挑み続けることができる。

今は敵わないものを倒す未来を思うことができる。

その姿勢に惹かれるのである。

 

遠野篤京のその瞬間瞬間に全身全霊をかけたプレイスタイルもそうだ。

 

『新テニスの王子様』Golden age242〜247フランス戦D1における毛利寿三郎から柳蓮二への言葉「お前まだビッグ3とか言うて立海の3番手として偉そうにしとるん?」「どうせなら1番てっぺん狙いんせーね」は、「自分にリミッターば掛けていた」柳を「己の中の呪縛から解き放」った。

毛利寿三郎、経験者はかく語りき。

どんな方法でも1番は狙えるが、狙うかどうかを決めるのは自分自身である。

勝つと本気で思えるか。1番になるのは自分だと自分で思うことができるか。ある程度で満足せずにいようとするか。

 

この価値観は『テニスの王子様』Genius295満足いく試合(ゲーム)とは内での榊監督と宍戸・鳳ペアの会話「満足していては俺達は上へ行けませんから」でも明確に発せられている。新テニプリになる前の無印テニプリ時代から在る価値観だ。

 

テニスの王子様が魅せる生き様

・挑み続けること

・自分で自分を見限らないこと

・自分の生き方を自分が否定しないこと

 

そんな当たり前のことが当たり前にあるのがテニスの王子様・新テニスの王子様の世界だ。

 

もしも機会があれば本稿のタイトルに歌詞を引いた歌の歌詞をご一読されたい。

愛されるより 愛したい KinKi Kids 歌詞情報 - うたまっぷ 歌詞無料検索

“扉の向こう” “光る空” “青い風” “つよい風に向かいながら走りつづけたい”(作詞:森浩美, 作曲:馬飼野康二, "愛されるより 愛したい", KinKi Kids, 1997年11月12日)

 

テニスの王子様・新テニスの王子様を通して、そういう青さに輝く生命を見ている。

同調圧力を無効化したい

2020年5月4日(月)0:00に先行配信された 種ヶ島修二「閃きCHAY BOY☆」 遠野篤京「Bloody Dance」を聞きながら『新テニスの王子様』17〜19巻を読みながら、改めて思ったことを徒然と書きます。

 

 『テニスの王子様』『新テニスの王子様』の最強さを抽象化した時、それは同調圧力への耐性である一面もあるかもな。と思った。

 

まずはじめにテニプリシリーズに限らないことについて書きます。

 

実はSFバトル漫画に比べてスポーツ漫画の方が強さこそ正義の価値観を採用しているんだろうな、と思っている。

スポーツ漫画は勝つことが至上命題だし、勝つためには強くなくてはならない。

まぁ、強い奴が必ず勝つとは限らない、という変則球もあるけど、そこは十分条件と必要条件の必要十分条件にはならない部分ということで許してほしい。

もちろん勝たなくても成り立つスポーツ漫画もあるけど、そもそも勝ちたくて挑むんでしょ、から逃れられないのは圧倒的にスポーツ漫画の方だ。

 

その点から考えると、ドラゴンボールはバトル漫画の面を被ったスポーツ漫画だと思っていて、

・死者の生き返り=敗者復活

・わかりやすい強さ一辺主義

あたりはスポーツ漫画のそれに見える。

あと、弟/妹のために~とか、◯◯◯を取り返すために~とか、◯◯になるために~みたいな強くなりたい理由がなくて、強くなりたいから強くなりたい。

天下一武闘会で勝ちたいから強くなりたい。

スポーツ漫画でいうところの大会で勝ち上がりたい仕組みと対して変わらないな。と。

やっぱりドラゴンボールはすごい。SFバトルとスポーツと二大王道少年漫画ジャンルをどっちも含有してしまっている。

 

 

閑話休題

 

 

私は、無印の『テニスの王子様』に比べて『新テニスの王子様』の方が話として強いなと感じている。

新は、「これが俺の生きる道」を持って戦わせていて、大体がプライドvsプライド状態。特に15巻以降の世界大会編になってからは全試合ほぼこれ。

自分の信条が定まった奴ら同士の見せつけ合いとぶつかり合いなので揺らぎが少なくて強い。

そもそも強いっていうやつ。

無印『テニスの王子様』は”最初から強い “価値観を少年漫画に持ち込んだ漫画で、新テニの主人公だけではなくて”最初からみんな強い”は無印の上位互換、無印は新の序章として取り扱うことができても納得できる。というか、今度はそうきたか。という感覚。

