超解釈テニスの王子様  人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

人生への圧倒的肯定を描き出す『テニスの王子様』と、その続編『新テニスの王子様』についての個人的な考察を綴ります。 出版社および原作者など全ての公式とは一切の関係はありません。全ては一読者の勝手で個人的な趣味嗜好です。 Twitterアカウント:@namimashimashi

天衣無縫の極みについて考える_人生の辿り着くべき場所への到達

※本記事は、作品名などの表記にブレがあったり、段落間の接続に違和感があったりするため、後日修正を入れる心づもりです※(2019.1.5)

 

200712月に刊行されたテニスの王子様公式ファンブック40.5によると、

"天衣無縫の極み◉無我の境地の奥にあると言われている、3つの扉のうち「開かずの扉」と呼ばれる、最も次元の高い領域。過去数十年前に、1人だけこの扉を開いた人物が存在するらしい。"

と記されている。

なお無我の境地とは、身体の記憶でプレーをするようになる一種のゾーン状態のことである。

 

旧テニで越前リョーマが天衣無縫の極みの扉を開いた「テニスって楽しいじゃん」の自覚は、ジャンプ展(会期20189)の原画展示キャプションで原作者より「旧テニプリのたどり着いた答え。皆の戦ってきたすべての答えがここにあります。」と語られた。

これはテニスって楽しいじゃんが答えであると同時に、この自覚はあくまでテニプリ答えだと限定されたことでもある。

新テニでは別の答えが示されても何ら不思議ではない。

 

喜怒哀楽の感情のうちが五感剥奪や体力・精神の火が消えてしまった状態からの再起に有効なのではないだろうか。

天衣無縫の極みの到達が描かれているのは3人越前リョーマの他にもう2人手塚国光遠山金太郎がいる(鬼十次郎は目覚めた瞬間が描かれておらず最初からできたことを思い出したのでここでは含まないこととする)。

手塚国光の天衣無縫の極みへの到達シーンから、天衣無縫の極みの扉はその領域に到達していてもリミッターがかかり開かない可能性があることが示唆されている。手塚にはチームのためという没我的な自己欲求を無視する禁欲的な姿勢を解放したことで本来の姿として天衣無縫の極みが現れた。

遠山金太郎の天衣無縫の極み到達のキーワードは面白いではないだろうか。

越前リョーマが父親:越前南次郎によってテニスって楽しいじゃんの気持ちを思い出した時の覚醒の言葉は「テニスを嫌いになれるわけない だってテニスって楽しいじゃん」であったが、遠山金太郎は「面白いわぁ だからテニスは止めれーへん」だ。

(おそらく鬼十次郎は「俺の幸運」)

つまり、天衣無縫の極みという答えが一つ存在していること、その答えに到達する法則性や属性はあれど方法は人それぞれということが分かるだろう。

 

さて、この天衣無縫の極みとは言い換えると絶望から自力で再び立ち上がった状態ということができるのではないだろうか。

前述の通り、天衣無縫の極みに主人公越前リョーマが目覚めたきっかけ「テニスって楽しいじゃん」の自覚を「旧テニプリのたどり着いた答え。皆が戦ってきたすべての答えがここにある」と原作者である許斐剛氏はジャンプ店にてキャプション付けした。

テニスを楽しい嫌いになれないの自覚がすべての答えということは、テニスは人生であるテニスの王子様の世界観においてそのまま人生を嫌いになることはできないという意味にもなる。

 

テニスの王子様において越前リョーマは全員の全てを背負いすべてを昇華させた。

越前リョーマとは象徴なのである。

越前リョーマが主人公としてまっさらな状態から一つずつ背負うものを増やし最終的に天衣無縫の極みに到達してみせることは、作中に登場しテニスをプレーする全員にその可能性が宿っていることを表現したことになる。

 

 

天衣無縫の極みとは何かといえば結局はテニスをするためにテニスをする状態なのではないだろうか。

ただテニスが楽しいから(正の感情をもたらすから)テニスをする

テニスを上手くなりたいからテニスを上達させる

テニス以外のところに目的がない、つまり、勝つためや見返すためなどといった何か目的達成を念頭に置いていない報酬系の思考から脱却し、体が実践している状態が天衣無縫の極みなのではないだろうか。

 

また、新テニ遠山金太郎の天衣無縫の極み状態を観察するとそこに勝ち負けと満足度の相関性がないことがわかる。

天衣無縫の極み到達状態のプレイヤーにおける試合の勝敗はテニスに対する感情に影響を及ぼさない。

 

つまり、テニスは人生のテニスの王子様世界の文脈で語ると、生きるために生きることができる状態が最強のレジリエンスをもたらすという答えになるといえるのではないだろうか。

何かの目的を果たすために生きるのではない。

今、目の前のそのものをそのまま愛し楽しむことができるだろうか?それが出来た時が精神的に満たされ、折れない心や、ひいては充足感につながる状態が天衣無縫の極みの扉を開いた者の人生観であり、この境地を人生が到達すべき最高次元と定めたうえで主人公に到達させたのがテニスの王子様である。

 

なんのためにテニスをするのか、それはテニスをするためなんのために生きるのか、それは生きるためこの思想に到達するための物語であるからこそ、テニスの王子様は、人生への圧倒的肯定感、つまりは生きていることそのものの賛美であり、受け入れられている感覚であり、~~ができるから、~~を成し遂げたから賞賛されるような条件付きでない生が肯定されているので、読者は物語から力や勇気や安心を得ることができると考えている。

 

テニスの王子様とは人間賛歌の物語である。

そして、その続編である新テニスの王子様では天衣無縫の極み以外の人間が到達すべき境地を模索して提示する挑戦(物語)であることが幸村精市の姿を通して示唆されていると読んでいる。

 

このキーマンになるのが幸村精市だ。

幸村精市は旧テニ中では最後に登場する最強の敵、すなわちラスボスであるが故に主人公に背負われない唯一のキャラクターのため、作中では他キャラクターと別次元に立たされている。

その幸村精市が他キャラクターと同次元に立ち、成長すべき存在としての物語が描かれるようになるのは新テニスの王子様の物語である。(旧テニの作中で仮に幸村精市に他キャラクターと同様に成長、テニスの王子様世界における人間存在への救い、がもたらされているとするならば、唯一全国大会決勝シングルス1で越前リョーマに敗北し握手をした後のDear Princeテニスの王子様達へ~の歌詞が描かれる数コマの時間に訪れているだろう。)

