超解釈テニスの王子様  人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

人生への圧倒的肯定を描き出す『テニスの王子様』と、その続編『新テニスの王子様』についての個人的な考察を綴ります。 出版社および原作者など全ての公式とは一切の関係はありません。全ては一読者の勝手で個人的な趣味嗜好です。 Twitterアカウント:@namimashimashi

スポーツ漫画は現実スポーツの前座ではない

テニスの王子様』『新テニスの王子様』を考察する面白さは、緻密に構築された世界観の秘密を解き明かすような類のものではない。

異世界ファンタジーやサスペンス・推理物の考察とは異なり、作品全体を通して発するメッセージやエネルギーが何であるかを掴み取ろうとするための考察だ。

テニスの王子様『新テニスの王子様』の読解考察はスポーツの解説に近い。

 

私は、許斐剛はスポーツ漫画を描くのに適した漫画家なのではないだろうか、と考えている。

許斐剛という漫画家が好んでとる”サプライズ”という手法が現実世界におけるスポーツの予測はできるが先の読めない、結果を読み解くことができない、何が起こるかわからない様に似ている。

“完全には理解できない”というのもまた現実のスポーツでも稀に起こりうるスーパープレーのような超次元のレベルのプレイを模している部分かもしれない。

理解できないようなことが起きるというまた現実の不可思議な、超人的な側面を演出できているのかもしれない。

つまり、『テニスの王子様』『新テニスの王子様』で起きていることは、一般常識や物理法則を逸脱している、常人には理解できない、理解する必要もない、それで良いのかもしれない。

 

無印『テニスの王子様』関東大会 青学vs氷帝 S1手塚国光vs跡部景吾の試合中に出てくる言葉『この試合いつまでも見ていたいな』(単行本18巻 Genius153 まぼろし より)というのは試合内容が良くてずっと見ていたいとかそんな単純な感情ではない。決着がついてほしくない。どちらかが敗者になるのを見たくない。それならばいっそ永遠に続いて欲しい。という感情があるということは2019年全英オープン勝戦ロジャー・フェデラーvsノバグ・ジョコビッチを観ていて私の中に湧いた感情だ。

ロジャー・フェデラーの言葉に「テニスに引き分けはない。必ずどちらかが敗者になり勝者になる。」がある。

こういうことに気がつくのはどうしたって現実のスポーツだ。

許斐剛はきっと現実のスポーツでこの感情を味わったことがあるのではないだろうか。

だから「どちらも勝たせたかった」(BEST GAMES!!手塚vs跡部 パンフレットより引用)と15年以上経っても言えるこの手塚vs跡部の試合の観客のこぼす心情としてこの言葉を持ってきたのではないだろうか。

 

テニスの王子様』『新テニスの王子様』の根底にあるのはいつだって現実世界のスポーツへ対する圧倒的なリスペクトだ。

 

その一方で、『テニスの王子様』『新テニスの王子様』には、ファンタジーである漫画が現実のスポーツには無い魅力を提供するためにできることは何か、現実のスポーツとは違う方法でアプローチするしかないというある種の危機感があるように見受けられる。 

テニスの王子様』はともすれば、主人公が勝利するという結果ありきの決まり定まった先が読める王道少年漫画だと思われがちだ。

だがその実情は異なる。

上述のように、”先の見えなさ”を抱えた現実のスポーツに対抗するべく練られたスポーツを題材に取り扱う新機軸の少年漫画だ。

確かに結果的には主人公である越前リョーマは必ず勝負に勝つ。

勝敗ではないところでその予測不可能性を提示しているにすぎない。

それは、おそらく、結果の予測できなさでは現実のスポーツを超えることができないからなのではないだろうか。

結果ではなく、現実のスポーツがどうやっても手を出せない部分、想像力がポイントとなる部分で現実のスポーツに対抗するような娯楽エンターテインメントとして存在するべく工夫されている。

 

テニスの王子様が、テニスをしない層にアプローチ・ヒットしているのはそのマインドが寄与する部分も大きいだろう。

 

スポーツ漫画らしい部分は、偶然性、次に戦ったときはどちらが勝つかわからない、さらには、スポーツである以上当たり前だが、次回の対戦の可能性があるという部分だろう。バトル漫画に次回はない。再戦というのは稀な話だ。

その一方でバトル漫画っぽい主人公無双やヒーローによる勧善懲悪ストーリーがある。

テニスの王子様』の先人である週刊少年ジャンプ漫画である『ドラゴンボール』は再戦を可能にした仕組みにおいてスポーツ漫画の要素を取り入れたバトル漫画ではないかと考えているが、そうであるとすると『テニスの王子様』はバトル漫画要素を取り込んだスポーツ漫画、スポーツ漫画におけるドラゴンボールといえるのではないだろうか。

余談だが、スポーツ漫画を基にしたバトル漫画の前例はおそらく『キャプテン翼』が考えられるのではないだろうか。

 

テニスの王子様』は、テニスを描写する漫画ではなく、テニスを介して表現する漫画なのではないだろうか。

 

バトル漫画の特徴としては主人公無双(主人公が敗北=死となりほぼ物語が終わってしまうので)、バトル漫画は静止画密接に絡んでいるので、人生に効く、普遍的な真理を語る。人生の悲哀と希望が描かれている。

テニスの王子様に人生に効く名言が多いのは、スポーツ漫画版のドラゴンボールだからであると考えられるのではないか。

書籍『テニプリパーティー』の置鮎龍太郎氏のメッセージ「人生を支える深い言葉を与えてくれた事。『油断せずに行こう』これがあればこの先も生きていけます」が顕著だろう。

 

また、『テニスの王子様』においては、それぞれのキャラクターにとっての最強ライバルと第三者的俯瞰視点における最強キャラクターが異なる。

この点においてはスポーツ漫画の特性を上手に活用しているといえるだろう。

そのため、勝負に負けても最強で居続ける一見矛盾してしまうような現象がおこる。

これが顕著なのが手塚国光だ。

バトル漫画では敗北=死すなわちストーリーからの実質的な退場になってしまうが、スポーツ漫画では勝負に負けてもストーリーから退場する必要がなく、また、リベンジの機会が与えられる可能性がある。

この人間模様の複雑さがまたストーリーに深みを与える。

 