だからというわけでもないけれど、新では主人公越前リョーマに影響を受けるキャラクターが少ないような印象を受ける。

リョーマに対峙しても自分が揺らがない奴らが多い。特に高校生と海外勢。

23.5巻の許斐剛インタビューで先生が会心の出来だと語っていたプレW杯ドイツ戦3試合目の徳川がラケットを飛ばされて越前リョーマと対峙するシーンなんかは割と象徴的だと思っていて、徳川の「邪魔をするな越前リョーマ」とあの場面で力強く一蹴できるキャラクターは無印では描けなかったのではないかと思ったりもする。

 

ちなみに、話として強い、というのは、弱い奴が出てこない/全員強いというのに近い。

強者と強者が勝ちを求めて戦っている話。

抽象化すると、ブレが少ない。一本筋通った基軸への精神面での迷いや揺らぎが小さい。

それを成り立たせているのは一度話が綺麗に完結している面が大きい。誰もが納得してしまう立ち返ることができる場所を確立させている。そこもやっぱり強い。

『新テニスの王子様』は無印に比べてより群像劇感が高い。

 

テニスの王子様シリーズの価値観は割と現実的で残酷で、ちゃんと、努力だけだと才能や環境に恵まれた奴らには敵わないようにできていたりもする。

ただあの話がファンタジーとして成り立っていたり、それでいて読者のメンタルをこてんぱんにやっつけたりしないのは、敵わなくても構わない価値観が同時に存在するからなんだと思っている。(まぁ、その残酷さに気がつくと打ちのめされたりもすることは否定しないけど。)

 

テニスの王子様でも新テニスの王子様でも共通で強いキャラクターは何かしらのGiftedがあるケースがほとんど。

つきつめると要するに

・身体能力が異常に高い

・運動神経がやたらと発達している

・すさまじく器用

・超賢い

 など割と現実的なそりゃ強いだろ要素に収まったりする。

作品特有の世界観と基準において強いみたいなのがほぼない。(イリュージョンだけはちょっと特殊な気がするけど。コピーと物真似は前述の範囲内なんだけどな。)

 

そのGifted達に対峙せざるをえない世界の中でやりたいことをやり続けるためにはどうすればいいのか。を各自突き詰めているのが新テニスの王子様だなと。

テニスの王子様世界におけるこのやりたいことが「テニスをやること」になっている。

 

結局、じゃあ自分には何ができるか?何があるか?諦めたくないならどうする?に自分の意思でどこまで付き合えるか。が問われているんだな、と。

そのメッセージがとても強くて、

無印だと檀太一、新だとオリバー・フィリップスへの越前リョーマの発言が分かりやすいけど、他者基準で物事を考えるなよ

諦める/捨てるならその選択をするのは他人じゃなくて自分だぞ

と言われてる、と漫画を読み続けると感じる。

 

他者基準で物事を考えない、というのは、自分の人生に自分で責任を持ち続ける覚悟が必要なので残酷だけど、同調圧力で押し潰されそうな時はこれ以上ない心強さにもなる。

自分の感覚を自分で否定しなくていいんじゃない?って言ってくれることが力になる時って人生であるよなぁ。そういうのを求めている心境の時にテニプリシリーズに触れると元気や勇気が出るのは分かる。

 

Dear Prince~テニスの王子様達へ~の「キミが勝てるまで 見ててあげるから」ってそいういう意味なのかなぁ。と。

 

この辺りを越前リョーマのあの「いいんじゃない?」みたいな決めつけない、相手に委ねて、自分は自分のスタイルを貫く主人公が魅せるっていうのも極上のバランス感覚。

 

日吉若とか切原赤也とかの2年生キャラにいがちで、他にも遠山金太郎とか遠野篤京とかがそういうマインドだと思うけど「敵わないものにどこまでも挑み続けることができる」精神は眩しい。

この精神も一つの答えなのだと扱われているんだな。

負けても挑み続けられるって強いなぁ、すごいな。と私なんかは目が眩んでしまうけど。

 

