超解釈テニスの王子様  人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

人生への圧倒的肯定を描き出す『テニスの王子様』と、その続編『新テニスの王子様』についての個人的な考察を綴ります。 出版社および原作者など全ての公式とは一切の関係はありません。全ては一読者の勝手で個人的な趣味嗜好です。 Twitterアカウント:@namimashimashi

『BEST GAMES!! 手塚vs跡部』を映画館で観て感じたこと思ったこと考えたこと

(前置き)

元々このブログは漫画『テニスの王子様』と『新テニスの王子様』の考察を綴るために開設したので、個人的な感想を述べるのは場所が違う気もしましたが、感想がえらく長文になってしまったことや鑑賞して考えたことを書きたい衝動が抑えられず、長文を掲載できるこのブログを使いました。

色々と書いたことを消すのがもったいなくなり、結局何が言いたいかわからなくなってしまって宜しくないと思いつつも消せずに載せてしまったので、文章の分かりにくさはご容赦ください。

明日、日付変わって本日の公開最終日、最後にもう一度、映画館で目に焼き付けたい。

(前置き終わり)

 

 

アニメ新テニスの王子様BEST GAMES!!手塚vs跡部を観た。

 

アニメが原作漫画の理解をスムーズにしたりより深めたりと機能するのであれば、それは正しい漫画のアニメ化なのかもしれない。

 

《箇条書きの感想》

〈良かった点〉

漫画にはない脚色で、高架下コートの試合とタイブレーク中のアップとで相手を変えて越前リョーマが「いいっすよ」と言う演出は同じ台詞でも心情の違いが伝わってきた。

 

手塚国光にとって青学が大切になるまでの過程とそのきっかけ描写がとても丁寧。手塚国光にとっては大和部長はどこまでも青学の部長なのだ。

 

手塚国光を中心に据えた物語とすることで、大和部長→手塚部長→越前リョーマの青学の継承の流れが伝わってくる

 

あの試合が互いに極限なのは手塚国光がそれほどまでに強大に強いという前提がある。この試合で手塚国光が肩の痛みによって極限状態になっているのは分かるのだが、跡部景吾が何に追い詰められているのか疑問だったのだが、ただテニスで、手塚国光という圧倒的な強さに追い詰められていたのだと初めて理解できた。

 

アニメになり、呼吸を吹き込まれる存在になり、流れの中で描かれることが特に良く働いていたのが真田弦一郎。手塚と対戦をどれほど望んでいたかが伝わってきた。

 

試合のテニスボールが生き生きと描かれているのには感動した。やはりテニスの試合をしている時が一番にかっこいい。

 

榊監督と大和部長の声に抑揚がなくドライな喋り方がより一層際立っていてよかった。彼らは戦いをしている選手よりも少し俯瞰した視点にいる存在であることが分かる。

 

不二が手塚に固執しすぎていない雰囲気で良い。不二もまた手塚と対等なのである。

 

ゼロ式ドロップを拾おうとした者(越前リョーマ跡部景吾)が膝をつく動作が手塚をより強者に見せていて、手塚国光の圧倒的な強さが見えた。

 

越前リョーマの「はい」と「うっす」の違いに痺れる。

S1の決着後、観衆へ視点が映り、越前リョーマにだけ焦点が当たる演出も素晴らしい。

リョーマが青学の柱を体感で理解していく様が伝わってくるようで感動した。

まだよくわからない高架下と柱を背負うべき存在としてコートへ向かう補欠シングルスの感情の違いが歴然としており、観ている側も青学の柱、次世代への継ぐ紡がれる儀を正しく理解し、その重要性と重みを感じることができた。

 

青学のタイブレーク前のやりとりが最高。全員が止める中で大石が送り出しただけかと思われた後の一瞬の静寂の後の河村隆の「手塚ぁ!ビクトリー!」で鳥肌かつ泣ける。駄目押しの「俺に勝っといて負けんな」重たく書かれすぎていなくて、これはこれで良い。

 

EDのYou got game?が流れる瞬間がこれ以上ない。アレンジも素晴らしい。流れ出した瞬間、手塚国光から試合の流れを継いだ顔を合わせた瞬間に越前リョーマの試合が始まり、曲調が変わってプレイがスタートするようだった。素晴らしい歌の使い方。正しいED曲の劇中挿入。

 

EDで流れる越前リョーマが歌うYou got game?がそのままリョーマが試合をしているように感じることができてテンションがあがった。

 

OP各学校のキャラクター集合絵が映り、今回の対戦校氷帝はテニスシーンが映り、漫画で様々なシーンがモノクロで流れ、声が聞こえるのと同時にリョーマに色がつき動く演出が素晴らしい。漫画がアニメ化するとはどういうことかを語らずして表現している。視聴者は、生命の伊吹が吹き込まれ命の色がついた瞬間を目撃する。