その幸村精市は、新テニスの王子様16巻17巻においてU-17W杯のエキシビジョンマッチ対ドイツ戦に出場し、相手の強さの前に自らがイップスの五感剥奪状態に陥ってしまう。その幸村精市イップスを克服のきっかけに、旧テニでは示されなかった人生の到達すべき境地の示唆が垣間見える。

 

イップスの自力脱却を試みるにあたり幸村精市は、「ただ一人あの王子様を除いて」というモノローグで無印テニプリで描かれた全国大会決勝シングルス1で対戦相手であった越前リョーマが同様の五感剥奪状態から自力で脱却したことを思い出す。

その上で、越前リョーマテニスの王子様で天衣無縫の極みに到達したきっかけ「テニスって楽しいじゃん」を否定し、「テニスをできる喜びは俺は誰よりも強いんだ」という喜びを自覚したことでイップスからの自力脱却を果たした。

ここで幸村精市は、五感剥奪状態を自覚してその恐怖を認識した上で克服するという、自らが今までに他人に施してきたことを自らが体感し、認識し、乗り越えるという自己の再定義に成功している。またこの再定義によって人生の次の段階へ進むことができた。

おそらく、五感剥奪状態は絶望のメタファーである。

この絶望はテニスができないという絶望だ。

幸村精市は、病に倒れてテニスができなくなる絶望を克服し、さらに試合中の五感剥奪状態からの自力脱却を経ても、なお極みに達しない。

幸村精市のテニスへの執着は、テニスをする=生きることの価値観であるテニプリ世界においてそれはそのまま生への執着だ。

従来、幸村精市は無我の境地を使えるが好まないという理由により自らの意思で境地の扉を開かない、使わないようにしていた。

天衣無縫の極みが一つの答えだとすると、このことは天衣無縫の極みの扉を開く以外の別解としての存在が幸村精市であり、これは病を克服して這い上がり再びテニスの元に戻ってきた幸村精市を通してだからこそ挑戦できる人生の答えであろう。

 

まとめると、天衣無縫の極みとは、喪失からの再獲得およびその自覚と定義づけられるかもしれない。

天衣無縫の極みのレジリエンス

それはさながらイエス・キリストの復活の様である。

奇跡の復活は死という絶望があるからありえる希望なのだ。

絶望を克服するから奇跡であり、信仰の対象となるのだろう。

テニスの王子様における天衣無縫の極みの扉を開くのも、絶望を克服し、その先に前向きな感情を抱くことができた者なのかもしれない。

 

広辞苑第七版より

天衣無縫

てん-い【天衣】

①天人・天女の着る衣服。また、天の織女の着る衣裳。あまのはごろも。(②は略)

−•むほう【天衣無縫】(天人の衣服には人口の縫い目などがない意から)詩歌などに、技巧をこらしたあとがなく、いかにも自然で完美であるさまの形容。また、人柄が天真爛漫でかざりけのないさま。

(かん-び【完美】①完全で美しいこと。②完全に充実すること。)

極み

きわみキハミ【極み】きわまるところ。限り。はて。

キャラクター考_W主人公とその所属校について考える

テニスの王子様』の主人公は越前リョーマである。

一方で原作者からは、アイディア段階では遠山金太郎が主人公であったと明かされている。

本ブログでは以前『新テニスの王子様』は、越前リョーマ遠山金太郎のW主人公で物語が描かれていると論じた通り、テニスの王子様の物語を読み解き、考察する際には、遠山金太郎も主人公と同等の役割が物語内で与えられているとみて差し支えないだろうとみている。(

キャラクター考_W主人公補足 - 超解釈テニスの王子様 人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

ちなみに『新テニスの王子様』以前であっても、無印『テニスの王子様』単行本28-29巻に掲載されたGenius245-247の3話は、Wild1-3と話数が数えられ、主人公遠山金太郎がライバル越前リョーマと出会う物語として描かれている。

 

さて、この主人公2人だが、そのパーソナリティーがそのままそれぞれの所属校を象徴していると読めるだろう。

主人公を最年少の可能性の化身とし、かつ所属集団の象徴の役割を背負わせることで、最終的に物語全体を昇華させるのである。

 

テニスの王子様ではファンブックとしてキャラクター設定集が刊行されている。

ファンブックでは各キャラクターの様々なプロフィールが公開されているが、無印40.5巻と新テニ23.5巻では"座右の銘"が掲載されている。

それによると、越前リョーマ遠山金太郎座右の銘は下記だとされている。

越前リョーマ「All or Nothing」

遠山金太郎「やられたらやり返せ!」

(『新テニスの王子様』23.5巻ではキャラクターの成長に伴い、何名かいつくかの項目でプロフィールが前出のファンブック掲載内容から変更されていることもあったが、この2人の座右の銘は、40.5巻から変更はなかった。)

このそれぞれが座右の銘にしている言葉は、それぞれの所属校、越前リョーマ青春学園(以下、青学)、遠山金太郎四天宝寺の男子テニス部レギュラーが掲げるモットーと親和性が非常に高い。

 

遠山金太郎の「やられたらやり返せ!」の信条から伺えるのは、自分の土俵で勝負を買い、そのフィールドでは勝つ、という気概だ。

これは、「勝ったモン勝ち」の精神を共有する集団である四天宝寺の哲学を凝縮させているとも見えないだろうか。

また、越前リョーマの「All or nothing(全か無か、全てを賭ける、絶対的)」も、無印の作中で唯一天衣無縫の極みの扉を開いたテニスの申し子、テニスのみに向かい合う、テニスに対してto be or not to be(テニスであるか、ないか、それが問題だ)とでもいうような姿勢は、テニスのみを価値観として繋がる青学を象徴する。青学はテニスのみを価値観として繋がり、テニスに勝つことそのもののみが目的にもなっている哲学を抱える集団だ。

 

このことから、青学と四天宝寺は超新人がいてこその集団とも言え、またそれと同時に、W主人公は自らの学校に所属するべくして所属している存在だとも言えるだろう。

そしてまた、全国大会準決勝S1のオーダーは、1年生同士の試合だが、団体戦として学校同士の想いがぶつかり試合となる可能性があるオーダーであった。

(しかし実際は、越前リョーマ遠山金太郎の可能性同士が共鳴し合い、運命的に相手を倒したいと感じ取ったことにより、団体戦の試合ではなく、エゴイスティックな願望を反映する個人的な試合展開となった。それは二人が中学1年生であるためが故の集団を背負う存在としての未成熟さが故だと考えている。)

 

青学を東の主人公校とするならば、西の主人公校ともなる四天宝寺中学校テニス部についてもう少し考えてみたい。

 