自由にテニスを楽しんだもん勝ち。

それは実際に勝ち負けじゃなくて、自分のマインドにおける勝ち。

誰の騒音にも耳を貸すことなくて、楽しいと思った、好きだと思った、その自分の感情はいつだって本物だと信じ続ける強さがほしい。

それが「テニス」に落ちてくると「テニスって楽しいじゃん」になるんだろうなぁと解釈している。

 

そういう漫画だから好きだったりするし、もう部活とか青春とかじゃなくなった人生のフェーズでも自分の人生で気持ちを奮い立たせたくなった時に読みたくなるんだと思っている。

 

『新テニスの王子様』で様々な生き様を見ることができることが、好きだ。

強くて、好きだ。

 

=冒頭で触れた楽曲について===

2曲とも原作漫画の展開を巧みに表現している仕上がりです。

ぜひ視聴だけでも。できればご購入を。1曲¥255です。

種ヶ島修二「閃きCHAY BOY☆」:https://www.feelmee.jp/index.php/item/product/1285

閃きCHAY BOY☆(アニメ「新テニスの王子様」)

閃きCHAY BOY☆(アニメ「新テニスの王子様」)

  • 種ヶ島修二
  • アニメ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

遠野篤京「Bloody Dance」:https://www.feelmee.jp/index.php/item/product/1288

(2020/5/7追記)歌詞は以下Webサイトに掲載

種ヶ島修二「閃きCHAY BOY☆」:

閃きCHAY BOY☆ 種ヶ島修二 歌詞情報 - うたまっぷ 歌詞無料検索

遠野篤京「Bloody Dance」:

Bloody Dance 遠野篤京 歌詞情報 - うたまっぷ 歌詞無料検索

そして、ぜひ曲を聞きながら、遠野の方はGolden age188〜191、種ヶ島の方はGolden age192〜 194、そして2人共通してGolden age233・241を読んでください。

漫画『新テニスの王子様』は少年ジャンプ+(アプリ版/ブラウザ版有り)で1話¥30〜読むことができます。

shonenjumpplus.com

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僕の青春を不二周助に捧ぐ

これは、2001年に不二周助に魅せられ、それから18年強の間、不二周助に対して向けてきた感情を煮詰めてドロドロにしてしまった、もうどうしようにもまとめられなくなってしまった、私の不二周助への執着と願望と感謝を綴ろうとした文章である。

 

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不二周助に惹かれた理由はなんとなく覚えている。

私が『テニスの王子様』を読み始めたのは単行本10巻が発売された頃だった。

聖ルドルフとの団体戦が終わり、校内練習試合の越前リョーマvs不二周助が掲載されている巻だ。

私にとって聖ルドルフ戦〜校内vsリョーマ不二周助があまりに印象的だったのである。

聖ルドルフ戦の団体戦全体でのカタルシスは気持ちがいい。

このカタルシスの決定打を打つのが不二周助なのである。

その直後に描かれる態とスリルを求める試合展開にもっていくバケモノ感。

圧倒的に格好良くて、私のヒーローになった。

 

 

まず、私が不二周助に惹きつけられて止まない魅力は数々あるのだけれども、その中から3点だけ語ります。

  1. 運動能力

身長167cm体重53kg靴のサイズ25cmという小柄な身体。10.5巻掲載のスポーツテストの結果好評において「しなやかで弾力性の高い筋肉を持っている」と評された筋力。筋肉トレーニングではなくスポーツで鍛えられた肉体。そのしなやかな筋肉が可能にする三種の返し球をはじめとした華麗なカウンターの数々。そこに美しさを感じずに何を見出そうか。不二周助の肉体は神秘。

  1. 精神的葛藤

本気を出すことや自分の限界を知ることへの恐怖、自分の存在意義を他人の中に拠り所を求めようとする不安定な自信、高みを目指さずにいられない自分を持て余してしまう葛藤、それらを乗り越えようと悩みもがき、一つずつのりこえていく姿に胸が震える。それでもドキドキワクワク胸が高鳴る瞬間が楽しくて、その感情に出会えるテニスが好きで、自分の大切な人が傷つけられると過激になる純粋さ。現実世界で不二周助と同じようにアイデンティティーや意志薄弱で悩む時、もがく彼の姿はとても身近で、それでいて進化し続けるテニスをする姿を見れば励まされる。