いわば、キャラクター漫画としてバトル漫画とスポーツ漫画のいいとこ取りを成し遂げた、むしろ、バトル漫画とスポーツ漫画のハイブリッドを完成させるためにキャラクター漫画となっているともいえると考えている。

 

 

テニスの王子様』はテニス経験者には不評だという説がある。

作中のテニスが物理法則の面において現実的ではないことが理由だという。

感情移入がしづらいのだろう。

テニス見経験者の方がテニスの王子様にはまりやすいらしい。

それは、テニスの王子様はみんなの物語だからなのではないだろうか。

現代を生きる人が自分に引き付けて読むことができる人間ドラマの物語。

テニスの王子様は生まれ持った血や才能でテニスに挑むスタートラインに差をつけない。挑むことは自由だ。誰でも挑戦することができる。

テニスコートとテニスラケットとテニスボールを使った生命の物語、バトル漫画といえないだろうか。

ジャンプGIGA2017年vol.1掲載の対談で許斐剛が言う"筋書きのないスポーツを観るワクワク感に漫画が勝つのは難しい。フィクションのシナリオより、ノンフィクションの方が時におもしろかったりする" という感覚は真理だと思う。

 

現実のスポーツをスポーツと漫画を同じ土俵で考えるな、というのも分からなくはないが、この2つをスポーツ観戦と漫画としてエンターテインメント・娯楽と捉えれば同じジャンルのものだと考えられる。

漫画が娯楽としてスポーツ観戦に勝てないということは、娯楽として選ばれなくなるということだ。

漫画が選ばれ続ける、読まれ続けるためにはノンフィクションのシナリオを勝負ができなくてはならない。

生命を賭けた戦いを繰り広げるバトル漫画は現実には決して起こり得ないフィクションエンターテインメントとして現実的な娯楽と娯楽として選ばれる勝負ができるかもしれない。

一般人が普通に暮らす中では目撃することが叶わない世界をフィクションで見せる漫画はそれだけで現実の体感を伴う娯楽とは一線を画することができるだろう。

ではスポーツ漫画はどうだ。

スポーツ漫画の役割は現実のスポーツの魅力を伝えるモノなのだろうか。

ノンフィクションのドラマへ人々の目を覚ますためのガイドフィクションなのだろうか。

スポーツ観戦をすれば漫画以上のドラマが待ち受けている現実のスポーツに目を開かせる伝道師にすぎないのだろうか。

我々、読者/受取手/コンテンツ消費者は、スポーツ漫画を"どれだけその題材スポーツを盛り上げたか/魅力を伝えることができたか"で評価してはいないだろうか。無意識のうちに。

題材スポーツの先、スポーツを超えたメッセージを読み取ろうとしているだろうか。また、その部分を見つめようとしているだろうか。

スポーツ漫画がスポーツ漫画のままで娯楽として選ばれ続ける方法。『テニスの王子様』『新テニスの王子様』は、現実に観ることができてしまう世界を取り扱うフィクションが、そのままで現実とエンターテインメント性で戦っていくための一つの答えなのかもしれない。

平等院鳳凰は"頭(かしら)"である

Twitterで呟こうとしたら3,000字近くにまで及んでしまったのでブログにも載せることにしました。

Twitterは140字なのにね。

何考えてんだ、お前。っていう。

 

そんなわけで考証とかあんまりしていないし、Twitterばりの砕け口調です。

いつもブログ書く時に(実は)意識している論文調ではないです。

あとPrivatterにアップした文章からやっぱり少し手を加えています。

読み返すほどに書きたいことが増える。テニプリ考察はやっぱり底なし沼。

 

さて、閑話休題

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平等院鳳凰という人間的にどうなのレベルの暴力テニスをする人間がトップである理由を考えました。

 

私、お頭 平等院鳳凰が好きなんです。

新テニを考察しようとするとどうしても平等院鳳凰の分析を避けて通れないよなとかなんとか思っているので平等院鳳凰氏については定期的に思いを馳せています。

 

選抜合宿編あたりは(こんな倫理観崩壊したみたいな奴をトップに据えて大丈夫かよ)と思っていたけど、色々ここまで見てきて考えると「トップはこの人しかいないわ」と思う様になりました。

私の問いは「平等院鳳凰は本当にテニスで一番強いのか?」。
それは選抜合宿で高校1年生に鬼に敗北しているところからくる疑問なのですが。
平等院鳳凰って負傷していたとはいえ2年前の世界大会でフランス戦でも負けてるし、入れ替え戦でも徳川にあと1ポイントで負けそうなところまで追い込まれているし、以前の世界大会でアマデウスとのシングルスにも多分あれ負けたんでしょう。「一切負ける気がしない」とか強いことを言っているからそう見えないけど、実のところ負け描写が多いキャラだし。
そんな平等院鳳凰氏が現Genius10のNo.1なのはなぜ?となっておりまして、代表選抜合宿は実力社会なので強くなったから、という単純な話だとは思いつつも、精神世界の観点から考えると、はあなるほどトップは平等院がふさわしいよ、と腑に落ちているのです。私の中では今のところ。

テニプリにおけるテニスの強さが精神面の強さに左右しされがちなのは、これは無印テニスの初期中の初期から変わらないテニプリ世界の基準の一つだと思います。山吹戦S2越前vs亜久津では明確に言及されているし。

さて、で、平等院鳳凰さんのことですが、この人の精神の強さは"人間として強い "という部分なんじゃないかと思っているわけです。私が好きなのはこの部分。
"人間として"強いので、人間やめそうな人を人間で止まらせておくことができる。格上なるは、他人を身内に引き摺り込むことまでもできる人なんじゃないかと。

ちょっと脱線しますが、"人間止めるレベルの人"(格好良くいうと"人ならざるものになろうとする人")を"人間"でいさせられるのは他人にしかできません。
人間をやめた人は人型を取っているヒトという生命体であり、人間ではない。人ならざるものになろうとしている人は得てして孤独になる。人と人の間に生きる"人間"ではなくなってしまう。しかも人ならざるものの領域に手を伸ばすその人本人はそれが意識的であれ無意識であれ積極的に孤独を選びとってしまうものです。
だから、人間やめるレベルの高みへ登る人を"人間"でいさせるには、その人を孤独にならないようにしなくてはならない。
その方法は、人間やめるレベルの人と同じレベルに行くか、人間やめてしまった人を変わらずに人間として接するか、だと思うのです。