 

諏訪部順一氏の跡部景吾が素晴らしかった。何人か「それは新テニの世界の演技だろう」というキャラもいたけれど、跡部景吾は間違いなくテニスの王子様の関東大会青学戦の時の跡部景吾だった。

 

あまりアニメの方が良いと思うことはないのだけれども、河村のエールに頷く手塚は動きのあるアニメだからこそできる演出で良かったと思った部分。これが四天宝寺のS2に繋がるのだと思うと納得する。青学3年生達の真髄はここにある。

 

跡部景吾は進化して今の姿がある。跡部景吾が部長になっていく様子が手塚国光とのこの試合がなぜ跡部景吾のターニングポイントと言われるのか、タイブレーク突入でまずはレギュラーの顔が映り、いわゆる長ゼリフの後に部員の声が聞こえるようになるのが、部長としてお前の覚悟はそんなものかの問いに真正面から答えた跡部景吾になった瞬間を目撃したような演出で感動した。

 

試合終了時と直後の無音演出は映画館でこそ効果をなす。没頭できる幸せ。世界観に引き込まれるのめりこめる環境が整っていることでより引き立つ演出。このアニメを映画館で放映しようと決めた人は素晴らしい。最高の鑑賞体験だ。

 

〈もう少し何とかならないかと思った辺り〉

アニメというよりは漫画のようだった。静止画が連続して映るシーンが多いように感じた。テニラビのシーンカードを連続して観ているような感覚にもなった。漫画のコマをなるべく活かしている作画だったので、そうなったのかもしれない。再現率はかなり高かった。

 

後々の話に影響してくるような伏線が無くなったり、以前の話の伏線回収がなくなったりしていた箇所があったのが残念(千石のJr.選抜、南次郎の存在、不二周助の手塚の幻影、乾と柳の確執など)。

 

桃城のやけに説明口調も気になった。

 

越前リョーマの中に見える侍の幻影が、今回は左利きの侍として描かれていたが、原作では侍は右利きで越前南次郎を匂わせる表現になっている。

 

切原赤也がこの段階の赤也とは違う気がする。柳さんをしたいすぎており、また、詳細に解説しすぎているように見えた。やたらと「副部長」の副を強調したり、「手塚さんに引導渡すのは俺だったのにな」と言ってみたり、もうちょっと傍若無人で自信満々で尊大なはず。

 

話の流れや勢いが変わってしまうような台詞変更は残念。eg.不二「手塚の肘を潰す気だ」正しくは腕

 

跡部景吾の「俺様の美技に酔いな」の前のインサイトポーズは原作通りなのだが、指ぱっちんは余計な脚色だった。

 

欲を言えば、ボールが戻らない!のシーンと最後に手塚と越前の2カ月前コートで言ったことを覚えているかの時にワンカット高架下コートのシーンを挿入してほしかった。

 

高架下の試合後のリョーマと南次郎のやり取りが省略されていたのは残念だった。しかし、1試合だけをとりあげるBEST GAMES!!ではこれが正解なのかもしれない。

 

立海、特に柳蓮二に喋らせすぎて、若干柳蓮二の強キャラ感が薄れていたのが残念。ここはやはり都大会で敗れた山吹中がベストな人選なのでは。特に「強い。全てを超越している」は柳蓮二ではないだろう。

 

トリオやガヤがいう台詞を省略したりレギュラーメンバーに振り分けたりしていたのが、レギュラーキャラクターのキャラクター像がずれてしまっているように見える箇所があったのが残念。うまく当てはまっている箇所もあったが、「そーだウチには跡部部長がいる」を鳳、「きたねーぞ」を省略して不二の「真剣勝負とはこういうものだよ」、「手塚部長が棄権したらどうなるの?」を海堂あたりはあまりいい判断ではなかったように感じる。

 

〈疑問〉

このS1はどこから始まっているのか。オールテニプリミュージアム2017in京都で掲示されていた原稿からするともう一話前のS2終了後の不二周助と芥川慈郎との会話から始まっているのでは。

 

原作漫画にあるいつまでも観ていたいな、このタイブレークのト書きは観ている我々が思うように期待されていたのかもしれない。我々も作品の一部であることを想定されていたのかもしれない。

 

〈雑記〉

パンフレットを買ってよかった。

 

ストーリー序盤に氷帝応援団に向かって跡部が「何俺様が負けるような顔をしてやがる」と呼びかけ、氷帝側の機運をあげるシーンのように、氷帝学園側の演出にいささか氷帝学園側の描写が描き足されすぎている印象を受けたのだが、その疑問はパンフレットの脚本家のインタビューを読んで納得した。