熱さと優しさと怖さと脆さが同居している不安定さと心の豊かさが不二周助という人間の深さであり、最大の魅力。

透明感がありつつも憂いを秘めている二面性を感じさせる声が最高にセクシーでかっこよくて大好き。甲斐田ゆき氏の美少年ボイスがこの世で最も似合う男。不二周助の声帯が甲斐田ゆき氏であることに何度感謝したことかしれない。あの声が不二周助の全てを表現している。巧いテニスも、穏やかさと激情の二面性も、不安定な思春期の少年らしさも、家族友人想いの優しさも、不二周助の全てを内包した声に魅せられてたまらない。

私が不二周助の声は甲斐田ゆきしかいない、と思っているのは声質もさることながら、不二周助のキャラクター解釈が完璧に合うからなのですね。

あのアニプリにおいて不二周助をBL的視点抜きで完璧に捉えている。新テニの手塚の幻影との試合でさえもBL視点抜きで捉えてみせているのは流石としか言いようがない。そこが大好き。

甲斐田さんの不二周助解釈のおかげで精神的に不安定さが残る他のキャラクターとは一線を画す”天才不二周助"が成り立っていると思っている。

確か昔のラジプリで「不二周助は自分の持った技術に精神の成長が追いついておらず、他人(自分の外)に精神的拠り所を求めないと自分の持った力を発揮できない部分があり、そこが彼の弱さであり成長克服すべきポイントである」といったようなことを仰っており、完璧だ…と思った記憶がある。

私自身、腐女子だし二次創作物を楽しむのは好きだし楽しんでいるけど、公式が全面に出してくると「なんか違う…」となるタイプなので、cv.甲斐田ゆき不二周助は本当に素晴らしいし、至高。

 

他にも魅力を感じることはたくさんあったけれども、不二周助不二周助であること、1人の中学3年生男子として、テニスの王子様として存在していることが一番の魅力なのだ。

 

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次に、不二周助という人物の精神性にフォーカスして考察じみたことをしたい。

 

テニスの王子様』で心的外傷PTSDトラウマイップスに直面し克服する存在といえば手塚国光に他ならないのだが、物語以前からの心的な悲しみに直面しているのが不二周助である。

 

彼の悲しみとそれに伴う精神的な枷は、『新テニスの王子様』の段階でようやく外れることとなる。

『新テニスの王子様』で不二周助はもう一段階上に到達できた。作品中の言葉をそのまま使えば「不二周助は生まれ変わ」った(Golden age142)。

 

この変化を象徴する描写として団体戦における第一試合の勝敗を見たい。

テニスの王子様』において不二周助団体戦の第一試合にオーダーされた試合はダブルス・シングルス全て負けを喫している。

第一試合だったvs不動峰D2は棄権負け、vs山吹D2は3-6、vs四天宝寺S3は6-7と全て敗北している。

第一試合の勝率0%なのだ。

それが『新テニスの王子様』になり、15巻のプレW杯エキシビションマッチvsドイツ戦でダブルスとはいえ初戦第一試合で勝利を収める。

 

不二周助は自分のために力を発揮できないとも言われている。

自分に近しい人間の負けや不利益があった時に勝ち試合となっている試合が多い。

代表的なのは聖ルドルフ戦S2vs観月はじめの一試合だが、他にも関東大会氷帝戦S2vs芥川慈郎、関東大会立海戦S2vs切原赤也、比嘉戦D2vs平古場凛・知念寛ペアなども自分ではない誰かの敗北や屈辱を晴らすかのような戦いぶりが見られる。

本気で戦うことができない告白があった関東立海S2と四天宝寺S3。

それら全ての試合を踏まえた上での『テニスの王子様』全国決勝立海戦S2vs仁王雅治、すなわち不二周助の本編での最終試合で、ようやく不二周助は「過去に自分が負けた相手へのリベンジ」という自分自身の案件を含んだ勝ち試合を見せた。

その試合で顧問の竜崎スミレから不二周助について語られた言葉を見返すと、

「準決勝のあの敗戦が…不二を更なる高みへ押し上げおった」

「不二(やつ)め一試合で…手塚越えと前回のリベンジ双方ともやりおった」

などと言われている。

 