平等院鳳凰氏はそのどちらの手法も取ることができる。鬼や亜久津との関わり方を見ていてそう感じています。

そして、さらに、これが一番重要なんだと思うのだけども、平等院さんは自身が孤独にならなず人間の形をとり続けることができる。

人間を保ちながら強くいられるのは特殊能力です。
孤独を選びとらずに高みに手を伸ばすことができる人などそうそういない。
それができるのが平等院鳳凰という人間なのだと思うのです。

テニプリが新テニになり、越前リョーマ以外のテニス描写にもスタンドが現れる様になったけど、平等院鳳凰のスタンドは海賊です。
鬼十次郎は鬼神、徳川カズヤは阿修羅です。
平等院はスタンドが神様の類ではなく、人間社会の姿をとっているのですよ。
まあ、実際に描かれた海賊は白骨化していたので、本当に人間かよ、とも思うけど。

平等院鳳凰という人間は没我的でありながら自意識と組織目標に乖離のない人物であり、自らの力は日本チームの勝利のために用いることこそが自分の願いである。
平等院はチームの勝利のために生きているから彼はどこまで強くなったとしてもチームという他人ありきの発想なので決して孤独にならない。
その芯が決して揺らがない限り、彼は人間を自らやめることはない。その強さがある。

平等院鳳凰は"人間として"強い。

そういう点において私、本当に、平等院鳳凰お頭が好きなんです。
頭領たる器の人間だなと思うんですわ。
比較することでもないとは思うけども、鬼とか徳川はNo.1にはなれるかもしれないけれど"頭"にはなれない。
平等院は逆で、No.1でなくても集団を率いる頭(まあ今No.1だけど)ではある。

それでいうとGenius10はこの"頭性"みたいな順番に並んでいるようにも見えるなぁとか思っていまして。
平等院に一番近いのはNo.2の種ヶ島。
"人間やめそうな他人の手を引ける人"であるかどうか。
Genius10の中でそれができるのはNo.1&2の2人に強く感じる。
他人の手を強く引いてしまうことができる人なのですよ。
人間やめるレベルの高みへ登ろうとする人を人間でいさせられる強さで他人に関わることができる。
気持ちの持ち様ではなく、現れる結果が他人のためになる風に動くことができてしまう人々。
人たらし的な側面がある。
求心力という点において組織のトップたる人物といわれて納得できる。
種ヶ島修二にもこういう"結果的な人たらし"要素を感じられるなぁと思っています。


でもね、やっぱりNo.1の平等院鳳凰は、この
・人間やめそうな人を人間で止まらせておくことができる
・他人の手を強く引いてしまえる
・自ら人間をやめることはない
の3点を、意識せずに当たり前のこととしてやっているあたり、生まれながらのお頭の器なのだと思うわけです。
やっぱりこの人がNo.1だぜお頭。お前たちのリーダーだよ。

まあ相手をボッコボコにマジで殺そうとするテニススタイルをとる神経はよく分からないけど。
擁護するように見ると、あれは平等院なりの選別試験的なものなのかもしれないと今のところは思っている。懐に入れるべき相手かどうかを見極めている。死ぬほど不器用だな、おい。

私は平等院の日々が報われる日がきたらいいな、と思っているけれど、多分、彼は自分自身が報われようなど1mmも思っていないだろうあたりがやっぱり好きだと思う。
それはもちろん日本代表が世界大会で優勝する勝利を勝ち獲りたいとは思っているだろうけれども、平等院自身は今までの自分の日々が報われたいからその日が来てほしい、という意識はきっと無いんだろうな。
本当に純粋に日本テニス界を世界の頂点へ導きたいだけ。
すごい人だ。真似しようと思ってできることじゃない。

あと平等院鳳凰には自己犠牲の悲壮感みたいなのが全然ないあたりも良い。
覇王の安心感がある。
自分を慕うものに自らの身を案じさせない領域まで強くなってくれている安心感たるや。
私もお頭って呼びたい。
そういう部分も含めて彼は頭領の器を持って生まれてきた人物であり、U-17JAPANチームは彼に統率してほしいと思うよ。

最後に脱線するけど、次世代Golden ageの話をすると、現行中学3年生キャラクターでテニススタイルが一番平等院に近い人物は幸村精市だと思いますが、自らが強くなる方法に孤独を選ばない点においては跡部景吾に信頼をおくので中学生チームのリーダーが跡部なのはやっぱりこの自分とチームとの関係というか意識の持ち方が新テニの価値観において組織のトップに必要な要素だと判断されている部分なのではないかな、なんて思うわけです。

新テニ読みたい。日本チームに勝ってほしい。
平等院鳳凰よ、導いてくれ。期待を重圧になど微塵も感じずに前を見据えていてほしい。

思い出せ、越前 そして俺たちも、思い出せ

原作漫画への多大なる信仰とアニメ声優の声を聞きすぎた影響で長年、ミュージカル『テニスの王子様』(通称:テニミュ)の観劇を避けてきたが、社会人生活も3年目となった夏、収入にも困らなくなったこともあり、ようやくテニミュの観劇を開始した。2017年8月8日3rd season関東大会決勝 青学vs立海公演のことだ。

 

通常テニミュで感じたことは観劇者用アンケートに全て記述している。

劇場で書ききれなかった場合は持ち帰り、後日、郵送する。

それでも、この件はどうしても、どうしても、アンケートではなくブログに書きたくなり、この場で記す。

 

2019年9月29日に大千秋楽を迎えた3rd season全国大会 青学vs立海 前編。

その本編ラストシーンについて、である。

厳密に言えば、四天宝寺による『うちらのハートはパーカッション』の前部分、『思い出せ、越前!』『思い出せ、越前!2』だ。

 

記憶喪失になった主人公:越前リョーマの失われた記憶を桃城武が思い出させてやろうとテニスをするところに海堂薫乾貞治が駆けつけ、歌の終わりには青学レギュラー9人が歌唱する。

 

