絶望の姿
『テニスの王子様』が描き出す人生への圧倒的肯定感を語るために用いた作中における絶望の姿を考えてみたい。『テニスの王子様』が絶望として表現したのは何だったのだろうか。
なお本稿は以前にアップロードした下記過去の記事と内容は重複しますがご容赦ください。
・https://namimashimashi-tpot-373.hatenablog.jp/entry/2019/02/24/225516
・https://namimashimashi-tpot-373.hatenablog.jp/entry/2019/01/05/032649
まず一般論として、古来より人間は思考上、”人間の死”を人間存在の限界であると捉えて絶望としていた。
そのため諸宗教では、その方法の違いはあれど、死をどう克服するか、死とどう向き合うか、という問題を取り扱っているものがほどんとである。
人間という存在に限界があることは絶望であり、人間存在の限界は死ぬことであり、すなわち死が絶望なのである。
その絶望に向かっていく生との付き合い方を説くのは重要な宗教の一側面なのだ。
この世に存在する宗教というものの発端を考えると、一点においては、死という人間存在の限界への絶望と付き合うものだと見る事ができるだろう。
例えば、一般にはキリスト教は救いの宗教、仏教は覚りの宗教と言われている。
死を救いとしたり、死について覚ったりすることで絶望せずに今生を生きることができる。
人間にとっての死は古来より絶望と捉えられており、その絶望と向き合うための手段として宗教的な発想が発展してきたのが人類の歴史である。
頻繁に宗教的だとされる『テニスの王子様』であるが、例えば『テニスの王子様』を宗教だとすれば『テニスの王子様』が答える絶望との付き合い方はどんなものなのであろうか。
それは、死を見えなくなるまで生に集中することなのではないだろうか。
一点集中「この一点を見極めろ」である。
『テニスの王子様』は絶望を超えていくストーリーだ。
語るまでもなく無印『テニスの王子様』における最大の敵(ラスボス)は幸村精市である。
主人公が最終的に越えるべきラスボス、すなわち、『テニスの王子様』ストーリーにおける最大の絶望は幸村精市の姿をしてやってきた。
『テニスの王子様』における絶望は"通用しない"とほぼ等しい。
"通用しない"とは"無力"であるということだ。
目の前で起こる全ての事象に対して自らは精神的にも肉体的にも為す術が無い状態を存在の限界として五感剥奪(イップス)で表現している。
これは推測だが、『新テニスの王子様』における絶望は最初は平等院鳳凰の姿をしていた。おそらく最終的には手塚国光になるのではないだろうか。
『新テニスの王子様』になると絶望は破壊の形をする。
『新テニスの王子様』21巻において越前リョーマが平等院鳳凰を本当に倒したいのかという自問自答を超えるまでは平等院鳳凰が絶望であった。
『テニスの王子様』において主人公の越前リョーマは一度絶望を超えている。
絶望を超える力を希望と呼ぼう。
”天衣無縫の極みに到達する "という現象は、獲得したものの喪失から再獲得する行為、だと再定義したい。
すなわち自信や技術などといった精神的な働きを含め何らかの経緯で獲得したものの喪失は、絶望との直面であり、その絶望の克服が天衣無縫の極みの扉を開いた状態だと捉えている。
そして絶望を超える事を希望とするのであれば、『テニスの王子様』における絶望が"通用しない"で表される"無力"であったのに対し、『新テニスの王子様』の世界観では希望の対義語は"破壊"である。
光る球が平等院鳳凰が打つ時はデストラクション=破壊であるのに対し、越前リョーマが放つとホープ=希望になるのは、このためである。
話を『テニスの王子様』に戻そう。
『テニスの王子様』での最終決戦である全国大会決勝戦シングルス1の試合描写において、幸村精市は越前リョーマのことを「ボウヤ」と呼ぶ。固有名詞では呼ばないという一個人と認識しない、偏に風の前の塵に同じ。スーパールーキー、メタ視点でいえば物語の主人公であっても、他の対戦相手と何も変わらない存在としてしかみていないことがうかがえる。後に『新テニスの王子様』になると「”あの”ボウヤ」とボウヤが固有名詞化する。
全国大会決勝S1越前vs幸村は精神性の高い試合である。
幸村のマジレステニスで「ずいぶん現実的なんだね」と無我の境地でくりだす過去の対戦相手の技、記憶喪失から戻ってきた記憶のカケラをことごとく返球し、「どんな技も… …誰の技も …何も通用しない」と圧倒→どんな逆境でも諦めない精神力で百錬自得の極みのオーラを適材適所に集めることで返球するようになる→「テニスなんてもう無理だろう…」と医者に言われた過去(幸村自身の絶望)を思い出して精神力を立て直し「どこに打っても返されるイメージ」を対戦相手に見せる五感を奪われたようにイップスに陥る→「テニスを嫌になる状態」と称されるイップスを「テニスを嫌いになれる訳ない」と克服し、逆に「テニスって楽しいじゃん」「楽しんでる?」と聞き返す→「ふざけるな!テニスを楽しくだと!」と反論する気力で試合も盛り返す幸村→手塚「今こそ青学の柱になれ越前」越前「ういっス」サムライドライブとこの一点を見極めろ勝利
作中で幸村が罹患した病気は”手足がまず動かなくなり 徐々に体の自由が奪われ”る病気であり、自身の対戦相手の五感が失われている状態に似た状態を自身も経験しており、また彼自身はその状態を「誰もがもうテニスをするのも嫌になるこの状態」と評している。