またこの全国決勝立海戦S2vs仁王雅治の試合中には

「どちらが上か決着がついてしまうのが怖かったから」

不二周助自身が独白している。

不二周助はトップとしてチームを背負うほどの覚悟は持っていないが、負けず嫌いだ。誰に対しても自分の優位は覚えていなくとも劣位は認めていない、という一面が伺えるだろう。

 

不二周助に問われているのは「テニスのためにテニスができるか」どうかへの問いへの答えのみではなく、天才、上手い人、技術のある人間がテニスのためにテニスができる様な時にどんな景色をみるようになるのかという答えも見せてくれることを期待したい。

 

また、手塚国光の救済について考えていた過程で気がついた"不二周助の戦う理由=生きる理由"と"自分の能力を発揮させる仕組み"についても考えたい。


無印『テニスの王子様』で不二周助の戦闘マインドは、その場その場で身近な誰かのために戦うスタイルだった。それが関東立海S2頃に自分が所属するチーム青学のトップである部長:手塚国光に触発されてチームの優勝のために戦うようになる。
無印で青学の優勝後、自分の戦う理由であった手塚国光への擬似的な勝利を経て本人そのものとの対戦を申し出、自らの壁を自らの手で壊そうとする意思表示をして無印は終わる。
新章の『新テニスの王子様』になり、手塚国光自体は青学の柱の枷が外れ、チームのために自己犠牲を働く戦い方から自分のために戦うようになる。手塚の戦闘マインドは「俺は負けない」から「俺は勝つ」へなった。
その時、不二周助は、自らが道標すなわち自分の戦う理由としてきた手塚国光手塚国光自身のために戦うようになってしまい、自分のために戦うことをしてこなかった不二周助は戦う理由がなくなってしまい、途方にくれてしまう。

Goleden age143〜144で描かれた合宿所でのテニスを辞めるための私的試合で見た幻影の手塚国光に言われた「道標は自分で作るんだ」。
プレイスタイルがカウンターという相手の打球に反応に特化するではなく、風の攻撃技(クリティカル・ウィンド)を身に付け攻撃的な自分から攻めるスタイルに変わる=不二周助は生まれ変わる。
不二周助は誰かの中に戦う理由を見出していたのを、自分自身が気がつき、自分の呪いを解いたので、今度は手塚国光の"中"に理由を見出すのではなく、手塚国光が"そうしたように"同じ方法をとることにしたのが新テニの不二周助の姿である。

誰かが強くなることで自分も強くなる。
その姿を自分事として引き寄せる。
新テニのドラマはこのスタイルで生まれる。

『新テニスの王子様』は『テニスの王子様』のように誰か(越前リョーマ)に負けなくても、触発という形で登場人物が強くなるのが特徴だろう。
敗北による救済はない。
真髄はプレW杯vsドイツ戦3試合目の徳川幸村ダブルスの試合だろう。
越前リョーマに触発される徳川カズヤと徳川カズヤに触発される幸村精市の姿。
これが後のW杯での中学生を導く高校生という形式につながっていく。
強くなることを正義とする。

不二周助は姉のテニスクラブについて行って始めたテニスに天賦の際があったことで弟に反感を買うようになってしまったけれど、弟が越前リョーマに敗北したことでもっと広い世界に目を向けてくれたことで弟が兄への確執から開放された。
次は不二周助自身が何かを理由に自分のために戦うのを避けずに向き合うことだ。
何かを理由に自分を諦めることなく、戦うように問うのはテニプリの真髄だ。

 

「どれくらい眠れば一人で強くなれるのだろう

苦しみも悲しみも本当の心の姿」

不二周助KIMERUのYou got game?をカバーした時は、不二周助のキャラクターとその歌詞とのリンクに痺れた。2番の歌詞はその苦悩ともがく姿そのままだと思う。

 

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以下はただの自分語りです。

 

自分のコンプレックスの克服が自分一人でできなかったどうしようもない話。

 