越前リョーマの圧倒的な主人公力の前に打ちのめされた。打ちひしがれた。

この物語の主人公は手塚国光であり、青学の部長副部長を描いているのにもかかわらず、越前リョーマがどこまでも主人公だった。

青学の圧倒的な主人公度合いにライバルたちを観察する難しさ困難さ不可能さに衝撃と絶望にも似た感覚を受けた。

原作漫画テニスの王子様は考えていた以上に主人公:越前リョーマ、主役校:青学の話なのかもしれない。

だから、青学を通さずにはライバル校を観察することはできないし、越前リョーマを介さずに触れることのできるキャラクターは漫画の中にはいないのかもしれない。

青学以外の学校のキャラクター像を読み取るには、ファンブックやその他本編漫画とは別に書かれた越前リョーマのいない世界での情報から読み取り考えるしかないのかもしれない。それは日吉若役岩崎征実氏が日吉のキャラクターデザインの骨格から日吉の声を推測したように。(ラジプリで明かされた話)

でももしかしたら、対戦相手に自分をみているのだ。

跡部景吾もまたこんなにアツい姿の自分は知らなかったのだ。

氷帝学園側のストーリーは読者には分からない。

その氷帝学園側のストーリーを描こうとしたのがこのBEST GAMES!!手塚vs跡部の脚本だったように思えた。

 

キャラクターボイスを担当する声優キャストとキャラクターとの15年、20年の歴史をまざまざと見せつけられたアニメ作品だった。

いつだったかコメディアンの萩本欽一氏はTVについて、TVは一度きりの勝負だから厳しいし難しいのだ。舞台のように明日は、次の公演はここをこんな風に修正しよう。なんていうことができない、というようなことを語っていた。

一度きりの収録だったはずのアニメがリメイクされるとこれほどのものになるのかと圧倒された。

 

鑑賞するにあたって失敗したことがある。

原作に準拠したストーリーになっていると思い込んで原作漫画を読み込んで比べて見てしまったことだ。アニメと原作漫画は別物として楽しんだ方が楽しかった。漫画と読み比べてしまうと違いが気になってしまう。

1回目に失敗したと思い、ただただ圧倒だけされたので、複数回鑑賞をして3回目にして受け入れることができた。

ミュージカルでも同じことをしてがっかりしているのに学習しないな。自分。 

アニメはアニメが表現する『テニスの王子様』であり、ミュージカルはミュージカルが表現する『テニスの王子様』なのである。原作が漫画『テニスの王子様』のアニメ作品であり舞台作品だということを忘れずに鑑賞したい。

本記事の冒頭でも記述したが、動きや声がつくことで、原作漫画の世界をよりスムーズに、より深く理解できるのであれば、それが正しいメディアミックスの使われ方なのかもしれない。

 

今作と2003年に地上波放送されたTVシリーズテニスの王子様は比較されるべき物ではない。リメイクする必要があったから再アニメ化された訳ではないからだ。BEST GAMES!!は『新テニスの王子様』の完全新作アニメーション作品であること他ならない。

 

1度だけ友人と鑑賞したのだが、友人は鑑賞後に「すごいものを観た。感受性を高めてからこの映像を観たら感情の行き場がなくなりそう」述べていた。その感覚はとてもよく分かると思った。そういう感情にダイレクトにヒットするような説明のできなさがテニスの王子様の魅力の一つだから。

 

 

《願望とか》 

贅沢な願望だとはわかっているのだが、できることならば、団体戦一戦ごとにまとめてみたいな。

このS1だけでも十分にアツいのだけれども、やっぱりここまでの4試合を経てさらに熱量を増す試合なのだ。

青学側を見るだけでも、2本柱の3年生である大石秀一郎が試合直前に出場不能となるような右手首の怪我をして2年生の桃城武に「俺を引退させるなよ」と託したD2、2年生の海堂から3年生乾に「まだダブルスでアンタに借りを返してない」とこれから先の戦いで先輩に報いる誓いを立てるD1、この団体戦での負け=引退を口にした上で臨んみ「みんな…全国に行ってくれ!!」と選手生命を賭した河村隆のS3、越前リョーマに対して三種の返し球の三種目を披露してみせたS2の不二周助、その全ての果ての手塚国光が「跡部…悪いが全国へ行かせてもらうぞ!」 と語るS1だ。

そこに積み上がる回想で大和祐大が言う「全国への夢は一瞬たりとも諦めた事はありません」と、左肩を痛めた手塚をそれでも送り出す大石副部長の「大和部長との約束を果たそうとしてるのか?部をまとめて全国へ導くという。がんばれ」がより一層の重みを持ち、手塚国光を奮い立たせる。