無印『テニスの王子様』において青学以外のライバル校を読み取れる機会は少なく、青学との試合描写でのみから読み取るしかない場合がほとんどだ。

その代わりという程でもないが、団体戦では試合全体の雰囲気に対戦校の色合いが色濃くでる。対戦校が青学に課題を突きつけ、それを青学が破り克服する形で物語全体は進んでいく。(だから、青学メンバーは数々の課題克服を通して物語全体で進化・成長が分かりやすく描かれている。)

全国大会準決勝青学vs四天宝寺戦は、「勝ったモン勝ち」と「やられたらやり返す!」を表現するかのように、目には目を歯には歯をと言わんばかりの試合が続く。

すなわち、同じ長所を持つ者同士の戦いとなっている。テクニックvsテクニック、戦略vs戦略、パワーvsパワー、無我の境地vs無我の境地のように。

その中で非公式試合になったS1越前リョーマvs遠山金太郎の一球マッチは、可能性vs可能性の試合であり、その後の物語の終着点を予感させるような試合となった。

 

そしてまたストーリー外ではあるが、四天宝寺が青学と同様に主人公級の存在を抱える第二の主人公校であり、青学の対称(鏡写し)の学校であることは、そのメンバー構成や原作者の作詞のキャラクターソングの歌詞からも感じ取れる部分がある。

テニスの王子様に登場する学校の特性は、原作者の許斐剛作詞作曲の楽曲"テニプリFEVER"と"一人テニプリ☆パラダイス"の歌詞等で言及されている。

青学「勇気と優しさ無限の心」

四天宝寺「無限の輝き無二の個性派」

上記のように、歌詞では青学と青学との試合描写がある各校に一言が与えられているが、全11校中(U17は学校ではないが数に含めた)共通の単語が使われているのは青学と四天宝寺における”無限”のみである。

また、7人しか試合に出場することができない団体戦においてレギュラーを9人要する主要校も青学と四天宝寺の2校のみである。

つまり、設定の段階から集団として青学と四天宝寺は似て非なるような存在なのだ。

だからこそ四天宝寺と青学は対等であり、同様に遠山金太郎にとって越前リョーマは"やられるーやり返す"の関係が成立する存在なのだ。

 

なぜこの主人公達の象徴性が語られるべきかについては、越前リョーマが作中の世界でも彼自身がテニスの王子様だと呼ばれ、全国大会決勝S1での勝利を以って全てのキャラクターを昇華させたいわば作品の象徴的な存在であるためである。

 

テニスの王子様』のストーリーは入れ子構造のようになっている。

物語は周辺部の事象からその真髄となる中心的哲学に向かって集約するように進んでいくように展開する。

テニスの王子様の特異性は計算され尽くした物語展開にはなく、中核部分(物語を貫く信念、哲学)の揺らがなさだ。

中心が強いため、その周辺で何をやっても全て中心概念を反映したものになる。

越前リョーマが象徴であるならば、物語内でリョーマと同格の立ち位置である遠山金太郎も象徴でなければならず、また、それと同じく、越前リョーマが物語全体を象徴するのであれば所属する学校(集団)の青学をも象徴する必要があり、またそうであるならば、遠山金太郎も自らが所属する学校(集団)の象徴であるべきであろう。

なお、越前リョーマが青学の象徴であることは「青学の柱」の伝承や、全国大会決勝S1開始前の青学ベンチで「(青学にとって)最も重要な選手に成長していた」と語られることから読み取ることができるだろう。

主人公に象徴の役割を持たせることは物語が最終的にたどり着いた結論の普遍性を強めている。

「テニスって楽しいじゃん」を皆が戦ってきたすべての答えとし、天衣無縫は誰もが以っていることを真に感じさせることができたのである。

この"誰もが持っている"普遍性を感じられるからこそ、テニスの王子様は人生を祝福し肯定するメッセージを発しているのだろう。

 

さて以下は余談だが、『新テニスの王子様』は世界大会が始まってからが、テニプリの面白さの本領が発揮されていると感じている。

作者である許斐剛氏は、キャラクター作りにおいて他の追随を許さないほどの天才的な手腕を発揮する漫画家だ。

各集団の特性を明確に設定し、多様なキャラクターそれぞれに自らの属する集団の精神を宿し、それを集団内のメンバー間共有させ、戦わせることで、テニスという個人種目をなお団体戦として魅せることができているのである。

テニスの王子様』では学校単位で発揮されたこの手法が『テニスの王子様』最大の面白さであり、この面が全面に出ている戦いがテニプリの真骨頂である。

そのテニプリの真骨頂は『新テニスの王子様』で世界戦に突入し、各国代表という集団同士が戦い合う中で再び遺憾無く発揮されることとなる。

人文知と社会知

テニスの王子様の話のような、そうではないような話をします。

 

本ブログの更新はすっかりご無沙汰になってしまい、前記事掲載から一ヶ月以上が経過してしまっている。

その間、テニスの王子様に関する考察をしなくなったのではなく、考察点のアイディアはあるもの文章として納得いくように纏められず、未公開の下書きは20以上あった。

その下書きに保存されていた考察ポイントのアイディアの整理として、本ブログで試みようとしているテニスの王子様に関する人文学的考察から観点がずれる項目についていくつか言及しようと思う。

 

テニスの王子様の功績は多々ある。

検証すべき社会学的事象も多くある。

だからといって社会的功績と人文学的功績を混ぜこぜにして語ると考察として成立しがたくなる場合があるだろう。

というのも、社会学的考察に踏み込むにはデータ収集と分析が必要だからである。

つまり、テニスの王子様社会学的功績ともいえる、少年漫画読者への女性層の呼び込み、ヒットは難しいと言われてきたテニス漫画のヒット、クールで天才な"すでに強い"という少年漫画における新たな主人公像の確率、キャラクターマーチャンダイジングやメディアミックスの手法と展開、エンタテインメントコンテンツにおける視聴者への公共性の提供などについて客観的に述べるにはそれを裏付けるデータが必要になる。

感覚的にはテニスの王子様のメディアミックス展開やキャラクターマーチャンダイジングの多様性とそれらに伴う消費者や後発の他作品への影響を感じてはいる。

しかしながら確証を得て述べるのが難しいと考えているため、この場では、私が感じていたり噂で聞いたりしていることを上記のように列挙するにとどめたいと思う。

 

その代わりではないけれども、作品世界を読み解くことで解析し、たどり着くことのできる哲学や物語性ような人文知の事柄について引き続き考察していきたい。

 