私は、小中学生の頃、それなりに真剣に演劇をやっていた。

部活レベルをどれくらい真剣と捉えるかは社会的なモノサシで計れば大したことがない気もするけれど、自分の中では真剣にやっていたのだ。

私は自分の演技力には自信があった。

役者をやれば誰にも負けないと思っていた。自分より演技の上手な同年代なんていないと思っていた。それが事実かどうかではなく、そのくらいの入れ込みで演劇を役者をしていた。

脚本を読めば自分がハマる役は分かったし、オーディションは基本的に第一希望で通った。

誰にも負けない、ものだった。

高校進学を機に演劇をやめたのは、もうこれ以上先が無いとふと感じたからだ。

それは、その時にの自分に見えていた役者の世界が容姿を磨くことが必要だったり、力を賭したわりには儲けることができなかったり、そういう未来があまり見えない世界に見えていたからでもあり、そんな世界をこれ以上突き詰めるのであれば、他のことをしよう。勉強もしたい、運動もしたい、そう思って自分が演じる世界とは決別する進路を選んだ15歳だった。

 

それが良かったのか悪かったのかは今でも分からないし、判断したくないのだけれども、確実に認識している悪影響が1つあった。

 

演劇が観られなくなってしまった。

 

正確に形容すると"ハイクオリティの演劇作品以外は舞台映像含めて楽しめなくなってしまった"。

 

舞台を観に行っても、ドラマを観ても、映画を観ても、アニメを観ても、演技が粗いとダメだしをしたくなってしまった。

さらにそれが容姿の優れた演技下手な演者だと最悪だ。

やはり演劇の世界は容姿で商売するのだ、などという真っ黒な感情で気持ちが支配されてしまう。

加えて照明や音響も気になる作品はもう一切受け付けない。

嫉妬のどす黒い感情を抜きに演劇鑑賞ができなくなった。

何も気にならない一部の作品しか触れられなくなった。

 

そんな状態で過ごすこと10年以上、今、ようやく他の演劇作品も観てみようと気持ちが緩和してきている。

 

きっかけはテニミュだ。


テニミュが演劇としてクオリティが高いとは正直思っていない。 

それでも、気持ち悪くなることなく演劇を観られるようになった。

アンケートを書かせてくれることも大きいのかもしれない。

3rd season最後の全国大会青学vs立海後編を観劇した時も、嫉妬心からくるイライラを覚えないわけではないけれど、未熟な舞台や演劇作品に対して感情が穏やかになり少しずつ観られるようになった。

慣れもあるし、それはそれでそういう楽しみ方があるんだなぁ、と思うようになった。

 

自分が少し大人になったのかもしれない。あの時演劇を辞めた自分をようやく受け入れることができるようになってきたのかもしれない。

そのきっかけをくれたテニミュには感謝している。

 

私の最愛キャラクターはテニプリに初めて触れた時からずっと変わらず不二周助だった。

 

恋慕ではなく憧憬に近かった。

不二周助の中に自分を観ていた。

彼の悩みが手に取るように分かった。

彼のように天才と呼ばれ、ふるまいたかった。

不二周助にはいつでも私の悩みを共有してほしかったし、その苦しみを打破するべく戦ってほしかった。その姿を見て慰められていた。

 

それが時が経つにつれて不二周助以外のキャラクターも好きになった。

でも、彼のように自己投影をして好きになったキャラクターはいない。

 

18年が経った今、もうキャラクターに自己投影はできなくなってきた。

自分が大人になったのかもしれない。

純粋にかっこいいから好きだと思うようになった。

自分のメンタルが変わって好きな王子様も変わる。

 

もしかしたら完全にテニミュを楽しめるようになる頃には私の中の不二周助は消えてなくなるかもしれない。

演劇を楽しく観たくても観られなかった日々と別れる日がくるのかもしれない。

それは自分の未練を捨てることと同意義かもしれない。

その日がくるのは寂しくもある。

それでも大好きだった演劇をまた楽しく観られるのであれば楽しみでもある。

たとえそれが過去の自分との決別になるとしても。

そうやって終わったところから始まるものもある。

 