これが跡部景吾インサイトをもってしても読み切れなかった手塚国光の青学への想いであり、全国大会での跡部景吾氷帝部長としての選択につながっていく。

さらに、青学の柱を越前リョーマへと繋いでいく男と男の言葉の介在しない継承の儀は、補欠シングルスの試合前の劇的な演出で描かれることになる。

また、この関東大会氷帝戦S1で肩を痛めてなお手塚国光をコートへ送り出す青学校旗は、今後の青学の成長と勝利への貪欲さを駆り立てる象徴(シンボル)となる。

 

関東大会氷帝立海は無印テニプリにおいて最も連載話数の多い団体戦だ。

関東大会氷帝戦は話数にして全36話、関東大会立海戦は全42話。

今回のBEST GAMES!!手塚vs跡部が11話と7P単純に11.5話と仮定し、アニメが45分間(OP含むが計算では含めたままとする)だったので、団体戦を全て映像化すると概算で関東大会氷帝戦が140分間=約2時間20分間、関東大会立海戦が165分間=2時間45分間となる。2時間半の団体戦を描くアニメーション作品2作が観たいと思ってしまう。

 

ここで漫画『テニスの王子様』のたどり着いた答えを考える。

最後に青学の柱を引き継いでおきながら強い者と戦うべく渡米した越前リョーマはどこまでもテニスの王子様であり、テニスそのものにしか志向が向かない"テニスの王子様"たるに相応しい存在なのではないだろうか。

自分の外側から影響を受けることはあれど、決して縛られず、自らの行先を自分の意思で決める象徴。テニスを愛しテニスに愛されたテニスの王子様越前リョーマだ。

テニスの王子様である越前リョーマの世界には、例えそれがどれほどに積み上げられたものだったとしても、努力も友情も勝利も、テニス以外のものは2番手の価値観となりうる。

 

ベストゲームではない試合などない。王子様ではない王子様などいない。 

それでもBEST GAMES!!手塚vs跡部は圧倒的だった。それは、全てであり、それでいて、全体の中の一試合だった。部分であり同時に全部であった。一神教の唱える"究極の世界の法則"は『テニスの王子様』にも現れていた。

 

なぜこうも自分は長年『テニスの王子様』に魅せられ続けるのか、と、ここ数年ずっと考え続けてきた。

理屈抜きに感情にダイレクトに訴える、分析できない熱量や勢いを有する説明のできなさを持つ物語であることもあるだろう。

また、多分それは、ORIKONのインタビュー(2018年8月25日公開

置鮎龍太郎&諏訪部順一が語る『テニスの王子様』の功績 まもなく20周年 | ORICON NEWS)で諏訪部順一氏が答えていたような「『テニスの王子様』って、スポーツ青春ドラマが持つ普遍的な魅力をきちんと備えた物語なんです」というところにもあると思う。

それに加えて、おそらく、物語全体を貫いている信念や思想の"気持ち悪くなさ"があると思っている。

人間の本能や肉体の働きと可能性を否定しないこと。

あらゆる不遇や理由を全て否定したうえで受け入れるという鮮やかさ。

きっとそのあたりが『テニスの王子様』をいつまでも読むことができる、何度読んでも新鮮な発見がある、ストーリーの"古くなさ"をも担っているのではないだろうか。

 

そしてこのようなストーリーを持つ『テニスの王子様』を日々の心の支えとしている状態を『テニスの王子様』を信仰していると表現するのであれば、この信仰の対象である『テニスの王子様』信仰はなんだか仏教と似ているのではないだろうか、と考えている。

 

最後の方の部分はまた記事を変えて考察したい。

嗚呼、テニスの王子様。お前は我が人生の柱だ。

 

※本記事は、記載内容を正しくするために、修正される可能性があります。(2018.9.6 0時50分)

閑話_テニフェス・ドリライ・おてふぇす(VRライブ)

ドリライは楽しかった。

おてふぇす(VRライブ)も楽しかった

それでもテニフェスが観たい。テニフェスに行きたい。

 

どうしたってテニフェスに行きたいのだ。

 

私達はテニフェスに何を観に行っているのか。

 

それは、"愛"を観に行っているのだと思う。

私達のキャラクターやテニプリへの愛が受け入れられ、肯定され、そして、その私達ファンの愛を時には上回るほどの声優キャストの愛を観に行っている。

 

誰一人として脇役の意識ではない、全員が全員、それぞれのキャラクターとまっすぐに向き合って誰もがその人生の主役の意識でキャラクターの声を担っている。

そのキャストが50人60人と集まってそのパワーと愛情を見せてくれている。

これほどに肯定感のあるエネルギーが発せられている空間が他にあるだろうか。

 

おてふぇすに行って感じた「キャラクターが生きていた。それも"生きているように見えた"ではなく、"今までもずっと生き続けていた人がステージ上に立った"」という感覚を生身の人間からも錯覚できるほどの力がテニフェスにはあると思っている。