「やはり君は危険すぎる」というのは自分も乗り越えたテニスができなくなる状態に同じく立ち向かう格下の者を脅威として捉えているのではないだろうか。
五感を失われた状態、ボールを返したくなくなる、テニスをしなくなくなる状態は、テニスコート上では終わりに等しく、テニスを人生と捉えればテニスの終わりは人生の終わりすなわち死に等しい状態。要するに五感を失われた状態は瀕死に近い。
瀕死状態にあってなおテニスを続けようと、生き続けようとする意思が天衣無縫の極みの扉を開かせた。
スコアは前半0-4までは幸村がほぼ完封で試合を進めるが、4ゲーム目に1ポイントだけリョーマがポイントをとっている。
百錬自得の極みのオーラを適材適所に集めることで返球しているリョーマに対して幸村精市は「このボウヤはいったい…」とリョーマの可能性に恐れを抱き、精神的に揺らぐ。
またこの百錬自得の極みのオーラを適材適所に集めることで返球している状態に幸村精市は「こ これがまさか…」とまだ見ぬ天衣無縫の極みを予感しているが、のちに実際越前リョーマがたどり着いた天衣無縫の極みについて乾貞治が「百錬パワーを適材適所に移動させたアレの進化版みたいなもの」と解説をしている。
それでは『テニスの王子様』において幸村精市は何のためにテニスをしていたのだろうか。
全国大会決勝戦シングルス1の時点で彼は立海三連覇の”ために”テニスをしているのである。
その時点において彼もやはり他者の基準の理由に囚われた一人であった。
対して越前リョーマは結果的に青学の全国優勝をもたらしたが、彼がテニスに勝ちたい、テニスに負けたくない理由は、勝ちたいから、負けたくないから、であって、青学を全国優勝に導く”ために”テニスに勝ちたいのではないのである。
手塚「今こそ青学の柱になれ越前」青学の柱は越前リョーマの心の枷にはなっていない。
義務感ではない自主選択制。そこに自由意志が介在している。
越前リョーマは青学の柱になれど、青学のために戦っていたわけではないわけで、そこが幸村をはじめとするチームのために勝利しようとしたライバル校たちとは異なっている。大義名分のために試合をしていたのではない。
青学の柱とは、青学のために戦う存在ではなく、青学の他メンバーが柱の存在を目指し、柱のために戦うことができる存在のことであろう。一と全体の価値観は対等なのである。青学はOne for All. All for One.梵我一如。全は一、一は全。宇宙の法則を頂点に導いたのがこのストーリーを貫く思想なのだと読む。
この立海三連覇のためという理由から解放された時、それが神の子が人の子になった瞬間である。
とはいえ、『テニスの王子様』『新テニスの王子様』は何かを背負うことに対して否定的な価値観を有しているわけではないとみている。
事実、幸村が盛り返したのはチームのことを思い返して立海のことを精神の支えとした時である。
また、(『新テニスの王子様』の読解は完結した後に本格的に取り組もうと考えているため深くは考えていないがという断りをした上で、)フランス戦でデューク渡邊をS1に起用した三船コーチもその気持ちを汲んでおり、また、S3でメディカルタイムアウトを時間いっぱい使わせた平等院鳳凰や、スイス戦S3で「選手が戦おうとしているのを止めるな」と審判に言い放ったアマデウスなど、最強ランクのキャラクター達は自らの力を増幅させるモノ・何かがあることを否定してはいないことが伺える。
青学の柱になれ、という手塚の声かけも、全国氷帝S1の越前リョーマが気絶から立ち上がった時に青学の先輩たちを思い出したように、もう一手となりうる存在・動機を認めている。
重要なのはその自分の外的動機との付き合い方であり、プレイヤー自身の心がそこに囚われていないこと、まさに天衣無縫の状態でテニスに向き合えているかどうか、なのであろう。
最近考えている宗教生活とテニプリ関連の思索について
このブログを書いている私自身は参加していないのだが、2019年2月23日に開催された第3回テニスの王子様研究発表会において発表された研究の中に「テニスの王子様は神話」だと結論づけるものがあったという情報が耳に入ってきた(※要旨や発表内容を拝見していません)。
私は『テニスの王子様』『新テニスの王子様』を今まで聖典だと思って読解しようとしていた。
しかしながら先の情報を聞いてから簡単に神話について調べたところ、『テニスの王子様』『新テニスの王子様』は確かに神話の方が近いのではと考え直すようになった。
神話の中でも、特に日本神話に構造が似ているように思う。
つまり、西欧やインドのような英雄譚、戦闘の神話ではなく、国生み、受容の神話になぞらえることができる、ということだ。
『テニスの王子様』『新テニスの王子様』は英雄譚の神話のような敗北=死の価値観ではない。
ストーリー中において試合に敗北した選手たちの存在の排除、消滅はなく、勝ち進んだ青学の応援席や日常で役割を持って登場する。
また、『テニスの王子様』におけるプレイヤーの覚醒の初期状態である"無我の境地"では過去の対戦相手の記憶を無意識に体の記憶が次々に繰り出す状態、すなわち過去の対戦相手が勝敗を関わらず無我の境地を使うプレイヤーの身体を通して現れる。
排除ではなく、受容。