3rd season全国氷帝の凱旋公演を観た時の感動は計り知れない。

自分が演劇をしていたことを否定しなくてもいいのだな、と思えて本当に感動してしまった。

大阪公演で観た時に悲しみと怒りが綯い交ぜになったような気持ちで結構文字通りの死ぬ気でアンケートを書いてなんとか凱旋公演の前までには届くように、と送った。

セリフも歌詞も演技も変わっていた。全ていい方向に変わった。

最高だった。

素晴らしかった。

そして、私の意見が取り入れられたような感覚になった。

本当に送ったアンケートが活かされたのかどうかは大切ではないのだ。

この感覚を覚えることができたことが大切だった。

中学生で演劇をやめてしまったことに、その時は何も思っておらず、すっきりと次の興味の対象に移行していた。

けれど、学生生活が終わった頃にどっと後悔が押し寄せてきて、高校演劇も大学演劇も知らない自分はこれから先に観るどんなお芝居を観て違和感を覚えても意見を述べる資格は無いのではないだろうか、と一人で打ちひしがれていた。

その気持ちがすべて救われた気がした。

小中学生だった自分が演劇に全力だったこと、真剣だったことを肯定しても良いのだと言われているようだった。

テニスの王子様が大切にされていることと、真剣にテニスの王子様のストーリーを作っていることが伝わったのと同時に、自分の過去まで肯定されたようだった。

あんな多幸感は滅多に本当に一生に一度味わえるかどうかの幸せだった。

 

テニスの王子様の世界ではテニスでの悔しさはテニスにしか晴らせないように、我々の世界でもちゃんとそのものに向き合うことでしか得られない克服がある。

 

「テニスのためにテニスができるか」それは「生きるために生きられるか」と、我々読者に人間の根源的な問いを問いかけている。

 

不二周助とお別れする日は、そのまま私自分の過去を清算することができた日になるのかもしれない。

 

今度は真正面から、自分の弱さの投影じゃなくて 不二周助に会いたい。

 

不二周助自身も『テニスの王子様』『新テニスの王子様』の世界で成長している。

今はGolden age207で語られたように、秘められていた「自らの手で壁をブチ壊していく程の心の強さ」が発現し、「己の中の呪縛から解き放たれた」"天才・不二周助"だ。

===

 

最後に。

18年が経って大人になった私は、不二周助には激烈な感情は抱かなくなった。

 

思春期の不安定さ青さが、私を不二周助に惹き付けた。

 

不二周助は私の青春だ。

不二周助の心の葛藤に自分の葛藤を重ねた日々があった。

天才と呼ばれる不二周助に憧れを抱いた日々があった。

 

道が別れたとしても不二周助に惹き付けられた若かった日々があった。その事実は変わらない。

 

これを公開するのは、今日しかない。そう思った。

たとえ公開する文章がどんなにまとまっていなくても今日だと思った。

4年に一度の特別な日に生を受けた君へ。

 

Happy Birthday, Syusuke FUJI.

May the GOD Bress you, forever and ever.

2020/02/29

天衣無縫の極みについて考える_幸村精市とテニス

幸村精市は天衣無縫の極みの文脈のキャラクターではないのではないか。


天衣無縫は誰もが持ってるので、"天衣無縫の極みの文脈ではない"というと語弊があるかもしれない。

 

本稿は以前にこのブログにアップした天衣無縫の極みについて考える_人生の辿り着くべき場所への到達 - 超解釈テニスの王子様 人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

天衣無縫の極みについて考える_人生の辿り着くべき場所への到達

から更に考えたこと、及び、考えた結果、違う見解をもった点について記す。


幸村精市は自らの意思によるテニスの喪失を経験していないのではないか。
突然の難病による外的要因での喪失は経験しているが、
Genius374 最終決戦!王子様VS神の子④での入院時の回想内での発言「テニスの話はしないでくれと言っているんだ」
これはテニスを嫌いになったのではなく、ネットスラングで言うところのいわゆるテニスに対するクソデカ感情というやつではないだろうか。
テニスができる奴が羨ましい、嫉妬。
自分もできることならもっとテニスがしたい、焦燥。
テニスが無理と言われたことへの悲しみ、悲壮。
そいういう感情が内混ぜになって渦巻いた状態であって、決してテニスそのものが嫌いになったり、テニスをもうやりたくない、テニスをするのが苦しい、そんな思いになった訳ではないのではないだろうか。