だから、私は、テニフェスに行きたい。テニフェスが観たい。

 

 

テニフェス、ドリライ、おてふぇす(VR)、全てのテニプリのライブで感じるのは"愛されていてる"実感だ。愛されているのは、キャラクターであり、テニプリを愛している私たちである。

VRキャラクターでライブできるなら、テニフェスもドリライも開催する意味あるのか(特にテニフェス)?という疑問も湧かないこともないが、それは違うのである。

キャラクター本人が出演するのではない、テニフェス、ドリライは、キャストのキャラクター愛テニプリ愛を再確認し体感する場所だ。愛されていることを体感するための空間だ。

 

この愛に溢れた空間は、いわば"許斐剛マジック"とも呼んで良いのではないだろうか。

 

舞台から感じるキャストのキャラクターやテニプリへの愛がもたらす気持ちは、主人公越前リョーマの名台詞の一つ「強くなりたい もっと… もっと‼︎」という気持ちだ。そして、そのもっと強くなるための推進力と前進する心身共のパワーを目撃して、観客は受け取っているから、いつも人生の隣を歩いて見守る王子様の存在をより強く感じることができるのだろう。

 

ちなみに、おてふぇすでテニミュ初代跡部景吾役を演じた加藤和樹氏がVR跡部景吾とデュエットをしたように、私はいつかアニメとミュージカル含めた全ての演者が、自身の演じるキャラクターのVRと対面・共演する瞬間を目撃してみたいと思っています。

テニプリソングとは何か

テニプリの楽曲というのは、キャラソンの中にキャラクターが全部詰め込まれていて役者の想いとかキャラクター性、全部が詰め込まれているので、一曲聞くだけでそのキャラクターの魅力を感じられる事ができて、側に寄り添っているような感覚になるっていう、とても素敵なものだとものだと思っている」

これは、2018年6月18日に公開されたテニラビ半年記念動画「新テニスの王子様 RisingBeat 配信半年記念‼︎ 応援コメント動画第3弾 小野大輔さん」内で語られた徳川カズヤ役 小野大輔氏の言葉である。

この言葉がテニプリキャラクターソングひいてはミュージカルまで含めたテニプリソングの全てを表しているように感じられる。

 

テニプリに関する歌は、アニメOP・EDテーマ、アニメキャラクターソング、ミュージカルソングと様々な歌がある。

聴衆である私達は、その曲がテニプリソングとしてふさわしいのか、良いのか、正しいのか、ということに気をとられることもあるけれど、人それぞれによって聞き心地の良い曲はあるけれど、きっと全てがテニプリの歌なのである。

 

それは、テニプリの創造主、原作者である許斐剛先生がその全てを愛しているからである。

許斐剛パーフェクトLIVE〜一人オールテニプリフェスタ2018〜は、テニプリソングのオリジナルがどのメディアに由来するかという点に対する差異の無さ、テニプリを愛する全ての楽曲達がテニプリを彩る大切な一曲一曲であることを示した一つの形であろう。

 

人それぞれ心地よい音楽は違うけれど、全てテニプリの音楽である。

 

テニプリのストーリーについて原作漫画のストーリーが、アニプリテニミュでストー変更されていることについて論争がおこるけれども、それがキャラクターソングであっても、ミュージカルソングであっても、キャラクターソングが今までのキャラクターのイメージに完璧に沿う内容ではなくても、テニプリを彩る歌であることに変わりはない。作り手、歌い手のテニプリのことを想った気持ちが一曲一曲に詰め込まれているのだ。

 

ただ、論争が起きるということはそれだけ真剣である、ということなので、聴衆が論争を巻き起こすこと自体は否定されるべき事象ではない、とも考えている。 

 

 

どの曲が好きでも構わない。

ただ、全てがテニプリを愛する歌なのである。

だからどの曲もみんながそれぞれの形で歌い継いでいきたい。

それがテニプリを愛する一つの形になる。

漫画を読むのと同じように、アニメを視聴するのを同じように、ミュージカルを観劇するのと同じように、原作者の歌も、アニメ主題歌も、キャラクターソングも、ミュージカル楽曲も全てを愛して歌い継ぎ、その度にテニプリへの理解を深め、テニプリっていいなの気持ちを確かめていきたい。

 

どんなに拙い方法でもファンが愛した様を喜んで受け止めてくれる許斐先生を始めとした製作者側の方々。私は一ファンとして、これからも感謝して、テニプリを愛したいと思う。

原作漫画を読み解く_青春学園考察

テニスの王子様』は越前リョーマから始まる青春学園中等部男子テニス部(青学)の物語だ。

 

連載初期の『テニスの王子様』公式ファンブック達に掲載されている原作者の許斐剛先生のインタビューから引用したい。

 

テニスの王子様 公式ファンブック10.5巻

許斐剛先生 Inside Out Report !!