敗者に求められるのは、価値観の追加や見直しであり、屈服や排除ではない。
試合に負けたとしても相手は相手のまま生きていけるし生きていて構わない。
そこで価値観を見直すかどうかは相手自身に委ねられている。選択の余地があり、強制されていない。
テニスの王子様のストーリーにおいて、敗者は越前リョーマや青学レギュラーに敗北することでテニスと自らの関係をもう一度見つめ直す、テニスにもう一度出会う。
テニスの王子様によってテニスに出会うのである。
例えばこれが一番わかりやすいのは対不二裕太だと思っている。
都大会準々決勝の聖ルドルフ戦での不二裕太が越前リョーマに対して「俺の最終目標はやっぱり兄貴だ」と宣言した発言に対して越前リョーマは「いいんじゃない」と答え、試合中では「俺は上に行くよ」と言葉をかけている。
リョーマ自身は、自らの意思の上では俺”は”というあくまで一個人的な目的意識しか有していない。
また、受容と国生みの物語を語る国家神道に通ずる日本神話になぞらえるのには、もう一つ観点がある。
2本柱構造である。
日本神話は、伊奘諾(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)の2神を起源とする国生みの創造の物語である。
『テニスの王子様』も越前リョーマと遠山金太郎の2主人公物語だ。
そしてまた、越前リョーマは最初という始まり、遠山金太郎は最後という終わりを象徴する存在と見ることができる。
越前リョーマにとってテニスは始まりだ。生まれた時から自我が芽生えるよりも前からあったものがテニス。テニスが最初の存在が越前リョーマである。
一方で、遠山金太郎にとってテニスは最後。全てが可能、なんでもできる遠山金太郎が最後に出会い、残り付き合い続けることができたのがテニスだ。
(余談で付け加えるとするならば、越前リョーマはテニスが最初で”最後”になる可能性が残されている点において遠山よりもより可能性が大きい。遠山は決してテニスが最初になることは無いので。)
この視点で『テニスの王子様』『新テニスの王子様』を見るとキャラクター達一人一人は日本神話における八百万神と同様に捉えることもできるであろう。キャラクターひとりひとりを八百万神と見るとすれば、不二周助・跡部景吾・白石蔵ノ介・幸村精市の4人を四大宗教と呼ぶ感覚も納得できるかもしれない。
テニスの王子様におけるテニスとは人生である。
テニスが人生であることについては、作中でエピソードが描かれている。
最終決戦 全国大会決勝戦前に天衣無縫の極みを息子:リョーマに教えるべく作中で唯一すでに天衣無縫の極みに到達している存在である父親:南次郎が山修行に連れ出す話だ。そこで南次郎はテニスを生きるための術として駆使している。
テニスの王子様が問いかける問いは「テニスのためにテニスができるか」。
すなわち我々は生きるために生きられるのかという問いに直面させられる。
今に最大限に集中できるか。
何かを目的にではない生を生きる。
これは仏教的修行が得られるとしている瞑想マインドフルネス思考に近いものがある。
以上のことから、テニスの王子様は、仏教的人生観・真理・哲学を国家神道神話的手法によって語る物語である、と考えることができるのではないだろうか。
ここで考えたいのが"唯一神"と言われることもある原作者の許斐剛先生の存在についてだが、この許斐先生の神格化については日本人の人神(ヒトガミ)発想に通ずるのではないかと考えている。
日本人には歴史を振り返ると、例えば菅原道眞公を神として祀るといったことや、先祖や未練を残した人物を奉り崇めたりするなどといった神と人との連続性が日本人の意識にはあるとされている。
日本人の意識には、何か偉大な物を作り後世に影響を与えた人間を神や精霊、人ならざるものとして讃える習慣があるのである。
このことから、テニスの王子様の創作者であり、影響力の大きい許斐先生は日本人の感覚では"神"と呼ばれる人間であったと考えられるのではないだろうか。
例えるのであれば、テニスの王子様というストーリーに対して許斐先生はシャーマンや預言者のトップオブトップに近いとみることができるかもしれない、と考えている。
さて、話は少し変わるが、テニスの王子様への信仰に似た意識は、日本の風土が成立させている部分も大きいのでは無いかと考えている。
日本の四季があるモンスーン気候で暮らす生活をしているからこそ、夏という季節の暑さがわかり、夏が終わることを理解し、季節は巡っても同じ夏は2度と来ないという既視感と創意性を理解している民族だから、真夏の一瞬間を切り取ったテニスの王子様の一瞬の輝きに惹かれ、戦いの暑さに胸を焦がすことができる。
四季のない国や常夏の国に生活する人々にとってはテニスの王子様の魅力は半減することだろう。
それは読者自らが体感した追体験でもある。
テニスの王子様信仰にはその信仰の形から仏教やキリスト教のような創唱宗教感があるが、その信仰の土壌を考えると、日本の土着信仰の一つとも言えるのかもしれない。
日本人の刹那、瞬間を慈しむ愛おしむ気持ち
夏の一瞬、青春の一瞬、を尊ぶ感覚を有している
一瞬を切り取ることに美を覚える
夏という単語から眩しさ暑さ激しさを連想できる感覚
消えてしまう眩しさを愛おしく思う
そんな自然災害の多い四季のある国に生きる人間に養われた感覚が、中学生の夏のたった3ヶ月間程度の凝縮された一夏の物語を愛でる感覚になる(なお、この説はいわゆる学園ものスポーツ系少年漫画が好まれる理由として共通するであろう)。