漫画作品のようなサブカルチャー作品の分析ならびに考察に関して励まされる言葉に出会った。

「(前略)芸術や表現を「分析」するとう行為は、その物語や表現が、時間、空間を問わず、人々によって共有されるべき価値があると判断されたからこそ成立する、と思うのだ。逆から言えば、共有されるべき価値を内包しない物語や表現に関しては、そもそも「分析」自体が成立しないことになる。とするならば、分析が成立した時点で、その社会的な価値は保証されていることになる。」

(2018年3月29日発行 野村幸一郎著 『新版 宮崎駿の地平 ナウシカからもののけ姫へ』 あとがき p204〜205より引用)

これは現代では一定の地位を確立させつつあるジブリ作品についての言及ではあるものの、テニスの王子様にもその片鱗は必ずあるとみることができるのではないか。

それは、2018年8月25日9:00付けで配信されたORIKON NEWS:

置鮎龍太郎&諏訪部順一が語る『テニスの王子様』の功績 まもなく20周年 | ORICON NEWS 

よりインタビュー内で「(前略)実は『テニスの王子様』って、スポーツ青春ドラマが持つ普遍的な魅力をきちんと備えた物語なんですよね。今回リメイクされたエピソードも、全く古さを感じませんでした。」 

諏訪部順一氏の言葉として語られている。

テニスの王子様には何年経っても変わらないアツさがあり、そのアツさの要因や普遍性の源についての分析ならびに考察が成立する。

人々に、時と場所を越えて共有されるべき価値観を有する物語であると言っても差し支えないのではないだろうか。(と、私は信じている。 )

すなわち人文学的考察に耐えうる作品だと言いたい。

 

さて、本ブログでは再三述べるようであるが、私はテニスの王子様の魅力は言葉で説明できるところにあるとは考えていない。

むしろ、"好き"であるだとか"面白い"であるだとか感覚に訴える部分の力が大きい作品だと思っている。

本能的気持ち悪さがない、感覚の世界に訴求力があるからこその信仰じみた好きを生み出すのだと考えている。

が、しかしそれは考察を否定するものでも無い。

読者に何が好きだと思わせて、何を面白いと感じさせ、何に感覚的感動を覚えているのか。

その正体を突き詰め、作品内で語られる哲学や美学を解明しようとする、そんな知的な営みの対象たる漫画作品の一つであると信じて人文学的考察を続けたい。

気持ちや情感を理知的に述べるには人文知を深めるのが有効なのだ。

 

テニスの王子様は、感覚的でありながら理性的である。

その両側面を忘れずに、そして、感覚と理性の両方に訴える魅力を存分に堪能しながらこれからもテニスの王子様の作品世界を楽しんで生きたい。

全国大会決勝立海大附属敗因重要人物について

人間は意味をつけずにはいられない生き物である。

そんな人間の習性に逆らえずに、『テニスの王子様』におけるライバル校達が主人公の所属する学校である青春学園中等部に負けなければならなかった意味を見出してみたい。

 

とりわけ立海大附属が全国大会決勝戦で青学に敗北を喫したのには、負けるべくして負けたとでもいうべき前触れ、理由があったようにみている。

 

その重要人物は柳生比呂士であったとみている。

 

(具体的に語る前に、前提として、『テニスの王子様』は青学以外の学校キャラクターについては非常に限られた情報のみしか提供されていないため、ライバル校のましてや一キャラクターである柳生比呂士について正確に全て知るのはほぼ不可能である。このことからこの考察は限られた情報から推測した仮定話だと、例えばこういう読み方もできる、こうして読んでみても面白いという程度でとらえていただきたい。)

 

全国大会決勝戦青学vs立海戦において柳生比呂士は勝敗の結果をもたらす人物だった。

 

立海は部長幸村精市のあだ名が「神の子」であることになぞらえると、柳生比呂士は聖書におけるイスカリオテのユダのようである。

柳生が勝敗を決める人物となった原因は関東大会後全国大会開始前Genius240奇妙な出会いで描かれた海堂との邂逅と入れ替わりから始まっていた。

 

全国準決勝の名古屋星徳戦では立海三連覇の必要スキルとされていた二年生エース切原赤也の悪魔化のキッカケの言葉を唱えたのは柳生比呂士であるが、決勝戦の青学戦では柳生はその言葉を発してはいない。

代わりにというわけではないが、青学戦では対戦相手で敵であるはずの青学2年生海堂薫のことを「無敵」と称している。

 

謂わば、立海大附属にとって全国大会決勝青学vs立海戦での柳生比呂士は異分子、さながら裏切り者のようなのだ。

 

それを象徴するかと疑う様な描かれ方がいくつかある。

全国大会決勝戦では柳生は試合に出場が無いためベンチからの解説や感想の台詞がいくつかあるのだが、D2乾・海堂ペアvs柳・切原ペアの試合が始まって以降、セリフの比率は圧倒的に青学に関する解説が多くなる。

 

また、立海のメンバーの中で一番先に描かれなくなるのは柳生である。柳生の最終登場コマは部長の幸村精市が入院中の回想であり、回想を除いた最終登場コマは最終巻42巻P30となる。これは主人公越前リョーマが天衣無縫の極み到達するシーンはおろか幸村のテニスが始まるよりも以前、幸村精市の前に越前リョーマが身につけた百錬自得の極みと才気煥発の極みが通用しないシーンに表情だけの台詞無しで描かれたのが柳生の『テニスの王子様』最終登場となっている。

さらには、最終巻42巻の巻頭STORY & CHARACTERSにも立海では柳生比呂士だけ不在なのである(試合をしていないというのが大きいとは思うが)。

 

 

関東大会決勝の青学vs立海戦にはキーパーソンがいて、それが乾貞治であったことはミュージカルテニスの王子様3rd season青学vs立海のパンフレットにて原作者許斐剛より明らかにされている。

では仮に全国大会立海戦にも青学のキーパーソンがいたとして、その人物を海堂薫として読むことはできないだろうか。

全国大会の青学vs立海戦について40.5巻の作者インタビュー『許斐剛先生 全国大会を語る‼︎』でも海堂薫は言及されている。

全国大会vs立海戦の「海堂に関しては、まわりの皆が強くなるレベルに合わせる様に、進化を果たさせたかった」存在だとされている。

海堂の進化、すなわちダークサイドへの目覚めのきっかけとなったのは世話になってきた先輩をがやられたからであり、この試合でそれを引き起こした悪魔化切原への攻撃であるジャイロレーザーとトルネードブーメランのコンビネーション技を海堂が身につけたきっかけは全国大会前の柳生比呂士が持ちかけた入れ替わりの経験である。加えて切原の悪魔化の呪文"このワカメ野郎"を作中で一番最初に発言したのも柳生比呂士である。