許斐先生に聞く‼︎『テニスの王子様』誕生のウラ

越前リョーマを主人公に持って行くと作品全体が暗くなる不安を解消させた方法についての問答の流れで)

リョーマの周りにすごく強い青学レギュラーたちを持ってきて、その誰もがリョーマの個性に負けていないという。」

 

テニスの王子様 公式ファンブック20.5巻

許斐剛INTERVIEW OF ALL CHARACTERS

(青学のライバル校のキャラ達を中心にした話は描く予定があるのかどうかという質問に対して)

「やっぱり青学が中心になるでしょう 。ライバル校は、次の試合で青学と対戦する前に強さを見せるなど、ひとつのステップとしては出すかもしれません。基本的には青学絡みで行こうと思っています」

 

魅力的なキャラクターはたくさん居れど、『テニスの王子様』は青学を主人公校として中心に置き焦点を当てて描かれた物語なのである。

 

青学レギュラーは描かれ方が詳細だ。

 

青学内でのランキング戦、部内練習は、青学レギュラーの自己紹介として機能する。

対 主人公の越前リョーマとすることで、各青学レギュラーキャラクター個人の弱みと強みが浮かび上がる。 

これが大会になり、学校対学校の試合になった時に、青春学園が主人公としての役割を発揮することになる。部内描写が学校単位での主人公になった物語において、違和感なくその主人公校の役割を果たさせている。

 

青学はレギュラーが9人(都大会までは8人)いる都合上、大会では2人ずつ試合には出場しない補欠となる。

各試合の試合毎にどの7人が選ばれているのかが漫画を読む上で重要になってくるのだが、それは、各対戦校が連れてくる人生のテーマとの相性の良いメンバーが選ばれていると読むことができるであろう。

例えば、全国大会の対氷帝学園における人生の課題は"情熱"であると考察でき、人間自らのうちに宿る情熱をぶつからせる試合である。

この試合での青学の試合メンバーは

S1:越前リョーマ

S2:手塚国光

S3:桃城武

D1:大石秀一郎菊丸英二

D2:乾貞治海堂薫

補欠:不二周助河村隆

となっており、この全国氷帝戦の時点において、青学メンバーの中でも不二周助河村隆の両名はとりわけ試合へのモチベーションや情熱の掛け方において利他志向が大きく、自らの内部に宿る情熱の量としては青学レギュラー9人の中では弱い方であろう。

 

また、同じ対氷帝学園戦でも関東大会については、向き合う人生の課題が"チーム・仲間"であると考えられるため、D2で3人でダブルスとなったことを鑑み、青学9人全員で挑んだ試合であったことも納得できるだろう。

 

各ライバル校が青学との対戦にあたって、どのような人生のテーマ・課題を提示しているのか、という考察については、2018年4月12日に掲載した記事を参考にされたい:

https://namimashimashi-tpot-373.hatenablog.jp/?page=1523705120

 

なお、『テニスの王子様』を読み解くにあたり、青学の団体戦における各試合毎のメンバーは考慮されても、勝敗については勝ち負けどちらであっても人生の課題に対する向き合い方には影響しないと考えても良いだろう。

それは、『テニスの王子様』の最終巻にほど近い頃に出版された公式ファンブック40.5巻において、原作者許斐剛先生が以下のように語られていることによる。

「無残にやられる中で、どう青学のキャラクター達のよさとか進化を描こうかと考えていました。海堂に関しては、まわりの皆が強くなるレベルに合わせる様に、進化を果たさせたかったんです。」

 

青春学園中等部男子テニス部レギュラーメンバーは、試合をすることでその対戦校が提示する課題と戦い、乗り越えていく存在だ。 各対戦校が連れてくる課題に向き合える青学レギュラーのみが、その時その時で戦うに相応しい存在であったように描かれている。

だからこそ、『テニスの王子様』の主人公越前リョーマは青学に入学しなければならなかったし、青学がそれぞれの瞬間であの状態であったからこそ全国優勝を成し遂げることができた。

そんな唯一無二の奇跡を起こせるよう、青学をしっかりと主人公校に仕立て上げることで、描いてみせている。

 

以下、余談だが、

テニスの王子様』の続編『新テニスの王子様』はライバル校キャラクターの救いの物語と読むことができるのではないだろうか。

テニスの王子様』では救われなかった、課題に直面するだけで終始したキャラクター達が成長する、個人的な人生の課題と向き合って克服するストーリーである。

テニスの王子様パーフェクトファンブック23.5巻のインタビューにおいて許斐剛は、無印『テニスの王子様』は漫画のコンセプトとしてプロセスを描かないことにしていた、と明かしている。