観劇中に私は自分の体に爪を立てて自らを抱きしめた。

そうしていないと、衝動で叫び出してしまいそうだった。

言葉にならない熱い何かが舞台から襲ってくるようだった。

言語能力では捉えきれないエネルギーの塊のような、焦燥にも似た何かが全身を駆け巡り、生命力がみなぎるような、観劇している自分の身体が命の響きを思い出して暴れだすような感覚に襲われた。

 

その場面はこうだ。

 

桃城が歌う

思い出せ 越前

お前の人生の目的

思い出せ 越前

お前の生きてる意味

そして現れる手塚・河村・不二。

それもそれぞれがここまで最も痛みを伴った試合を彷彿させる姿で現れる。

手塚はvs跡部、河村はvs石田、不二はvs白石を思い出させる様に舞台に出てくる。

 

さらに間髪入れずに歌は続く。

 

今度は桃城だけではない。リョーマ以外の青学レギュラーがリョーマに向かって歌い掛ける。

テニスは俺らの全てじゃないか

俺たちはテニスで繋がる仲間

テニスにかけたあの日々を

テニスに委ねた熱い命を

思い出せ 越前

 

まるで"人生とはテニスだ"とと訴えるかのような青学の姿に私の精神も身体も震える。

生命の拍動を強く感じるのだ。

 

生きるとはテニスをすること。テニスをすることは生きることだ。

そうして生きてきた日々が今のお前を作っているんだろう。

それを忘れるな。否定するな。思い出せ。

お前のテニスを人生を思い出せ。

そのテニスで、テニスで勝ちたい、その思いの元に一丸となって戦った日々を思い出せ。

俺たちがテニスをしてきた日々を、テニスで勝つために費やした日々を、生きてきた日々を、そうして培われた絆を、思い出せ。

青学テニス部はテニスが繋いだ、テニスただそれのみで繋がれた仲間じゃないか。

テニス以外のことは何一つ俺たちを繋がない。

だから、テニスを思い出せ。

俺たちもお前とテニスで戦ってきた日々を今、思い出している。

 

そうだ。

この様子を観て、観客もまた、ここまでの『テニスの王子様』のテニスを、物語を思い出すのだ。

今までの彼らの戦いを、生き様を思い出す。

 

だから、この「思い出せ、越前」の問いかけにテニスを思い出すのは越前リョーマ一人ではない。

その場にいる青学も、観客も含めた全員が、"テニス"を思い出すのだ。

テニスに捧げた命を、日々を、人生を思い出す。

 

ここは原作漫画でいえば41巻Genius369 リョーマに繋げ

竜崎スミレ「そう言えば お前達が ピンチの時ー 常にリョーマがきっかけになっりよったわい」

前後のシーンに呼応するのだろう。

 

それが、この3rd season全国大会 青学vs立海 前編という舞台のクライマックスとして最高潮に盛り上げる。

 

このミュージカルシーンは「テニスは俺らの全てじゃないか」と青学が全員が歌う姿こそが正に青学だ。

テニス以外では繋がらないのが青学テニス部だ。

それであるが故にテニスは彼らの"全て"になる。

そうだ。『テニスの王子様』の主人公校の青春学園中等部男子テニス部にとってはテニスが全てなのだ。

 

 

だから観劇した私は震えた。

テニスの王子様』が描くテニスと人生の繋がりを、全国優勝を掻っ攫っていく青学の姿を、熱く熱くそして正しく表現してみせる舞台に。

 

 

青学は一人一人がそこまで強いキャラクターではない。

一人一人の強さならばもっと強い選手を抱えた学校のテニス部はある。

現に全国大会決勝戦の対戦相手である立海は、手塚が7人+神の子幸村精市だ。

だが、青学は"何やらかすか 分からない"(Genius177窮地 忍足侑士のセリフより)。青学(アイツ)らは 窮地に立たされ ピンチになれば なる程 強く そして試合の中で どいつも進化していきやがる"(同話 向日岳人のセリフより)。

また、手塚が関東大会初戦S1跡部戦で青学テニス部の柱として青学のために身を賭して戦ったように、関東大会決勝S3で乾貞治が青学の団体戦に「でも この試合は 落とすわけにはいかない‼︎」と勝利したように、全国大会準決勝S3で不二周助が「このチームを全国優勝へ それが僕の願い‼︎」と吠えたように、同団体戦S2で河村隆が青学3年生の同期への思いで戦い続けたように、青学はチームでコートに立つ選手を奮い立たせる。

「テニスは俺らの全てじゃないか」と青学全員が円形となり中心にいる青学の仲間である越前リョーマへ訴える姿。

一人一人では相手の方が強いかもしれない。でも青学はコートに立つのは一人でも一人で戦うのではない。

「みんながいたから ここにいる きっと ずっと ともに走ろう」と謳うのはキャラソン青学オールスターズのTricoloreだ。

9人が揃った時のエネルギーがあるから、9人がいるから、強くなる。

それが、ここまでの『テニスの王子様』の物語を紡いできた青学の姿なのである。

 

 

さて、物語は後編へ続く。

こうして越前リョーマを通してみんなが全員が思い出した過去の対戦の全て。生きてきた全て。

この今までの『テニスの王子様』の全てを身体に宿した越前リョーマが最終決戦にて対戦する相手は幸村精市だ。

幸村精市はこの全てを"どんな技も 誰の技も 通用しない"という形で否定してみせる。

過去の全否定をしてみせるテニスプレイヤー幸村精市のラスボスとしての相応しさは筆舌に尽くしがたい。

これほどまでに絶望的な方法があるだろうか。

全員が思い出だしてパワーに変えた今までを一人で一蹴する。

 

その絶望の先の希望に辿り着くのは、その先の、『テニスの王子様』という物語の結末だ。みんなが戦ってきた答えが出る。

 

原作漫画『テニスの王子様』とミュージカル『テニスの王子様』は似て非なるものだという思いがある。原作漫画テニスの王子様の魅力を舞台作品として魅せるのがミュージカル『テニスの王子様』であろう。

だから、原作漫画とは異なる脚色もある。

一方で、舞台作品、ミュージカルだからこそだせる魅力もある。

原作のメッセージを舞台作品として観客に効果的に訴える。

 

青学vs立海 後編は2019年12月19日に初日を迎える。

我々も越前リョーマと同じように。

思い出せ、テニスを。

教えてもらおう、テニスを。

一つの答えが出るその瞬間のために。

 