 

つまり、この全国大会決勝戦のキーパーソンを海堂薫とした場合、必然的に柳生比呂士も重要人物と扱わねばならなくなるのだ。

 

柳生比呂士の人物像を考える時、40.5巻で言及された守護妖精が四大妖精の水の妖精ウンディーネである件について解説した最後の一文があまりに底知れない。

“知性とプライドが高く、敵に対しては冷たい一面もあり、あらゆる手段を使って容赦なく叩きつぶすという激しさをも合わせ持っているのだ。"というのはあまりに怖すぎやしないだろうか。

なお聖書に登場する裏切りの代名詞イスカリオテのユダも十二弟子の中でプライドが高い人物であったと言われており似ていると言えなくもないのではないだろうか。

 

イスカリオテのユダのイエスキリストへの裏切りの教訓とされている箇所の一つに新共同訳聖書ペトロの手紙1 5章9節 「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」がある。

青学は原作者より「勇気と優しさ無限の心」を持ったチームとされている。

他校のましてや対戦相手でありライバルでもあるチームの選手への悪口陰口に我を忘れるような怒りを抱いた海堂の"優しさ"に青学の真髄に直接触れた柳生は、青学に敗北を喫する前に他の立海メンバーよりも一足早く、立海の信仰から踏み出てしまっていたのかもしれない。

 

以上のように考えると、実は全国大会決勝青学vs立海戦では対戦前にすでに対戦相手に影響を受けた存在がチーム内に居た時点で団体戦としては立海の方が負けるべくして試合に挑むようになっていたのかもしれない。

そしてその試合前時点で対戦相手に汲みしていた立海のメンバーこそが柳生比呂士なのである。

彼の存在が全国大会決勝で立海を敗北へ導き、ひいては、立海を敗北させた主人公越前リョーマが天衣無縫の極み到達した際の気づき「テニスって楽しいじゃん」という『テニスの王子様』の最終結論にも繋がっていると読むこともできるのではないだろうか。

 

さて、『テニスの王子様』におけるラストボス幸村精市は40.5巻で原作者より「最強で最悪の『神の子』幸村精市」と称されているが、その最強最悪な神の子幸村精市が率いる立海の掟に背いた柳生比呂士はどこへいくのだろうか。

聖書では神の子イエスキリストを裏切ったイスカリオテのユダはその罪に自殺をするのだが、それは聖書における神の子は世界の愛であり、真理であったからであろう。

柳生が背いた立海の掟はその上位概念に『テニスの王子様』の法則がある。立海の神の子を裏切っても、この世界の愛と真理に背いた訳ではない、というのが聖書とは異なっているだろう。

つまり、いっとき所属するチームにとっては"裏切り"の存在であったとしても、柳生比呂士もまたテニスの王子様の一人であり『テニスの王子様』の世界の法則に倣うようになる。

この希望こそが救いであり『テニスの王子様』の圧倒的肯定感の一因でもあるとみている。

人生の答え

人が生きる中で思い悩んだ時、宗教では聖典にその悩みの答えがある、書かれていると言われる。

 

テニスの王子様』の原作漫画にも似たようなことが起こる。

漫画の中にその時々の人生に響くシーンや登場人物に出会うことができる。

人生のステージが変わったり、その時々の悩みを持ったりして漫画を読むと、その時その時で惹かれるキャラクターがいる。

 

少年漫画とは、自己投影とカタルシスである一面を持つ。

登場人物に自分自身を重ねてそのキャラクターが作中で活躍し、成長する様に救いを見出す。華やかな言葉で記述すれば、キャラクターの活躍に元気をもらい、勇気付けられるのである。

だからこそ主人公をはじめとした登場人物には、読者がその心理に共鳴するような、シンパシーを感じやすい人格の設定やリアリティーが必要であり、親しみやすさが必要なのである。

一般に広く少年漫画のイメージとして語られる主人公像:"特別に目立つ才能がもとからある訳でもない男子が人生のアドバンテージが無い状況下から努力や周囲の助けにより勝利や成功を収める"という姿は読者を漫画に共感させて感動させることに適した法則なのである。

自己同一性確立の入り口に立ち始めた明確な自己表現はまだ難しく時として自己卑下をしてしまう少年という年齢層の人生への絶望を取り払い、根拠の無い希望を抱かせることができるキャラクターこそが魅力的なのだ。

少年漫画で人気投票をすると主人公が人気No.1になる場合が多いのは、恐らく読者の共感をより集めて、読者を最も勇気づけることができたキャラクターが主人公であるからであろう。

 一方で、200人を超えるキャラクター数を有し、主人公以外の人気キャラクターが多くいる『テニスの王子様』だが、それはつまり、読者の自己投影とカタルシスを引き受けることができる主人公以外のキャラクターが数多く描かれているということである。

主人公一人が読者のカタルシスを引き受けているのではないのである。

詳細なパーソナリティーの設定と、主人公以外の、場合によっては主人公が所属していないチームの選手の、試合描写によって、読者が自らに惹きつけることができるキャラクターが多様に存在するのである。

 

人は多様だ。

自分と他人も違う。

一人の人間であっても時が経つと感受性や考えが変わることだってある。

世界の真理は存在するのかもしれないが、そこにたどり着くまでの日々は人それぞれだ。

様々なキャラクターに詳細な設定が与えられて、生き生きと描かれる『テニスの王子様』は、その"人の多様さ"を受け止める。

だから、惹かれるストーリーやキャラクターを認めることは、自分の変化を知ったり、他人の感情を知ったりすることにもなる。

 

それは"答え"とまではいかないかもしれないが、人生に悩む時、そこに寄り添い一緒に戦ったり、時には乗り越える姿を見せてくれる王子様がこの漫画の中にいるだろう。

 

 

ちなみに余談だが、「人生、宇宙、すべての答えは42」(※)であるのだが、原作漫画テニスの王子様は全42巻である。

 

何を言いたいかと言うと、まあ、そういうことである。

 

これが偶然なのか必然なのかは作者である許斐剛のみぞ知るのであろう。

 

ダグラス・アダムス著「銀河ヒッチ・ハイクガイド」"Answer to the Ultimate Question of life, the universe, and everything"より

『BEST GAMES!! 手塚vs跡部』を映画館で観て感じたこと思ったこと考えたこと

(前置き)

元々このブログは漫画『テニスの王子様』と『新テニスの王子様』の考察を綴るために開設したので、個人的な感想を述べるのは場所が違う気もしましたが、感想がえらく長文になってしまったことや鑑賞して考えたことを書きたい衝動が抑えられず、長文を掲載できるこのブログを使いました。