またテニスの王子様が発する創唱宗教感の原因としては、テニプリフェスタに代表されるライブが創唱宗教における礼拝に似ている感覚を覚えさせるからだと思っている。
礼拝における神や仏の御前においては一個人として平等な存在という自覚に似ている、テニスの王子様というコンテンツの前においてはファンは皆等しく同じという平等感を感じることがある。
と、以上のようなことを最近は考えています。
閑話_ブログ開設から一年経ったので…
いつもご覧いただいている皆様、
検索等でたどり着いてご覧いただいた皆様、
当ブログをお読みいただきありがとうございます。
心より御礼申し上げます。
個人的に書きたくて書いていることなので、
こういうものは自力で考えて、対象と対話して、練り出す物だとも思いつつも、
スターやコメント、引用などリアクションをいただけると、とても嬉しいです。
2018年3月6日にブログを開設し、最初の書き溜めていた記事の一気アップ以降は細々としか書いておりませんが、何とか1年間経ってもまだテニスの王子様・新テニスの王子様を精読したいという情熱が続いています。
これからも気がつき、思考がまとまり次第、記事のアップを続けたいとは思っていますが、一人で考え続けるよりも他の方の視点もあった方が思考も深まりますし、自分の間違いにも気がつくので、もしも匿名であれば、感想などいただけるようであれば、お題箱から送っていただけると、とても嬉しく思います。
ご質問をいただいた場合は、お答えできる範囲になりますが、お答えしたいとも考えております。
『テニスの王子様』『新テニスの王子様』原作者・許斐剛先生作詞「テニプリっていいな」の歌詞によると、テニプリは「色んな人達と出会え そして 語り合える」ところも美点の一つのようですし、何卒、よろしくお願いいたします。
覆い隠される真理
本稿は『テニスの王子様』『新テニスの王子様』を宗教的気づきをもたらす物語として解読することを目的としているため、この試合のストーリーにおいて語られる精神的やりとりに着目して解析している。
テニスの王子様はテニスのルールどころか物理法則をも超えてしまうようなその過激な表現から超常現象に注目が行きがちであるが、その姿を通して語られる登場人物たちの魂のやりとりは普遍的な人間の姿である。
それもかなりのファンタジーである。
少なくともテニスシーンに我々の生きている現実の物理的なリアリティは無い。特に原作漫画単行本の22巻以降の作品後半は物理的な現実性・リアリティはかなり低いと言って差し支えないだろう。
そもそも漫画に登場するキャラクター達の身長、BMI、パーソナリティーなどもおしなべて現実味が薄い。
それもその筈である。
というのも、作者である許斐剛がファンタジー漫画と同列で語ることのできる週刊少年漫画を描こうとして描いている作品であり、また、漫画読了後には前向きな気持ちになるべきだとの考えから苦悩や悲壮は極力描かれないストーリーであるからなのである。
仮にテニスの王子様に物理的なリアリティを感じるのであれば、それを持ち込んでいるのは、アニメとミュージカルのキャストなのではないだろうか。
キャストの彼、彼女達によってキャラクター達に人間という存在の多面性が可視化されるようになる。
キャラクターこそが漫画の命とする作者の考えから、ストーリーや絵よりも圧倒的にキャラクターに比重が置かれた漫画となっている。
そんな漫画であるからこそ、キャラクター達の人間性が可視化されることによって一気にリアリティが出てくる。身近なストーリーになってくるのである。
『テニスの王子様』の連載が始まったのは1999年だった。
連載開始から20年が経った現在、西洋人のスポーツでの日本人の台頭や10代前半選手の活躍は、現実において、テニス・卓球・サッカー・スケート・バドミントン・将棋・水泳etc.様々なプロの世界でも現実になってきている。
"日本人の中学1年生が西洋スポーツで八面六臂の活躍をする"越前リョーマの設定もありえないことではなくなってきている。
現実のスポーツでありえることを少年漫画でファンタジーで描いても現実には敵わない。リアルのスポーツを超えるエンターテインメントにはなれない。
では、漫画コンテンツが漫画の中だけてはなく他のエンターテインメントとも比べて選ばれるために魅力的になるためできることはなんだろうか。
テニスの王子様には、ファンタジーがリアルを越えた魅力を放ちたいという意志がある。
科学法則に反した必殺技、物理法則を無視したボールの威力、テニスのルールに即さない試合展開など人智を超えた展開を見せるが、こういった自然科学法則を無視した現象は、聖書や仏陀伝説における超常現象の類だと考えている。
「科学的に否定される事象を全て取り払ったとしてもそれは何ら聖書の価値を損ねることにはならない」
これは私が縁のあるキリスト教教会での礼拝の説教で語られた言葉だ。
この言葉と同様に科学的見地から否定されてもそれがテニスの王子様の価値を損ねることにはならないだろう。
登場人物がより高みを目指して切磋琢磨しあう姿は、自己存在を成長させ、人間としての高みを目指すようだ。
テニスの王子様の深淵を読み取ろうとした時、紙面に表現された目に映る絵だけを捉える「見える側に囚われているようじゃまだまだ」なのではないだろうか。