ミュージカル『テニスの王子様』3rd seasonの物語が完成する刻も近い。

 

"テニスの王子様"って何なのさ (という自分への現時点での回答)

"テニスの王子様"性とは何だろう、と考えている。

時代が変わっても、媒体が変わっても、それを"テニスの王子様"だと認識させるものは何であるのだろう、と考える。

 

BEST GAMES!!手塚vs跡部のオーディオコメンタリーをはじめとしたBEST GAMES!!シリーズで製作陣やキャストが口々に語る"テニスの王子様"の「色褪せ無さ」「普遍的な面白さ」「古くさく無さ」はどこから来るのだろう。

 

 

原作漫画『テニスの王子様』は古い。

なにせ20年前の漫画だ。

作中に登場するギャグや流行歌が変わったこと、洋服や髪型の流行が変わったこと、社会の技術革新が進んで携帯電話はスマートフォンになったこと、という物理的に簡単に目に見える部分だけではない。

1999年~2019年の20年の間に世の中の価値観も変わった。

暴力描写も未成年の喫煙も犯罪行為だし取り締まりもより厳しくなった。

スパルタ指導もパワハラ暴力行為としてきっちり処分されることが望ましいとハッキリ言われるようになった。

今も昔も闇であることには変わりないけれど、2020年を目前にした現代では、これらのことは表現の世界で、とりわけ低年齢層向け創作物において、堂々と描けるような事柄ではなくなった。

男性カップルはもうホモとは呼ばない。

女性グラビア雑誌のような性的商品の消費現場を見せる表現は好ましくない。

スポーツ指導においても、中学生の子が自らの身を犠牲にするようなプレイは指導者に止める責任がある。

20年前には目くじらを立てられず存在していた不良・セクハラ・暴力表現は、20年経った現代ではきっちりとNOを突きつけられる時代になろうとしている。

もう1990年代やそれ以前のようにいわゆる低年齢層向け不良漫画が世に出るような世界ではなくなった。

性と暴力に頼ったドラマは倫理的ではない。そのドラマは受け入れられなくなってきている時代だ。

 

価値観は変わる。良くないものは良くないと言われるようになる。

その先で生き残る価値観がテニスの王子様にはあるのだろうか。

20年経っても古びない価値観感覚があるのだろうか。

 

 

テニスの王子様”と称されたコンテンツに接して、その結果、正しく、自分はテニスの王子様コンテンツに触れている、と感じる感覚を”テニスの王子様”性と呼ぶとする。

テニスの王子様”はどこに宿るのだろう。

 

結局どこまで考えても自分が知りたいのはWhyなのだけれども、そのWhyの答えを明確に示してくれるほどテニスの王子様は優しくないし、分かりやすい構造主義的な理論構造の言葉で表せる物じゃないから原作が漫画なのだ。テニスの王子様世界を描き出すには漫画表現が最適だったのだ。

既存の言語で切り取ると枠外に出てしまう意志を有するから漫画表現で語られる物語だ。そして漫画だしアニメだしミュージカルなのだ。

それでも知りたくて分かりたくて考えてしまう。

「なぜ私はこんなにもいつまでもテニスの王子様に魅せられ続けているのだろう」

テニスの王子様って何なんだろう」

 

 

テニスの王子様』は、誰も特別ではないという手法を用いて全員が特別と表現している。

2002年~2003年に世に出たSMAPの歌謡曲である『世界に一つだけの花』思考とも言える。

誰もがもともと特別なオンリーワンであることをスポーツの大会というナンバーワンを目指すストーリーの中で描き出す。

だから『テニスの王子様』においては誰も”特別”ではない。

主人公の越前リョーマですらも”特別”ではない。

それにともない、

幸村精市は”特別”ではない。

跡部景吾は”特別”ではない。

手塚国光は”特別”ではない。

亜久津仁さえもは”特別”ではない。

それはひとえに全員が等しく特別だからだ。

越前リョーマが特別ならば、幸村精市が特別であり跡部景吾も特別であり手塚国光も特別で亜久津仁も特別だ。

そういう価値観の世界である。

全員がそれぞれにそれぞれの文脈において特別な存在であることを、限定された少人数の特異性に理由を求めない、という手法で語る。

(もちろん、越前リョーマについては”主人公”という特別な役割は担っている。だが、その存在そのものが他のキャラクター達と人間的なものを比べて特別かというとそういうことではないだろう。)

 

テニスの王子様』ではテニスのポイントや勝敗以外の外側からの基準にNOをつきつけているともいえるだろう。

“絶対的な絶対評価”と言えば良いのだろうか。

テニスの勝ち負け以外の事柄では他人の基軸で評価しない。

天才も普通も異端も皆各々にとって唯一無二な点で同じである感覚を覚える。

 

この”特別でなくても良さ”に、多分、自分は一生救われる。 

 

特別な出自がなくても、生まれ持った天賦の才がなくても、焦燥感を煽るような悲惨な過去がなくても、何の理由もなくったって、誰でもただひたすらにそのことが好きで楽しいと思ったことを一生懸命に目指して良い。

 

 

そしてまたテニプリ世界へのトリップを生み出すキャタクターの作り込まれ度合いを考えたい。

キャラ漫画と揶揄される程までにもキャラクターの実在度の高さがある。

だからキャラクター達はもしかしたら現実にいるかもしれないレベルでの作り込まれた設定で生きている人間のような、全人格的な存在感を有している。

ミュージカルのキャスティングにおける「キャラクターの種」を有する人物を探す方法に見られるように、現実を生きる生身の人間に結びつけることができるほどに実在する人間に近いキャラクター作りがされていると考えられるだろう。

漫画というファンタジー世界へのトリップには、精神性または物理的現実的な世界観のどちらかが鍵であると考えられるが、『テニスの王子様』『新テニスの王子様』には正直に言えばそのどちらも無いとも言えてしまう。

キャラクター達の精神的な雑音の少なさ・複雑性の低さはファンタジーであり、また、リアルな物理法則は無視されがちである。

ともすれば全くのファンタジーになってしまい、一切のシンパシーを生み出さなくなってしまいそうな世界観なのだ。

そのテニスの王子様が読者(テニスの王子様・新テニスの王子様コンテンツ全体で言えば観客、視聴者などメディアに触れる消費者全般を指す)のトリップを生み出すのは他ならぬキャラクターの人間感なのではないだろうか。