色々と書いたことを消すのがもったいなくなり、結局何が言いたいかわからなくなってしまって宜しくないと思いつつも消せずに載せてしまったので、文章の分かりにくさはご容赦ください。

明日、日付変わって本日の公開最終日、最後にもう一度、映画館で目に焼き付けたい。

(前置き終わり)

 

 

アニメ新テニスの王子様BEST GAMES!!手塚vs跡部を観た。

 

アニメが原作漫画の理解をスムーズにしたりより深めたりと機能するのであれば、それは正しい漫画のアニメ化なのかもしれない。

 

《箇条書きの感想》

〈良かった点〉

漫画にはない脚色で、高架下コートの試合とタイブレーク中のアップとで相手を変えて越前リョーマが「いいっすよ」と言う演出は同じ台詞でも心情の違いが伝わってきた。

 

手塚国光にとって青学が大切になるまでの過程とそのきっかけ描写がとても丁寧。手塚国光にとっては大和部長はどこまでも青学の部長なのだ。

 

手塚国光を中心に据えた物語とすることで、大和部長→手塚部長→越前リョーマの青学の継承の流れが伝わってくる

 

あの試合が互いに極限なのは手塚国光がそれほどまでに強大に強いという前提がある。この試合で手塚国光が肩の痛みによって極限状態になっているのは分かるのだが、跡部景吾が何に追い詰められているのか疑問だったのだが、ただテニスで、手塚国光という圧倒的な強さに追い詰められていたのだと初めて理解できた。

 

アニメになり、呼吸を吹き込まれる存在になり、流れの中で描かれることが特に良く働いていたのが真田弦一郎。手塚と対戦をどれほど望んでいたかが伝わってきた。

 

試合のテニスボールが生き生きと描かれているのには感動した。やはりテニスの試合をしている時が一番にかっこいい。

 

榊監督と大和部長の声に抑揚がなくドライな喋り方がより一層際立っていてよかった。彼らは戦いをしている選手よりも少し俯瞰した視点にいる存在であることが分かる。

 

不二が手塚に固執しすぎていない雰囲気で良い。不二もまた手塚と対等なのである。

 

ゼロ式ドロップを拾おうとした者(越前リョーマ跡部景吾)が膝をつく動作が手塚をより強者に見せていて、手塚国光の圧倒的な強さが見えた。

 

越前リョーマの「はい」と「うっす」の違いに痺れる。

S1の決着後、観衆へ視点が映り、越前リョーマにだけ焦点が当たる演出も素晴らしい。

リョーマが青学の柱を体感で理解していく様が伝わってくるようで感動した。

まだよくわからない高架下と柱を背負うべき存在としてコートへ向かう補欠シングルスの感情の違いが歴然としており、観ている側も青学の柱、次世代への継ぐ紡がれる儀を正しく理解し、その重要性と重みを感じることができた。

 

青学のタイブレーク前のやりとりが最高。全員が止める中で大石が送り出しただけかと思われた後の一瞬の静寂の後の河村隆の「手塚ぁ!ビクトリー!」で鳥肌かつ泣ける。駄目押しの「俺に勝っといて負けんな」重たく書かれすぎていなくて、これはこれで良い。

 

EDのYou got game?が流れる瞬間がこれ以上ない。アレンジも素晴らしい。流れ出した瞬間、手塚国光から試合の流れを継いだ顔を合わせた瞬間に越前リョーマの試合が始まり、曲調が変わってプレイがスタートするようだった。素晴らしい歌の使い方。正しいED曲の劇中挿入。

 

EDで流れる越前リョーマが歌うYou got game?がそのままリョーマが試合をしているように感じることができてテンションがあがった。

 

OP各学校のキャラクター集合絵が映り、今回の対戦校氷帝はテニスシーンが映り、漫画で様々なシーンがモノクロで流れ、声が聞こえるのと同時にリョーマに色がつき動く演出が素晴らしい。漫画がアニメ化するとはどういうことかを語らずして表現している。視聴者は、生命の伊吹が吹き込まれ命の色がついた瞬間を目撃する。

 

諏訪部順一氏の跡部景吾が素晴らしかった。何人か「それは新テニの世界の演技だろう」というキャラもいたけれど、跡部景吾は間違いなくテニスの王子様の関東大会青学戦の時の跡部景吾だった。

 

あまりアニメの方が良いと思うことはないのだけれども、河村のエールに頷く手塚は動きのあるアニメだからこそできる演出で良かったと思った部分。これが四天宝寺のS2に繋がるのだと思うと納得する。青学3年生達の真髄はここにある。

 

跡部景吾は進化して今の姿がある。跡部景吾が部長になっていく様子が手塚国光とのこの試合がなぜ跡部景吾のターニングポイントと言われるのか、タイブレーク突入でまずはレギュラーの顔が映り、いわゆる長ゼリフの後に部員の声が聞こえるようになるのが、部長としてお前の覚悟はそんなものかの問いに真正面から答えた跡部景吾になった瞬間を目撃したような演出で感動した。

 

試合終了時と直後の無音演出は映画館でこそ効果をなす。没頭できる幸せ。世界観に引き込まれるのめりこめる環境が整っていることでより引き立つ演出。このアニメを映画館で放映しようと決めた人は素晴らしい。最高の鑑賞体験だ。

 

〈もう少し何とかならないかと思った辺り〉

アニメというよりは漫画のようだった。静止画が連続して映るシーンが多いように感じた。テニラビのシーンカードを連続して観ているような感覚にもなった。漫画のコマをなるべく活かしている作画だったので、そうなったのかもしれない。再現率はかなり高かった。

 

後々の話に影響してくるような伏線が無くなったり、以前の話の伏線回収がなくなったりしていた箇所があったのが残念(千石のJr.選抜、南次郎の存在、不二周助の手塚の幻影、乾と柳の確執など)。

 

桃城のやけに説明口調も気になった。

 

越前リョーマの中に見える侍の幻影が、今回は左利きの侍として描かれていたが、原作では侍は右利きで越前南次郎を匂わせる表現になっている。

 

切原赤也がこの段階の赤也とは違う気がする。柳さんをしたいすぎており、また、詳細に解説しすぎているように見えた。やたらと「副部長」の副を強調したり、「手塚さんに引導渡すのは俺だったのにな」と言ってみたり、もうちょっと傍若無人で自信満々で尊大なはず。

 

話の流れや勢いが変わってしまうような台詞変更は残念。eg.不二「手塚の肘を潰す気だ」正しくは腕

 