そのことが『テニスの王子様』での、より一層青学のみにフォーカスが正しくあたる、主人公校として機能するように働いていた。

裏を返せば、ライバル校のキャラクターは青学レギュラーキャラクターに比べて圧倒的に描写が少ない。すなわち、青学と対戦したその後の成長や心境の変化が描かれるのは非常に稀なケースである。

なお、その限りではないライバル校キャラクターとして跡部景吾が挙げられるが、跡部景吾はパーソナリティと生い立ちの特性において課題克服までの期間が圧倒的短期間のため、進化や成長が垣間見えたに過ぎない。

『新テニスの王子様』では時間をかけて一人一人の王子様を描くからこそ、無印では課題が課題のままになっている王子様達が、青学にフォーカスが当たった世界では焦点が結ばれなかった王子様達が、特に、その救いを描いてもらっているように読むことができると捉えている。

原作読み方心得

テニスの王子様 パーフェクトファンブック 23.5巻掲載の"許斐先生が語る!パーフェクトインタビュー"内で「きちんとマンガを見てもらいたいな。」と『テニスの王子様』『新テニスの王子様』の原作者であり創造主である許斐剛先生は話している。

 

その原作漫画『テニスの王子様』『新テニスの王子様』を読む時に心に留めておきたいことを3点を述べる。

 

1)リアリティーを過度に追求しない

テニスの王子様』『新テニスの王子様』はスポーツ漫画というジャンルに分類されるものの、掲載元の週刊少年ジャンプはファンタジー漫画も載っている漫画雑誌である。

テニスの王子様』『新テニスの王子様』はスポーツというよりはジャンプ漫画なのである。

つまり、バトル・ファンタジー物にも勝るとも劣らない展開や表現が多様に用いられている。

2017年4月28日に発売された少年ジャンプ特別編集増刊ジャンプGIGA2017val.1掲載の"許斐剛×藤巻忠俊クリエイティブの秘訣お答えしますスペシャル"の対談内において、藤巻忠俊先生を交えながら、

実際にスポーツものではフィクションのシナリオよりもノンフィクションの筋書きのないスポーツを観る方が面白いこともある。その実際の生のスポーツのワクワク感に勝つために漫画でしか描けないフィクションやドラマを工夫している。漫画でしか表現できない部分に価値がある。(要約)

といったようなことを語っている。

 

2)キャラクター の意志を読みとる

テニプリはキャラクターの設定が非常に細かく決まっている。

前述の対談内でも許斐剛先生は「人がそこに一人生まれるみたいな感じで作っていますね。」と語るほどである。

その細かな設定が原作漫画ではキャラクター自身の意志となり動くようになってくる。

テニスの王子様 公式ファンブック40.5巻掲載"許斐剛先生 百八式破答集 キャラクター編"のQ54「キャラの試合展開はどの様に決めるのですか?」という質問に対して

A.「おおまかな勝敗等、メインの流れは決めてから描き始めるのですが、実際の試合になると、キャラクターがそこで決めていなかったような動きをしてしまうんです。」

と回答している。

すなわち、描き手である原作者の手を離れ、原作者ですらも想定ができきれない意志を持った存在としてのキャラクターが漫画内には生きていることを覚えておきたい。 

 

3)刹那性

許斐先生が2018年3月のパーフェクトLINE LIVEで言っていた「一度勝ったからと言ってキャラクター間の強弱が決まるのではない」という点だ。

読者からの質問「新人戦では氷帝の日吉若と立海切原赤也はどちらが買ったのですか?」への回答にあたっての1:05:28~の発言「テニスって一回勝ったからその人が強いってわけじゃなくて、錦織選手でもやっぱりランキング下の人にも負けたりするから、その時のコンディションとかサーブがすごく入ったとか、変わってくるので。たまたまその時は。」と、いうことだ。

テニスの王子様』『新テニスの王子様』で描かれる試合結果は、【その時】【その場所】であったからこその試合結果という受け取り方が推奨される。

 

以上3点を『テニスの王子様』『新テニスの王子様』を読む時は心に留めておくと、より真っ直ぐに原作漫画を読むことができるのではないだろうか、と考えて漫画を読むようにしている。

世界平和の到来を願う営み

テニプリは世界平和の実現を目指しているのかもしれない。

 

テニプリキャラクターソングの中でもみんな大好きLove Festivalからテニプリが世界平和を目指す点について考えたい。

Love Festivalという楽曲の人気の高さは先のテニプリフェスタ2016合戦における全楽曲ファン投票でユニット部門第2位、総合第6位を獲得し、また、非公式ではあるものもその後の超A&G諏訪部順一の生放送で甲斐田ゆき氏をゲストに収録されたラジオ番組内でのアンセムテニプリソングどれが一番好き?投票では得票率52%という過半数での圧倒的支持を得て第1位となったこと等から窺い知ることができるだろう。

 

諏訪部、甲斐田両氏の言葉を借りると"Theテニプリソング"であるLove Festival。

このLove Festivalからは、テニプリが世界平和を願い、その到来を試みていることが読み取れるのではないだろうか。

 

一部歌詞を引用する。

見知らぬ人と人とが Yeah!