仮に一般的な精神性や物理的世界観を心技体の心と体とするのであれば、技としてキャラクターの人物像で現実世界とのリンクを生み出していると考えられはしないだろうか。

 

 

 

冒頭の問いに戻ろう。

"テニスの王子様"性とは何であるのだろうか。

 

それはキャラクター達であり、キャラクター達の取り扱い方なのではないだろうか。

というのが、現時点で自らの腑に落ちている感覚である。

 

全員だれも特別ではないが故に誰もが特別であり、全員特別だから誰も特別ではない。

その地平に立っていたい。

絶望の姿

テニスの王子様』が描き出す人生への圧倒的肯定感を語るために用いた作中における絶望の姿を考えてみたい。『テニスの王子様』が絶望として表現したのは何だったのだろうか。

 

なお本稿は以前にアップロードした下記過去の記事と内容は重複しますがご容赦ください。

https://namimashimashi-tpot-373.hatenablog.jp/entry/2019/02/24/225516

https://namimashimashi-tpot-373.hatenablog.jp/entry/2019/01/05/032649

 

まず一般論として、古来より人間は思考上、人間の死を人間存在の限界であると捉えて絶望としていた。

そのため諸宗教では、その方法の違いはあれど、死をどう克服するか、死とどう向き合うか、という問題を取り扱っているものがほどんとである。

人間という存在に限界があることは絶望であり、人間存在の限界は死ぬことであり、すなわち死が絶望なのである。

その絶望に向かっていく生との付き合い方を説くのは重要な宗教の一側面なのだ。

この世に存在する宗教というものの発端を考えると、一点においては、死という人間存在の限界への絶望と付き合うものだと見る事ができるだろう。

例えば、一般にはキリスト教は救いの宗教、仏教は覚りの宗教と言われている。

死を救いとしたり、死について覚ったりすることで絶望せずに今生を生きることができる。

人間にとっての死は古来より絶望と捉えられており、その絶望と向き合うための手段として宗教的な発想が発展してきたのが人類の歴史である。

 

頻繁に宗教的だとされる『テニスの王子様』であるが、例えば『テニスの王子様』を宗教だとすれば『テニスの王子様』が答える絶望との付き合い方はどんなものなのであろうか。

 

それは、死を見えなくなるまで生に集中することなのではないだろうか。

一点集中「この一点を見極めろ」である。

 

テニスの王子様』は絶望を超えていくストーリーだ。

 

語るまでもなく無印『テニスの王子様』における最大の敵(ラスボス)は幸村精市である。

主人公が最終的に越えるべきラスボス、すなわち、『テニスの王子様』ストーリーにおける最大の絶望は幸村精市の姿をしてやってきた。

テニスの王子様』における絶望は"通用しない"とほぼ等しい。

"通用しない"とは"無力"であるということだ。

目の前で起こる全ての事象に対して自らは精神的にも肉体的にも為す術が無い状態を存在の限界として五感剥奪(イップス)で表現している。

 

これは推測だが、『新テニスの王子様』における絶望は最初は平等院鳳凰の姿をしていた。おそらく最終的には手塚国光になるのではないだろうか。

『新テニスの王子様』になると絶望は破壊の形をする。

『新テニスの王子様21巻において越前リョーマ平等院鳳凰を本当に倒したいのかという自問自答を超えるまでは平等院鳳凰が絶望であった。

テニスの王子様』において主人公の越前リョーマは一度絶望を超えている。

絶望を超える力を希望と呼ぼう。

天衣無縫の極みに到達する "という現象は、獲得したものの喪失から再獲得する行為、だと再定義したい。

すなわち自信や技術などといった精神的な働きを含め何らかの経緯で獲得したものの喪失は、絶望との直面であり、その絶望の克服が天衣無縫の極みの扉を開いた状態だと捉えている。

そして絶望を超える事を希望とするのであれば、『テニスの王子様』における絶望が"通用しない"で表される"無力"であったのに対し、『新テニスの王子様』の世界観では希望の対義語は"破壊"である。

光る球が平等院鳳凰が打つ時はデストラクション=破壊であるのに対し、越前リョーマが放つとホープ=希望になるのは、このためである。

 

話を『テニスの王子様』に戻そう。

テニスの王子様』での最終決戦である全国大会決勝戦シングルス1の試合描写において、幸村精市越前リョーマのことを「ボウヤ」と呼ぶ。固有名詞では呼ばないという一個人と認識しない、偏に風の前の塵に同じ。スーパールーキー、メタ視点でいえば物語の主人公であっても、他の対戦相手と何も変わらない存在としてしかみていないことがうかがえる。後に『新テニスの王子様』になると「あのボウヤ」とボウヤが固有名詞化する。

 

全国大会決勝S1越前vs幸村は精神性の高い試合である。

幸村のマジレステニスで「ずいぶん現実的なんだね」と無我の境地でくりだす過去の対戦相手の技、記憶喪失から戻ってきた記憶のカケラをことごとく返球し、「どんな技も 誰の技も 何も通用しない」と圧倒→どんな逆境でも諦めない精神力で百錬自得の極みのオーラを適材適所に集めることで返球するようになる→「テニスなんてもう無理だろう」と医者に言われた過去(幸村自身の絶望)を思い出して精神力を立て直し「どこに打っても返されるイメージ」を対戦相手に見せる五感を奪われたようにイップスに陥る→「テニスを嫌になる状態」と称されるイップスを「テニスを嫌いになれる訳ない」と克服し、逆に「テニスって楽しいじゃん」「楽しんでる?」と聞き返す→「ふざけるな!テニスを楽しくだと!」と反論する気力で試合も盛り返す幸村→手塚「今こそ青学の柱になれ越前」越前「ういっス」サムライドライブとこの一点を見極めろ勝利

作中で幸村が罹患した病気は手足がまず動かなくなり 徐々に体の自由が奪われる病気であり、自身の対戦相手の五感が失われている状態に似た状態を自身も経験しており、また彼自身はその状態を「誰もがもうテニスをするのも嫌になるこの状態」と評している。