跡部景吾の「俺様の美技に酔いな」の前のインサイトポーズは原作通りなのだが、指ぱっちんは余計な脚色だった。

 

欲を言えば、ボールが戻らない!のシーンと最後に手塚と越前の2カ月前コートで言ったことを覚えているかの時にワンカット高架下コートのシーンを挿入してほしかった。

 

高架下の試合後のリョーマと南次郎のやり取りが省略されていたのは残念だった。しかし、1試合だけをとりあげるBEST GAMES!!ではこれが正解なのかもしれない。

 

立海、特に柳蓮二に喋らせすぎて、若干柳蓮二の強キャラ感が薄れていたのが残念。ここはやはり都大会で敗れた山吹中がベストな人選なのでは。特に「強い。全てを超越している」は柳蓮二ではないだろう。

 

トリオやガヤがいう台詞を省略したりレギュラーメンバーに振り分けたりしていたのが、レギュラーキャラクターのキャラクター像がずれてしまっているように見える箇所があったのが残念。うまく当てはまっている箇所もあったが、「そーだウチには跡部部長がいる」を鳳、「きたねーぞ」を省略して不二の「真剣勝負とはこういうものだよ」、「手塚部長が棄権したらどうなるの?」を海堂あたりはあまりいい判断ではなかったように感じる。

 

〈疑問〉

このS1はどこから始まっているのか。オールテニプリミュージアム2017in京都で掲示されていた原稿からするともう一話前のS2終了後の不二周助と芥川慈郎との会話から始まっているのでは。

 

原作漫画にあるいつまでも観ていたいな、このタイブレークのト書きは観ている我々が思うように期待されていたのかもしれない。我々も作品の一部であることを想定されていたのかもしれない。

 

〈雑記〉

パンフレットを買ってよかった。

 

ストーリー序盤に氷帝応援団に向かって跡部が「何俺様が負けるような顔をしてやがる」と呼びかけ、氷帝側の機運をあげるシーンのように、氷帝学園側の演出にいささか氷帝学園側の描写が描き足されすぎている印象を受けたのだが、その疑問はパンフレットの脚本家のインタビューを読んで納得した。

越前リョーマの圧倒的な主人公力の前に打ちのめされた。打ちひしがれた。

この物語の主人公は手塚国光であり、青学の部長副部長を描いているのにもかかわらず、越前リョーマがどこまでも主人公だった。

青学の圧倒的な主人公度合いにライバルたちを観察する難しさ困難さ不可能さに衝撃と絶望にも似た感覚を受けた。

原作漫画テニスの王子様は考えていた以上に主人公:越前リョーマ、主役校:青学の話なのかもしれない。

だから、青学を通さずにはライバル校を観察することはできないし、越前リョーマを介さずに触れることのできるキャラクターは漫画の中にはいないのかもしれない。

青学以外の学校のキャラクター像を読み取るには、ファンブックやその他本編漫画とは別に書かれた越前リョーマのいない世界での情報から読み取り考えるしかないのかもしれない。それは日吉若役岩崎征実氏が日吉のキャラクターデザインの骨格から日吉の声を推測したように。(ラジプリで明かされた話)

でももしかしたら、対戦相手に自分をみているのだ。

跡部景吾もまたこんなにアツい姿の自分は知らなかったのだ。

氷帝学園側のストーリーは読者には分からない。

その氷帝学園側のストーリーを描こうとしたのがこのBEST GAMES!!手塚vs跡部の脚本だったように思えた。

 

キャラクターボイスを担当する声優キャストとキャラクターとの15年、20年の歴史をまざまざと見せつけられたアニメ作品だった。

いつだったかコメディアンの萩本欽一氏はTVについて、TVは一度きりの勝負だから厳しいし難しいのだ。舞台のように明日は、次の公演はここをこんな風に修正しよう。なんていうことができない、というようなことを語っていた。

一度きりの収録だったはずのアニメがリメイクされるとこれほどのものになるのかと圧倒された。

 

鑑賞するにあたって失敗したことがある。

原作に準拠したストーリーになっていると思い込んで原作漫画を読み込んで比べて見てしまったことだ。アニメと原作漫画は別物として楽しんだ方が楽しかった。漫画と読み比べてしまうと違いが気になってしまう。

1回目に失敗したと思い、ただただ圧倒だけされたので、複数回鑑賞をして3回目にして受け入れることができた。

ミュージカルでも同じことをしてがっかりしているのに学習しないな。自分。 

アニメはアニメが表現する『テニスの王子様』であり、ミュージカルはミュージカルが表現する『テニスの王子様』なのである。原作が漫画『テニスの王子様』のアニメ作品であり舞台作品だということを忘れずに鑑賞したい。

本記事の冒頭でも記述したが、動きや声がつくことで、原作漫画の世界をよりスムーズに、より深く理解できるのであれば、それが正しいメディアミックスの使われ方なのかもしれない。

 

今作と2003年に地上波放送されたTVシリーズテニスの王子様は比較されるべき物ではない。リメイクする必要があったから再アニメ化された訳ではないからだ。BEST GAMES!!は『新テニスの王子様』の完全新作アニメーション作品であること他ならない。

 

1度だけ友人と鑑賞したのだが、友人は鑑賞後に「すごいものを観た。感受性を高めてからこの映像を観たら感情の行き場がなくなりそう」述べていた。その感覚はとてもよく分かると思った。そういう感情にダイレクトにヒットするような説明のできなさがテニスの王子様の魅力の一つだから。

 

 

《願望とか》 

贅沢な願望だとはわかっているのだが、できることならば、団体戦一戦ごとにまとめてみたいな。

このS1だけでも十分にアツいのだけれども、やっぱりここまでの4試合を経てさらに熱量を増す試合なのだ。

青学側を見るだけでも、2本柱の3年生である大石秀一郎が試合直前に出場不能となるような右手首の怪我をして2年生の桃城武に「俺を引退させるなよ」と託したD2、2年生の海堂から3年生乾に「まだダブルスでアンタに借りを返してない」とこれから先の戦いで先輩に報いる誓いを立てるD1、この団体戦での負け=引退を口にした上で臨んみ「みんな…全国に行ってくれ!!」と選手生命を賭した河村隆のS3、越前リョーマに対して三種の返し球の三種目を披露してみせたS2の不二周助、その全ての果ての手塚国光が「跡部…悪いが全国へ行かせてもらうぞ!」 と語るS1だ。