また、テニスの王子様では効果的に理解していない観客・傍観者=第三者の声が入ってくる。
コアの精神的なやり取りの真髄に近づくとそれを覆い隠すかのように何も理解していない者達からのヤジが飛ぶ。
それが現実的感覚とを繋げる一方で、読解を難しくしている。
テニスの王子様の世界では観客と選手に明確な一線がひかれている。
コート上でのやり取りは同じくコートに立てるだけの力量のある人間たちにしか理解できていないのだ。
原作漫画では、同様に、試合を解説する人物も、出場の如何を問わず、その試合を理解できる者が選ばれている。
さらに、テニスの王子様を読み解くにあたっては、読者と登場人物の間に情報格差があること、それに伴う認識の差異が生じていることにも気づく必要があるだろう。
青学メンバーについてだけでも、例えば手塚の怪我からの復帰に関しては全国大会氷帝戦S2で青学は手塚について評価しているが、九州でのイップスの一件は彼らは知らない。
全国大会決勝D1中で竜崎スミレの語りかけ「そう言えばお前達がピンチの時−常にリョーマがきっかけになりよったわい」によって越前リョーマが青学の柱になっていたことに気がつく(越前リョーマが作中で自他共に認める青学の柱として試合をしたのはおそらく全国大会決勝S1の一戦のみだと思われる)。
「瞳に見える外側に囚われている様じゃ…まだまだだぜ」というのは主人公・越前リョーマの父、『テニスの王子様』における最高到達地点・天衣無縫の極みに一番最初に到達した人物・越前南次郎が全国大会決勝戦前に息子・越前リョーマを指導した際に投げかけた言葉だ。
これは、もっぱら作中世界で息子に語りかけた言葉のように見えるが、もしかすると、テニスの王子様の世界を見つめようとする読者にむけても語りかける言葉なのかもしれない。
参考資料:
・ジャンプGIGA 2017 vol.1 掲載「許斐剛×藤巻忠俊 クリエイティブの秘訣お答えしますスペシャル」 2017年4月28日発売 集英社
「桜咲くこの街で 大きく笑おう」
竜崎桜乃は想定される読者の立ち位置を体現する存在なのではないだろうか。
傍観者から当事者になろうとする、物語から正しく勇気をもらう人物のシンボルだ。
彼女の言葉は真実を覆い隠す傍観者ではなく、越前リョーマをまっすぐにみつめる彼女の越前リョーマに対する言葉から『テニスの王子様』と『新テニスの王子様』のストーリーの方向性が見えてくるだろう。
テニスの王子様は、登場人物の構成が他の週刊少年ジャンプ漫画である銀魂と同じような構造になっているように見受けられる。
銀魂はジャンプヒーローは坂田銀時なのであるが、主人公は志村新八であるといえないこともない。
テニスの王子様もジャンプヒーローは越前リョーマであるが、実は主人公は竜崎桜乃であると見ることもできる。
この場合の主人公はいわゆる典型的少年漫画主人公といわれる、ゼロベースから周囲の影響を受けて成長する”普通の”人間に一番近い、すなわち、漫画登場人物とは住む世界を異にする傍観者になるしかない読者と漫画世界とをつなげる人物のことを指す。
要するに漫画主人公とは別に読者との架け橋係が存在する物語構成となっている。
その読者との架け橋的存在である竜崎桜乃は今読者が読んでいる物語がどういう物語であるのか、すなわち我々読者が受け取るべきメッセージを教えてくれる。
『テニスの王子様』『新テニスの王子様』の両方で竜崎桜乃が越前リョーマに向けたセリフを見ると
『テニスの王子様』では、「私も その………リョーマくんにテニスを教えてもらって…すっごくテニスが好きになって…」と言葉の向いている先は”テニス”である。それは、『テニスの王子様』が越前リョーマ(とその他王子様達)がテニスに出会う物語であり、
『新テニスの王子様』では、「どこの代表でもリョーマくんのテニスを応援してるから」と言葉の向いている先は”越前リョーマのテニス”になり、これは、『新テニスの王子様』が"越前リョーマ(とその他王子様達もそれぞれ)のテニス"が確立される物語であると、定義づけることができると考える。
読者は、『テニスの王子様』という漫画の最終回に際して、竜崎桜乃と同じように「Thank you!」と言えるようになることを想定されているのではないだろうか。
“テニスは人生”の法則を思い出せば、
『テニスの王子様』からは我々読者は生きることを好きになるメッセージを受け取り、
『新テニスの王子様』は各々の人生を歩む自己肯定感を受け取る。
そして、
「今までの勇気を たくさん拾い集めて 桜咲くこの街で 大きく笑おう」
最終話まで読んだ『テニスの王子様』からもらった勇気を自ら拾って、集めて、新しい季節がくる自分がいる場所で大きく笑いたい。
今までの『テニスの王子様』が見せてくれた物にありがとうとお礼を言って、今度は自分の番だと、自分の道を今までのことを勇気にして前向きに歩いていこう、というのが、テニスの王子様の描き出した人生への肯定感なのだと思う。
ここから先は想像混じりの憶測になるが、
2020年早春公開予定の映画について、『テニスの王子様』と『新テニスの王子様』の間となる『新生テニスの王子様』は越前リョーマが越前リョーマの自我を獲得する物語になるのではないだろうかと想像している。 だから映画タイトルが「リョーマ」なのであれば非常に納得感がある。
そして越前リョーマがテニスの王子様の物語で果たしてきた主人公の役割から考えると