「やはり君は危険すぎる」というのは自分も乗り越えたテニスができなくなる状態に同じく立ち向かう格下の者を脅威として捉えているのではないだろうか。

五感を失われた状態、ボールを返したくなくなる、テニスをしなくなくなる状態は、テニスコート上では終わりに等しく、テニスを人生と捉えればテニスの終わりは人生の終わりすなわち死に等しい状態。要するに五感を失われた状態は瀕死に近い。

瀕死状態にあってなおテニスを続けようと、生き続けようとする意思が天衣無縫の極みの扉を開かせた。

スコアは前半0-4までは幸村がほぼ完封で試合を進めるが、4ゲーム目に1ポイントだけリョーマがポイントをとっている。

百錬自得の極みのオーラを適材適所に集めることで返球しているリョーマに対して幸村精市は「このボウヤはいったい」とリョーマの可能性に恐れを抱き、精神的に揺らぐ。

またこの百錬自得の極みのオーラを適材適所に集めることで返球している状態に幸村精市は「こ これがまさか」とまだ見ぬ天衣無縫の極みを予感しているが、のちに実際越前リョーマがたどり着いた天衣無縫の極みについて乾貞治が「百錬パワーを適材適所に移動させたアレの進化版みたいなもの」と解説をしている。

 

それでは『テニスの王子様』において幸村精市は何のためにテニスをしていたのだろうか。

全国大会決勝戦シングルス1の時点で彼は立海三連覇のためにテニスをしているのである。

その時点において彼もやはり他者の基準の理由に囚われた一人であった。

対して越前リョーマは結果的に青学の全国優勝をもたらしたが、彼がテニスに勝ちたい、テニスに負けたくない理由は、勝ちたいから、負けたくないから、であって、青学を全国優勝に導くためにテニスに勝ちたいのではないのである。

手塚「今こそ青学の柱になれ越前」青学の柱は越前リョーマの心の枷にはなっていない。

義務感ではない自主選択制。そこに自由意志が介在している。

越前リョーマは青学の柱になれど、青学のために戦っていたわけではないわけで、そこが幸村をはじめとするチームのために勝利しようとしたライバル校たちとは異なっている。大義名分のために試合をしていたのではない。

青学の柱とは、青学のために戦う存在ではなく、青学の他メンバーが柱の存在を目指し、柱のために戦うことができる存在のことであろう。一と全体の価値観は対等なのである。青学はOne for All. All for One.梵我一如。全は一、一は全。宇宙の法則を頂点に導いたのがこのストーリーを貫く思想なのだと読む。

この立海三連覇のためという理由から解放された時、それが神の子が人の子になった瞬間である。

 

とはいえ、『テニスの王子様』『新テニスの王子様』は何かを背負うことに対して否定的な価値観を有しているわけではないとみている。

事実、幸村が盛り返したのはチームのことを思い返して立海のことを精神の支えとした時である。

また、(『新テニスの王子様』の読解は完結した後に本格的に取り組もうと考えているため深くは考えていないがという断りをした上で、)フランス戦でデューク渡邊をS1に起用した三船コーチもその気持ちを汲んでおり、また、S3でメディカルタイムアウトを時間いっぱい使わせた平等院鳳凰や、スイス戦S3で「選手が戦おうとしているのを止めるな」と審判に言い放ったアマデウスなど、最強ランクのキャラクター達は自らの力を増幅させるモノ・何かがあることを否定してはいないことが伺える。

青学の柱になれ、という手塚の声かけも、全国氷帝S1越前リョーマが気絶から立ち上がった時に青学の先輩たちを思い出したように、もう一手となりうる存在・動機を認めている。

重要なのはその自分の外的動機との付き合い方であり、プレイヤー自身の心がそこに囚われていないこと、まさに天衣無縫の状態でテニスに向き合えているかどうか、なのであろう。

最近考えている宗教生活とテニプリ関連の思索について

 

このブログを書いている私自身は参加していないのだが、2019年2月23日に開催された第3回テニスの王子様研究発表会において発表された研究の中に「テニスの王子様は神話」だと結論づけるものがあったという情報が耳に入ってきた(※要旨や発表内容を拝見していません)。

私は『テニスの王子様』『新テニスの王子様』を今まで聖典だと思って読解しようとしていた。

しかしながら先の情報を聞いてから簡単に神話について調べたところ、テニスの王子様』『新テニスの王子様』は確かに神話の方が近いのではと考え直すようになった。

神話の中でも、特に日本神話に構造が似ているように思う。

つまり、西欧やインドのような英雄譚、戦闘の神話ではなく、国生み、受容の神話になぞらえることができる、ということだ。

 

テニスの王子様』『新テニスの王子様』は英雄譚の神話のような敗北=死の価値観ではない。

ストーリー中において試合に敗北した選手たちの存在の排除、消滅はなく、勝ち進んだ青学の応援席や日常で役割を持って登場する。

また、『テニスの王子様』におけるプレイヤーの覚醒の初期状態である"無我の境地"では過去の対戦相手の記憶を無意識に体の記憶が次々に繰り出す状態、すなわち過去の対戦相手が勝敗を関わらず無我の境地を使うプレイヤーの身体を通して現れる。

 

排除ではなく、受容。

敗者に求められるのは、価値観の追加や見直しであり、屈服や排除ではない。

試合に負けたとしても相手は相手のまま生きていけるし生きていて構わない。

そこで価値観を見直すかどうかは相手自身に委ねられている。選択の余地があり、強制されていない。

 

テニスの王子様のストーリーにおいて、敗者は越前リョーマや青学レギュラーに敗北することでテニスと自らの関係をもう一度見つめ直す、テニスにもう一度出会う。

テニスの王子様によってテニスに出会うのである。

例えばこれが一番わかりやすいのは対不二裕太だと思っている。

都大会準々決勝の聖ルドルフ戦での不二裕太越前リョーマに対して「俺の最終目標はやっぱり兄貴だ」と宣言した発言に対して越前リョーマは「いいんじゃない」と答え、試合中では「俺は上に行くよ」と言葉をかけている。

リョーマ自身は、自らの意思の上では俺というあくまで一個人的な目的意識しか有していない。

 