そこに積み上がる回想で大和祐大が言う「全国への夢は一瞬たりとも諦めた事はありません」と、左肩を痛めた手塚をそれでも送り出す大石副部長の「大和部長との約束を果たそうとしてるのか?部をまとめて全国へ導くという。がんばれ」がより一層の重みを持ち、手塚国光を奮い立たせる。

これが跡部景吾インサイトをもってしても読み切れなかった手塚国光の青学への想いであり、全国大会での跡部景吾氷帝部長としての選択につながっていく。

さらに、青学の柱を越前リョーマへと繋いでいく男と男の言葉の介在しない継承の儀は、補欠シングルスの試合前の劇的な演出で描かれることになる。

また、この関東大会氷帝戦S1で肩を痛めてなお手塚国光をコートへ送り出す青学校旗は、今後の青学の成長と勝利への貪欲さを駆り立てる象徴(シンボル)となる。

 

関東大会氷帝立海は無印テニプリにおいて最も連載話数の多い団体戦だ。

関東大会氷帝戦は話数にして全36話、関東大会立海戦は全42話。

今回のBEST GAMES!!手塚vs跡部が11話と7P単純に11.5話と仮定し、アニメが45分間(OP含むが計算では含めたままとする)だったので、団体戦を全て映像化すると概算で関東大会氷帝戦が140分間=約2時間20分間、関東大会立海戦が165分間=2時間45分間となる。2時間半の団体戦を描くアニメーション作品2作が観たいと思ってしまう。

 

ここで漫画『テニスの王子様』のたどり着いた答えを考える。

最後に青学の柱を引き継いでおきながら強い者と戦うべく渡米した越前リョーマはどこまでもテニスの王子様であり、テニスそのものにしか志向が向かない"テニスの王子様"たるに相応しい存在なのではないだろうか。

自分の外側から影響を受けることはあれど、決して縛られず、自らの行先を自分の意思で決める象徴。テニスを愛しテニスに愛されたテニスの王子様越前リョーマだ。

テニスの王子様である越前リョーマの世界には、例えそれがどれほどに積み上げられたものだったとしても、努力も友情も勝利も、テニス以外のものは2番手の価値観となりうる。

 

ベストゲームではない試合などない。王子様ではない王子様などいない。 

それでもBEST GAMES!!手塚vs跡部は圧倒的だった。それは、全てであり、それでいて、全体の中の一試合だった。部分であり同時に全部であった。一神教の唱える"究極の世界の法則"は『テニスの王子様』にも現れていた。

 

なぜこうも自分は長年『テニスの王子様』に魅せられ続けるのか、と、ここ数年ずっと考え続けてきた。

理屈抜きに感情にダイレクトに訴える、分析できない熱量や勢いを有する説明のできなさを持つ物語であることもあるだろう。

また、多分それは、ORIKONのインタビュー(2018年8月25日公開

置鮎龍太郎&諏訪部順一が語る『テニスの王子様』の功績 まもなく20周年 | ORICON NEWS)で諏訪部順一氏が答えていたような「『テニスの王子様』って、スポーツ青春ドラマが持つ普遍的な魅力をきちんと備えた物語なんです」というところにもあると思う。

それに加えて、おそらく、物語全体を貫いている信念や思想の"気持ち悪くなさ"があると思っている。

人間の本能や肉体の働きと可能性を否定しないこと。

あらゆる不遇や理由を全て否定したうえで受け入れるという鮮やかさ。

きっとそのあたりが『テニスの王子様』をいつまでも読むことができる、何度読んでも新鮮な発見がある、ストーリーの"古くなさ"をも担っているのではないだろうか。

 

そしてこのようなストーリーを持つ『テニスの王子様』を日々の心の支えとしている状態を『テニスの王子様』を信仰していると表現するのであれば、この信仰の対象である『テニスの王子様』信仰はなんだか仏教と似ているのではないだろうか、と考えている。

 

最後の方の部分はまた記事を変えて考察したい。

嗚呼、テニスの王子様。お前は我が人生の柱だ。

 

※本記事は、記載内容を正しくするために、修正される可能性があります。(2018.9.6 0時50分)

閑話_テニフェス・ドリライ・おてふぇす(VRライブ)

ドリライは楽しかった。

おてふぇす(VRライブ)も楽しかった

それでもテニフェスが観たい。テニフェスに行きたい。

 

どうしたってテニフェスに行きたいのだ。

 

私達はテニフェスに何を観に行っているのか。

 

それは、"愛"を観に行っているのだと思う。

私達のキャラクターやテニプリへの愛が受け入れられ、肯定され、そして、その私達ファンの愛を時には上回るほどの声優キャストの愛を観に行っている。

 

誰一人として脇役の意識ではない、全員が全員、それぞれのキャラクターとまっすぐに向き合って誰もがその人生の主役の意識でキャラクターの声を担っている。

そのキャストが50人60人と集まってそのパワーと愛情を見せてくれている。

これほどに肯定感のあるエネルギーが発せられている空間が他にあるだろうか。

 

おてふぇすに行って感じた「キャラクターが生きていた。それも"生きているように見えた"ではなく、"今までもずっと生き続けていた人がステージ上に立った"」という感覚を生身の人間からも錯覚できるほどの力がテニフェスにはあると思っている。

だから、私は、テニフェスに行きたい。テニフェスが観たい。

 

 

テニフェス、ドリライ、おてふぇす(VR)、全てのテニプリのライブで感じるのは"愛されていてる"実感だ。愛されているのは、キャラクターであり、テニプリを愛している私たちである。

VRキャラクターでライブできるなら、テニフェスもドリライも開催する意味あるのか(特にテニフェス)?という疑問も湧かないこともないが、それは違うのである。

キャラクター本人が出演するのではない、テニフェス、ドリライは、キャストのキャラクター愛テニプリ愛を再確認し体感する場所だ。愛されていることを体感するための空間だ。

 

この愛に溢れた空間は、いわば"許斐剛マジック"とも呼んで良いのではないだろうか。

 

舞台から感じるキャストのキャラクターやテニプリへの愛がもたらす気持ちは、主人公越前リョーマの名台詞の一つ「強くなりたい もっと… もっと‼︎」という気持ちだ。そして、そのもっと強くなるための推進力と前進する心身共のパワーを目撃して、観客は受け取っているから、いつも人生の隣を歩いて見守る王子様の存在をより強く感じることができるのだろう。

 

ちなみに、おてふぇすでテニミュ初代跡部景吾役を演じた加藤和樹氏がVR跡部景吾とデュエットをしたように、私はいつかアニメとミュージカル含めた全ての演者が、自身の演じるキャラクターのVRと対面・共演する瞬間を目撃してみたいと思っています。