この
テニスとの出会い
↓
自我の確立
↓
自分のテニススタイルの獲得
一連の流れは王子様として登場した全てのキャラにも当てはまるとすると、要するにテニプリはそういう人間の成長を記す物語と言えるだろう。
人間の成長を描く物語であるがために、テニプリにおける救い・カタルシス・浄化はそのキャラクターが成長する、成長カタルシスの表現方法を取る。つまり、成長した瞬間にそのキャラクターに救いが訪れるのである。
価値観の格付けがされない世界
試合は哲学と哲学のぶつかる場所だ。
どちらの希望の力が強いか。
試合相手は互いにとっての絶望の姿をしている。
主人公を誰にするのか、思い入れを誰にするのか、によって見える正義の形も希望の姿も変わってくる。
そこで『テニスの王子様』は青学が主人公でなければならなかった。
『テニスの王子様』の爽快感はテニス以外に理由の無い青学だからこそ成立する。
不遇な経験をした不動峰でも、地方から寮生活をするルドルフでも、天性の能力をいびつに持ち上げた不均衡を飲み込んだ山吹でも、プライド高い氷帝でも、親の期待を背負う緑山でも、内地への見返しを誓った比嘉でも、ましてや難病から復活した部長と彼のためにと悲壮なまでの覚悟で歴史を守ってきた立海でも成立しなかった物語の爽快感は青学が主人公だから成り立ったものなのだ。
無印『テニスの王子様』で敗退していった学校はチームの形が少しづつ歪だ。
それはテニスに勝ちたい、テニスそのものにだけ向かい合う状態ではないことに起因する歪さだ。また、テニス以外に共有したい哲学があることは、個々人間で理由の捉え方に少しずつずれが生じる可能性があり、ひいてはテニスをするための理由がずれることで結果としてチームの形も歪になる可能性を孕む。
分かりやすく例えばの話を想像してみる。
例えばもしも立海大付属が全国大会で優勝してみよう。
彼らの病気の部長のために掲げた常勝無敗の掟は報われるだろう。
だが、どうだ。
先輩や顧問からのいじめに耐えて這い上がった不動峰の思いはどうなる?
勝つために地方から集められたルドルフは、
26年間の不遇の想いを背負って本土に乗り込んできた比嘉は、
彼らの勝ちたかった理由は、バックグラウンドは、立海のそれに比べれば報われなくても構わないものなのだろうか。
立海の想いのみが成就されれば良いのだろうか。
この全ての背景を一蹴してみせる方法こそが勝ちたいがために勝ちたい青学になる。
何かのために理由がなければ戦えないチームではない、テニスに勝ちたい思い、ただそれのみで繋がる青学が優勝することで逆説的に全ての生き方を否定せず順位づけもしない世界を構築することに成功している。
また、この戦う理由や背景、ひいては生き方の格付けをしないことが『テニスの王子様』のテーマである"爽快感"(テニスの王子様 公式ファンブック 40.5 許斐 剛先生百八式破答集 参照)につながる。
しかしながら、実は作中にこの青学と同じく勝つための理由を持たない、勝ちたいから勝ちたい思いで戦うチームが2校登場する。
そのため六角と四天宝寺の敗北は青学が敗北するかのような悲壮感が伴ってしまうはずなのだが、これを『テニスの王子様』はそれぞれ別の方法で綺麗に覆い隠し補う。
六角は青学の仲間として描き、
四天宝寺は彼らの一切の回想をなくし歴史の厚みを見えなくし、敗北の直後に遠山金太郎という可能性の象徴を登場させ、一気に前を向かせる。
六角と四天宝寺は作中での立ち位置も非常に青学に近しい存在になっている。
例えば、六角は合同合宿(ビーチバレーの王子様)エピソードに由来して彼らの果たす役割は青学の身内になる。この昨日の敵が今日の友になる身内への役割転換は比嘉戦で効果を発揮する。
四天宝寺の勝つために勝つという価値観(=勝ったモン勝ち)も『テニスの王子様』の世界観においては爽快感の基準になるポテンシャルがあったため、あえて一切のバックグラウンドが分からないような描かれ方をされているのだろう。
だから原作の四天宝寺は"得体の知れないバケモノ"のような雰囲気を放つのである。
四天宝寺が今まで勝ち上がってきた歴史を目撃してしまっては『テニスの王子様』の"爽快感"が表現しきれなくなってしまう可能性がある。
四天宝寺が全国大会準決勝までどうやって勝ち上がってきたのか、その一切を省かれ、あたかも最初から強いかのように見せることで青学の敵、更に言えば、"今まで対戦してきたどの学校をも上回る、予測不能な存在"で"今までの敵を全て上回っている"(テニスの王子様 公式ファンブック 40.5 許斐 剛先生百八式破答集)存在として見せられている。
そしてこのテニスの勝利以外に目的意識を持たない青学の全国制覇は、どんな事情にも筆者という外部からの視点で順序がつかなかったということだ。
逆説的に、全ての事情がそれぞれにとっては重要であったのだと尊重されたことになるのである。
だからこそ、何の事情も持たない、テニスそのもののみが理由の青学が主人公でなければ成立しない世界がそこにはある。
『テニスの王子様』の世界では、戦う理由、すなわち、生きている理由に格付けがされてない。
『テニスの王子様』の世界では逆説的な手法ではあるが全ての理由が順位づけされず肯定されているのだ。
比較で生きることを強いられない世界が生きる安心感に繋がり、生き生きと生命の輝きを放つことができるのは、想像に難くないだろう。