また、受容と国生みの物語を語る国家神道に通ずる日本神話になぞらえるのには、もう一つ観点がある。

2本柱構造である。

日本神話は、伊奘諾(イザナギ)と伊邪那美イザナミ)の2神を起源とする国生みの創造の物語である。

またイザナギイザナミは始まりと終わりを司る。

テニスの王子様』も越前リョーマ遠山金太郎の2主人公物語だ。

そしてまた、越前リョーマは最初という始まり、遠山金太郎は最後という終わりを象徴する存在と見ることができる。

越前リョーマにとってテニスは始まりだ。生まれた時から自我が芽生えるよりも前からあったものがテニス。テニスが最初の存在が越前リョーマである。

一方で、遠山金太郎にとってテニスは最後。全てが可能、なんでもできる遠山金太郎が最後に出会い、残り付き合い続けることができたのがテニスだ。

(余談で付け加えるとするならば、越前リョーマはテニスが最初で最後になる可能性が残されている点において遠山よりもより可能性が大きい。遠山は決してテニスが最初になることは無いので。)

この視点で『テニスの王子様』『新テニスの王子様』を見るとキャラクター達一人一人は日本神話における八百万神と同様に捉えることもできるであろう。キャラクターひとりひとりを八百万神と見るとすれば、不二周助跡部景吾・白石蔵ノ介・幸村精市の4人を四大宗教と呼ぶ感覚も納得できるかもしれない。

 

テニスの王子様におけるテニスとは人生である。

テニスが人生であることについては、作中でエピソードが描かれている。

最終決戦 全国大会決勝戦前に天衣無縫の極みを息子:リョーマに教えるべく作中で唯一すでに天衣無縫の極みに到達している存在である父親:南次郎が山修行に連れ出す話だ。そこで南次郎はテニスを生きるための術として駆使している。

テニスの王子様が問いかける問いは「テニスのためにテニスができるか」。

すなわち我々は生きるために生きられるのかという問いに直面させられる。

今に最大限に集中できるか。

何かを目的にではない生を生きる。

これは仏教的修行が得られるとしている瞑想マインドフルネス思考に近いものがある。

 

以上のことから、テニスの王子様は、仏教的人生観・真理・哲学を国家神道神話的手法によって語る物語である、と考えることができるのではないだろうか。

 

 

ここで考えたいのが"唯一神"と言われることもある原作者の許斐剛先生の存在についてだが、この許斐先生の神格化については日本人の人神(ヒトガミ)発想に通ずるのではないかと考えている。

日本人には歴史を振り返ると、例えば菅原道眞公を神として祀るといったことや、先祖や未練を残した人物を奉り崇めたりするなどといった神と人との連続性が日本人の意識にはあるとされている。

日本人の意識には、何か偉大な物を作り後世に影響を与えた人間を神や精霊、人ならざるものとして讃える習慣があるのである。

このことから、テニスの王子様の創作者であり、影響力の大きい許斐先生は日本人の感覚では"神"と呼ばれる人間であったと考えられるのではないだろうか。

例えるのであれば、テニスの王子様というストーリーに対して許斐先生はシャーマンや預言者のトップオブトップに近いとみることができるかもしれない、と考えている。

 

 

 

さて、話は少し変わるが、テニスの王子様への信仰に似た意識は、日本の風土が成立させている部分も大きいのでは無いかと考えている。

日本の四季があるモンスーン気候で暮らす生活をしているからこそ、夏という季節の暑さがわかり、夏が終わることを理解し、季節は巡っても同じ夏は2度と来ないという既視感と創意性を理解している民族だから、真夏の一瞬間を切り取ったテニスの王子様の一瞬の輝きに惹かれ、戦いの暑さに胸を焦がすことができる。

四季のない国や常夏の国に生活する人々にとってはテニスの王子様の魅力は半減することだろう。

それは読者自らが体感した追体験でもある。

テニスの王子様信仰にはその信仰の形から仏教やキリスト教のような創唱宗教感があるが、その信仰の土壌を考えると、日本の土着信仰の一つとも言えるのかもしれない。

 

日本人の刹那、瞬間を慈しむ愛おしむ気持ち

夏の一瞬、青春の一瞬、を尊ぶ感覚を有している

一瞬を切り取ることに美を覚える

夏という単語から眩しさ暑さ激しさを連想できる感覚

消えてしまう眩しさを愛おしく思う

そんな自然災害の多い四季のある国に生きる人間に養われた感覚が、中学生の夏のたった3ヶ月間程度の凝縮された一夏の物語を愛でる感覚になる(なお、この説はいわゆる学園ものスポーツ系少年漫画が好まれる理由として共通するであろう)。

 

 

またテニスの王子様が発する創唱宗教感の原因としては、テニプリフェスタに代表されるライブが創唱宗教における礼拝に似ている感覚を覚えさせるからだと思っている。

礼拝における神や仏の御前においては一個人として平等な存在という自覚に似ている、テニスの王子様というコンテンツの前においてはファンは皆等しく同じという平等感を感じることがある。

 

 

と、以上のようなことを最近は考えています。

閑話_ブログ開設から一年経ったので…

odaibako.net

 

いつもご覧いただいている皆様、

検索等でたどり着いてご覧いただいた皆様、

当ブログをお読みいただきありがとうございます。

心より御礼申し上げます。

 

個人的に書きたくて書いていることなので、

こういうものは自力で考えて、対象と対話して、練り出す物だとも思いつつも、

スターやコメント、引用などリアクションをいただけると、とても嬉しいです。

 

2018年3月6日にブログを開設し、最初の書き溜めていた記事の一気アップ以降は細々としか書いておりませんが、何とか1年間経ってもまだテニスの王子様・新テニスの王子様を精読したいという情熱が続いています。

 

これからも気がつき、思考がまとまり次第、記事のアップを続けたいとは思っていますが、一人で考え続けるよりも他の方の視点もあった方が思考も深まりますし、自分の間違いにも気がつくので、もしも匿名であれば、感想などいただけるようであれば、お題箱から送っていただけると、とても嬉しく思います。

ご質問をいただいた場合は、お答えできる範囲になりますが、お答えしたいとも考えております。

 

テニスの王子様』『新テニスの王子様』原作者・許斐剛先生作詞「テニプリっていいな」の歌詞によると、テニプリは「色んな人達と出会え そして 語り合える」ところも美点の一つのようですし、何卒、よろしくお願いいたします。