幸村精市はテニスを諦めないのである。

テニスの王子様において、このあたりの厳密なニュアンスや定義が難しい。

少し話が逸れるが、竜崎桜乃越前リョーマへの感情も作者の許斐剛曰く「越前リョーマのテニスが好き」(テニスの王子様 20周年アニバーサリーブック TENIPURI PARTY掲載 オールテニプリSP対談①皆川純子×許斐剛より)であって、リョーマが好きとは明言されてはいない。

このあたりの微妙なニュアンスや定義の隙間は、テニスの王子様が漫画という絵と文字をコマ割りで表現する手法で語られるストーリーである以上、仕方がないのだけども。

話を幸村精市の天衣無縫の極みに戻す。

新テニでイップスに陥った幸村精市も、誰もがテニスが嫌いになる状況で〜とはモノローグしているもののいやに分析的で、読み方によっては前向きにイップスからの回復方法を考えることに、つまり、テニスを継続する意思があると見える。

イップスの克服=天衣無縫の極みにならなかったのは、幸村精市が獲得からの喪失からの再獲得プロセスを辿ったにもかかわらず天衣無縫の極みに辿りつかなかった例外なのではなく、そもそも再獲得プロセス自体を辿っていない。

獲得→喪失→再獲得プロセスについては、天衣無縫の極みの扉を開くためにはGenius378最終決戦!王子様VS神の子⑧での越前南次郎の発言「いつしか どいつもこいつも あん時の心を忘れちまう」からもテニスを楽しいと思うようになった後にその気持ちを忘れ、そして、思い出す道順を経ることが伺えるだろう。

天衣無縫の極みの到達への喪失には自分の意思、精神の方向性が作用している必要があるのではないだろうか。

テニスの王子様』『新テニスの王子様』の作中で越前南次郎を除く天衣無縫の極みの扉を開いた人物たちの様子を鑑みれば、
越前リョーマは「テニスってこんなに辛かったっけ」(Genius376最終決戦!王子様VS神の子⑥)
手塚国光「そんな部活なら…オレ辞めます」(Genius146事実発覚!)(※ テニスそのもの自体ではないので論拠としては弱いが自覚的なテニスへの嫌悪感として読み取る。)
遠山金太郎鬼十次郎による状態分析の「魂(ハート)の火も燃え尽きちまったかよ」(Golden age98更なる高みを求めて)
と、物理的な結果のみならず精神的な方向性が喪失に関わっている。

無印『テニスの王子様』は“テニスは人生”の全体で一つの大きな話である一方で、『新テニスの王子様』は“各人の人生でテニスをする”というそれぞれのストーリーが集まった話だと読み取っている。

また無印『テニスの王子様』の答えは「テニスって楽しいじゃん」であって天衣無縫の極みそのものではないと解釈している派でもある。
天衣無縫の極みはテニスが楽しくて夢中になっていたころの気持ちを思い出した結果として体現された状態であって、天衣無縫の極みが至高なのではなく、物語の結論として導くのであれば、そこにたどり着く心境の「テニスって楽しいじゃん」の方なのだと思う。
これもテニスの王子様の言葉の微妙なニュアンスや定義の隙間による解釈の揺らぎがある部分の一つだとは思うが。

さて、冒頭の幸村精市はそもそも天衣無縫の極みとは違う文脈で強くなる方向のキャラクターだったのではないか。の問いに戻ろう。
『新テニスの王子様』は『テニスの王子様』へのアンチテーゼとしても作用しうるだろう。
人には人の天衣無縫、とまでは言わないが、矜恃の光の精神派生のように天衣無縫の極みのその先があったり、『闇(ダークサイド)』や各人の海賊・阿修羅・鬼神・侍・騎士のようなスタンドなど天衣無縫の極み以外の強さが体現した状態があったりする。


テニスの王子様』の価値観がたどり着いた先には必ずその先がある。
幸村精市もそちら側の人間であり、テニスの王子様の文脈を引き継ぐ人物ではない。

まとめると、幸村精市はテニスそのものに対してはネガティブな感情を抱いた訳ではないのではないだろうか。
また、天衣無縫の極みへの到達には喪失からの再獲得プロセスがあるとしていたが、その喪失は自らの意思による喪失である必要性があるのではないか。と現時点では考えるに至っている。