この世界を作る側から全て人の価値観が平等に尊重されている世界で生きているから、『テニスの王子様』のキャラクター達は生き生きとしているのではないだろうか。
キャラクター考_氷帝学園に魅せられるということ
本稿は、『テニスの王子様』におけるライバル校:氷帝学園について考察する試みである。
最初に断りを入れさせてもらいたいが、無印『テニスの王子様』は青春学園中等部男子テニス部が主人公のため、ライバル校の考察は非常に難しい。
ライバル校はどうしても主人公の属する青学のキャラクター達の目を通しての姿でしか見ることができない。
ライバル校のみをただまっすぐに目撃することは意外なほどに困難である。
当然といえば当然のことであろうが、今まで見てきたテニスの王子様は、全てのキャラクターが主人公だといわんばかりに、あまりに生き生きと描かれていたことで錯覚していたのだと思う。ライバル校キャラクターである彼ら自身が主人公となるストーリーは、漫画『テニスの王子様』で描かれた世界とは別基軸で存在しており、我々読者は漫画となって切り取られた部分のみを、しかも主人公越前リョーマ(とその所属校である青学)の目を通して観察しているにすぎなかった。
そんな中でも、"氷帝狂騒曲"と題した一話が描かれるほどに描写の多い氷帝学園とその所属キャラクターについて、彼らが読者へと語りかけるメッセージや哲学性を読み解こうと思う。
<プライドをもたらす者達>
人間の矜持を置いていこうとするときに、思い出させてくれる、それは忘れてはならぬと語りかけてくる存在、本当にそのプライドは捨てても良いものなのか、と問いかけてくるのが氷帝の人々だ。
だから、我々は氷帝学園中のキャラクターの前に立った時、彼らに恥じぬように生きたい、誇れる生き方をしているのか、と自らを再び鼓舞できるのではないだろうか。
氷帝学園中の正レギュラーキャラクターのそれぞれ代表的な台詞(決め台詞)を見ても、他の学校のキャラクターに比べて彼らのアイデンティティがそれぞれの美学に立脚していることが窺いしれる。
跡部景吾「俺様の美技に酔いな」
芥川慈郎「ボレーなら誰にも負けねぇ」
忍足侑士「攻めるん遅いわ」
宍戸亮「激ダサだぜ」
向日岳人「もっと跳んでみそ」
鳳長太郎「一球入魂」
日吉若「下剋上だ」
対自分への言葉であったり、美しさが基準になっている言葉が多い。
(補完であるが、新テニスの王子様に登場した氷帝学園中等部OB現高等部所属の越知月光「さして興味はない」も自分基準の価値観をうかがわせる)
さらには関東大会での顧問榊太郎の指導も以下のように己に問いかける言葉が使われる。
D1後「満足いく試合が出来たか?」
S1中「お前のテニスを見せてやれ‼︎」
己の美学を確立させ、それに恥じぬよう戦ってみせるのが氷帝学園中である。
氷帝学園中は作中で青学と二度戦う。
氷帝は作中で唯一真正面から青学に二度負けた学校である。(立海については関東大会は両者万全の状態ではなかったこと、また、不在の部長同士の様子を鑑みると、正面から挑んで負けたとは考えづらい。このことの詳細については、また改めて論考したい。)
「二度負けるつもりはない氷帝は このリベンジに自尊心 油断 過去の栄光など 全てをかなぐり捨てて挑んで来ている」のだ。
敗北してもなお傷つかない魅力を有する。
気絶してもなお君臨した跡部景吾の姿こそが氷帝学園中の本質だ。
その跡部景吾が象徴した姿、負けてもなお凛と立つ折れてはならないプライドと自信
表面的な美を失ってもなお残る美しさを彼らの中に見る。
敗北からの立ち直り、負けから学ぶもの、挫折から這い上がるという姿勢は跡部景吾以外の氷帝メンバーにも強く現れる。
それがわかりやす丁寧に描写されているのは宍戸亮ではないだろうか。
例えば、宍戸亮が自分なりのテニスを築き上げた流れ、橘に負けたことで大きくなったことで確立されたテニススタイルや、油断しなくなった、相手を舐めてかからなくなった精神の確立にもその姿をみることができるだろう。
彼らは総じて敗北との向き合い方が美しいのだ。
人生を生きていれば挫けることもうまくいかないこともままならないこともある。
その時になお歩みを進める、一層強く踏み出す、折れない精神こそが氷帝学園の姿であり、その姿に我々読者も自らの背筋を正したくなる。
正しい自己肯定感や、プライドを手に入れて、なお立ち上がる気概をもらう。
読者に、敗北では消えないプライド、そこから立ち上がる精神力、努力、正しい自己肯定感精神的な高潔さを見せてくれる集団である。
全力で挑んだ物事に敗れるというのは怖い。
負けると分かった上でも全力でぶつかっていけることは稀だ。
そこで失うものの大きさに足がすくむだろう。負けた時の無力感に絶望してしまいそうになる。
そんな時に「負けても自分のプライドの大切な部分は傷つかない」と教えてくれるのが氷帝学園中のレギュラー達だ。
敵わないものへも全力で向かっていくこと、
敗北からも学ぶこと、
それでも折れない傷つかない精神的な志を大切にしていくこと、
彼らの戦い様からはそんな人生との向き合い方を教えられるのではないだろうか。
本当に無様であるとはどういうことか、そういう問いかけを発している。
またその無様であることへの抵抗感と恥と無様にみせない生き方を彼らが掴み取っていく姿が彼らのかっこよさであり魅力である。
それはまさしく『氷のプライド 誇り高き美学』なのである。