High-Touch出来るって Fantasticバザール Hi Hi Hi Hi

そうさこれがマジで毎日待ったフェスタ

"

 

テニプリを楽しむことで人と人とが仲良く楽しむことができる世界を理想としているのかもしれない。

テニプリっていいな」という共感を分かち合う平和な世界の到来を真剣に目指している試みなのかもしれない。

 

元々テニプリオールスターズによって歌われているLove Festivalだが、2018年6月10日に開催されたおてふぇすこと許斐剛★パーフェクトLIVE〜一人オールテニプリフェスタ2018〜夜公演では、Love Festivalは原作者・アニメ声優・ミュージカル俳優が一緒になって歌われた。

正にオールテニプリで披露された一曲となった。

全ての垣根を超え、争いは放棄され、みんなでテニプリを楽しむための楽曲なのだ。テニプリ界の平和を象徴するような一曲だ。

 

また、おてふぇすにおいては、原作者の許斐剛先生が、演出で客席プレゼントとして天井から降らせたバルーンを客席が後ろへ後ろへと回す光景をご覧になり「客席のみんながここにいる全員が楽しめるように、という思いでバルーンを広く回してくれた、みんなが優しいこの光景を忘れないよ。」と仰っていた。

テニプリの世界を作った許斐先生ご自身が、テニプリのファン皆が楽しめる世界を望んでいるのだ。

一人でも多くの人とテニプリを好きという気持ちを分かち合い共有できる、そんな優しい世界を本気で願い、実現させようと試み続けるテニプリの営みに感謝したい。

そして、テニプリを好きになった一人として、その優しい世界の構築を担う一端になれるような志を持っていたい、と思わされている。

永遠性を予感させる物

テニプリはどこか絶対的な感ともいえる永遠性を感じさせる雰囲気をまとっている。

この光は、テニプリがファンを幸福にしている力は、決して消えたりなどしない。

そう思わせる物がある。

 

もちろん『テニスの王子様』が最終話を迎えて連載が終了したように、アニメテニスの王子様が最終回を迎えたように、現実的に物理的な永遠性があるのではない。

テニプリが感じさせる永遠性は、人々の内に宿る、人々の心の中で生き続けるという永遠だ。

ストーリーに触れることで得られるパワーや新しい発見は、衰えることなくいつでも新しくて深いテニプリをもたらしてくれる。

 

テニスの王子様』と『新テニスの王子様』を読み継いでいくこと、そしてキャラクターソングやミュージカル楽曲といったテニプリソングを歌い継いでいくことが、ファンの人々の生活に、時が経っても生き続けるテニプリをもたらしている。

 

つまり、テニプリを永遠にするのはファンの日々の営みなのである。

 

漫画・アニメ・ミュージカルと様々なメディアで繰り広げられる 『テニスの王子様』『新テニスの王子様』が作り出した物達を享受することで、テニプリはファンの人々の内に宿る。

人の内部で生きる精神的な永遠性を獲得できるように作られたコンテンツ達だ。

 

また、読み継がれ、歌い継がれることで、世代を超えてテニプリが伝わっていくことになる。

例えば、既にその片鱗はテニミュで垣間見得ており、テニミュは一定期間が経つと役者が代替わりしていくことで演じ続けられるシステムをとっており、また、ストーリー展開においても、原作『テニスの王子様』を第1巻〜最終巻まで公演し終えるとまたもう一度最初に話を戻して公演を始めるシーズン制をとっているが、役者が替わっても、時が経っても、変わらずに受け継がれている歌や踊りや物語があり、そしてそこに込められた思いがある。

 

テニプリフェスタ2016合戦に合わせて世に発表されたテニプリ☆パラダイスの歌詞から以下箇所を引用する。

 

10年…20年…100年経ったとしても

胸の中刻まれた物語よりも

負けない強さもって飛んでいけるから きっと

 

テニプリは100年経っても力強く生き続ける物語だ。

現実の物理的な永遠を超えて、胸の中に刻まれ人々の内に宿る永遠を有する物語だ。

そして、我々ファンは、テニプリが自らの内に宿るようにテニプリに触れ、その胸の中に刻まれたテニプリの物語から常に新しくて強い力をもらい日々を生きていきたい。