氷帝学園の魅力は何かと考えると結局たどり着くのが原作者の許斐剛がテニプリFEVERの歌詞として各校につけたキャッチフレーズになる。
『氷のプライド 誇り高き美学』に惚れ込むのが、氷帝学園に魅せられるということ。
プライドと美学を共有した者たちの集まりが氷帝学園なのではないだろうか。
(なお、他のライバル校についても、その学校の魅力はどこかと尋ねられて一言にまとめようとすると、この各校キャッチフレーズにたどり着くと思っている。このことの詳細についてもまた改めて論考したい。)
以前本ブログでは青学が人生のどんなテーマをかけて各校と対戦したのかについて論考したことがある原作漫画を読み解く_無印で語られる具体テーマ - 超解釈テニスの王子様 人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)手前ながらこの考察によると関東氷帝戦は「チーム・仲間」をテーマに戦った。
この試合で敗れ、青学に雪辱を誓った氷帝は全国氷帝戦でチームとして勝つことに主眼をおいたオーダー戦い方をするようになる。
原作漫画中のシーンを拾うと、D2の榊監督「竜崎先生 これが勝つ為の我氷帝学園のオーダーです‼︎」、S2樺地「勝つのは氷帝です‼︎」D1「俺達は勝って跡部に繋げなきゃならねーんだよ」S1「しかし今の跡部は違う… 自分の欲求は捨てた」「部長としての選択だ 氷帝の勝利の為に!」
この流れからも氷帝学園が敗北から学び克服するという生き様を全うしていることがうかがい知ることができるだろう。
そしてさらに青学は氷帝を負かしたことでプライドも手に入れる。それはすなわち強豪校の自覚であり、自信だ。
比較による考察を深めるためにライバル校同士を比べてみる。
氷帝学園と立海大附属の部長と他レギュラーとの関係性の書き分けがなかなかに難しいが、あえて表現するのであれば、
跡部景吾は氷帝の中心ではないし、幸村精市は立海の頂点ではない。
氷帝メンバーは濃度の差こそあれど、全員が跡部景吾なのである。
立海レギュラーは幸村精市の方向を向いているが、氷帝正レギュラーは跡部景吾のために戦ってなどいない。
氷帝学園所属として描かれるレギュラーメンバーは全員「より優れた他者の力を認め、自分が劣っていることをきちんと理解し、驕ることなくひたむきに努力をしているところ」(「テニスの王子様 BEST GAMES!! 手塚vs跡部」松竹株式会社 2018年8月24日発行 映画パンフレットP14 CAST INTERVIEWより)が魅力な王子様達なのである。
以下は、氷帝学園中男子テニス部正レギュラー内では芥川慈郎を愛する筆者による願望混じりのキャタクター考察。
跡部景吾が頂点である。
彼は氷帝学園を体現する完全形である。
跡部景吾は「より優れた他者の力を認め、自分が劣っていることをきちんと理解し、驕ることなくひたむきに努力をしているところ」(前述BEST GAMES!! 手塚vs跡部パンフレットより引用)が彼の魅力の本質であろう。
そして氷帝No.2とされる芥川慈郎はその特性が陽の方向に全振りして出現していると見受けられはしないだろうか。(なお頂点である跡部景吾は陰陽全てを内包して「より優れた他者の力を認め、自分が劣っていることをきちんと理解し、驕ることなくひたむきに努力をしている」。)
芥川慈郎は氷帝学園中というチームにおけるバランサーになる。
彼の氷帝の哲学を共有しながらの陽のエネルギーが氷帝のチームとしての全人的なバランスを保つ。
全国大会準々決勝で彼はベンチであったが、このバランサー感覚が非常によく現れている。
氷帝がピンチの時(作品的には青学が活躍する時)氷帝は悔しがったり否定したりするような言動が多いが、芥川慈郎だけは肯定的なメッセージを発するに終始している。すごいものはすごい。驚くべきことは驚く。すごいものにはドキドキする。純粋なまでに。これは団体戦メンバーとしてはチームの勝利に執着しておらず自分勝手ともとれるが、一方で相手のことも素直にすごいと認めることができる人間性でもある。
だからこそこの勝利への渇望や熱量を青学が得た(であろう)この団体戦にはこの精神における対戦相手になり得ず出場できなかったのだろう。
20.5巻において原作者の許斐剛氏がインタビューで「芥川慈郎は一番キャラクターに変化があった。結果的に氷帝を明るくできてよかった」と語ったように、彼はその役割を集団の中できっちりと果たしている。
また、その彼がその真偽はどうであれ、氷帝学園実力No.2という強いキャラクターとして存在していることも、他に陽の方向に振ったキャラクターのいない氷帝学園において、絶妙なバランスをもたらした要因だと思っている。
ペアプリで原作者が「氷帝No2として出したのに、芥川慈郎を活躍させてあげられなかったのは後悔している」と語り、山吹戦で不二がD2で負けたことを「あんな風に簡単に描くべきではなかった。不二は簡単に負けさせてはならない」と語っていたことからも、おそらく本当に対戦相手が悪かっただけなのである。
不二周助を強いキャラにするために使われてしまったのが関東大会氷帝戦の芥川慈郎なのである。
結局関東大会vs氷帝戦を見る限りだと、S2は不二周助を圧倒的に強いキャラクターとして描くためだったような気がする。また、その後のS1への流れに沿うと、おそらくダブルスはダブルス専門、シングルスでも3と2、2と1との間に強大な実力の壁がそびえ立っているように読める。