愛されるよりも愛したい
テニスを。
テニスに愛されるよりもテニスを愛したい。
その生き方を魅せてくれている奴らがいる。
この文章は、ジャンプSQ.2020年7月号が発売され、Golden age302『零感のテニス』までを読み終えて考えていることである。
U-17 W杯準決勝S2幸村精市(日本)vs手塚国光(ドイツ)の試合が展開されている。
この試合は、作者の許斐剛から「テニミュ立海で涙した皆にも是非見て欲しい。」(ジャンプSQ.2020年5月号 巻末作者コメント)と言われて始まった。
テニミュ立海とは、2020年2月16日に大千秋楽を迎えたミュージカル3rd season テニスの王子様 全国大会 青学vs立海 後編のことであろう。
上記演目は無印『テニスの王子様』の最終決戦である越前リョーマvs幸村精市の試合であり、越前リョーマが『天衣無縫の極み』の扉を開いて幸村精市に勝利し青学が日本一を決めた無印『テニスの王子様』の最後までを見せるストーリーだ。
このこともあり、幸村vs手塚を読むにあたっては無印の越前vs幸村を頭においている。
そして最新話Golden age302『零感のテニス』までを読んで頭に浮かんだのは、
テニスに愛された越前リョーマ
と
テニスを愛した幸村精市
対比のような構図だった。
人生は望んだ物を得られなくても生き続けるのである。
幸村精市はこの手塚国光とのシングルスマッチに臨むにあたり、自らが所属する学校の後輩である切原赤也にこう宣言している。
「【天衣無縫】にならなくてもテニスを諦めなくてもいい事 自分が証明する」と。
たとえテニスに愛されなかったとしても、テニスを愛し続ける。
愛されたかったものから愛されなかったとしても、自分が愛し続けることは自分の意思で可能だ。
その生き方も否定される言われはない。
聖書の言葉を引こう。
使徒言行録 20章35節
"あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。"
(新共同訳)
幸せには、自らが受けるのを望むよりも自らが与える。
自分の幸せは相手の行動を待つのではなく自分の行動で掴もう。
テニスに愛されるよりもテニスを愛することを目指す。
その幸いを感受するテニス人生だって真なのだ。
自分がテニスを好きだ、と疑わずにいられるか。
自分は強くテニスを愛していると、他の何よりも自分に言えるか。
今、この瞬間、テニスをする、テニスを選んだ自分を自分で裏切らない。自分に嘘をつかない。自分を信じる。
誰かと比べた相対的な強さではない、絶対的な基準で自分一番、誰よりもテニスを愛しているのだ、と言えるか。
その強いテニスへの気持ちを持っているのが幸村精市なのではないだろうか。
ここでもう一度、聖書の言葉を引く。
ローマの信徒への手紙 5章3-5節
(前略)"苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。"(後略)(新共同訳)
希望が苦難の中にある。
苦難が希望に繋がる。
座右の銘に「冬の寒きを経ざれば春の暖かきを知らず」と掲げる、Golden age161で「テニスを出来る喜びは 俺は誰よりも強いんだ‼︎」と自らを鼓舞して五感剥奪の暗闇から自力で抜け出した幸村精市に、苦難の中から生まれる揺るぎない希望が降るのだと、神に祈るように信じたい。
『新テニスの王子様』Goledn age 296から始まったU-17 W杯準決勝S2幸村精市(日本)vs手塚国光(ドイツ)では、「天衣無縫にならなくてもテニスを諦めなくていい事を自分が証明する」と宣言して天衣無縫の極みこと矜恃の光を発現させる手塚国光との試合に臨んだ幸村精市ではあるが、考えてみると、現在の日本チーム高校生でGenius10と呼ばれるU-17メンバーの上位11名のうち天衣無縫の極みに到達していることが分かっているのは鬼十次郎1名のみである。
また、プロで活躍しているスイスチームのアレキサンダー・アマデウスのテニスは闇(ダークサイド)であり、光ではない。つまり矜恃の光になれるかどうかは判明していない。
さらに、矜恃の光の三種の精神派生を体感吸収したドイツチームのQ・Pは矜恃の光になったのではなく、究極の品質に、テニスの神になった。そして矜恃の光の心強さの輝きとなった鬼十次郎に試合で勝利した。
『新テニスの王子様』において無印『テニスの王子様』の最終奥義であった【天衣無縫の極み】の扉を開く=【矜恃の光】を発現する、それがテニスで上を目指し続けるためテニスを諦めないことへの唯一解ではないことが伺える描写もあると見ることができるだろう。
ここで、天衣無縫の極みに到達しないキャラクターでもう1人言及しておきたい人がいる。
跡部景吾である。
才能を努力で自らの生きる道をもぎ取って強くなった男だ。
跡部景吾の努力については様々なエピソードはあれど、原作漫画『新テニスの王子様』Golden age43跡部王国の回想で描かれた子供の頃の英国在住時代のエピソードが顕著だろう。
彼は「それしか俺の生きる道はなかった」と語る。そして"誰よりも強くなっ"た。
追い続けて追いかけて追いかける。
その先にある物もあるのではないだろうか。
話が逸れてしまう上に個人の趣向になってしまうが、『The Prince of Tennis BEST GAMES!! 不二vs切原』のキャストオーディオコメンタリーTIME 30:05〜30:45で切原赤也役の声優キャストの森久保祥太郎氏が切原赤也について語り、越前リョーマ役の皆川純子氏が同意する「赤也って先輩を"超えたい"と感覚がすごい強い。僕だと役者の業界にいて超えたいという感じって持ったことなくて超えるというよりも追いかけたいというのがある」「超えたいとうのはなかなか描きにくいかも」(内容は一部省略。意訳。)という言葉が好きだ。
他にも、日吉若の魅力に唐突に目覚めた瞬間があった。
敵わないものへ挑み続けることができる。
今は敵わないものを倒す未来を思うことができる。
その姿勢に惹かれるのである。
遠野篤京のその瞬間瞬間に全身全霊をかけたプレイスタイルもそうだ。
『新テニスの王子様』Golden age242〜247フランス戦D1における毛利寿三郎から柳蓮二への言葉「お前まだビッグ3とか言うて立海の3番手として偉そうにしとるん?」「どうせなら1番てっぺん狙いんせーね」は、「自分にリミッターば掛けていた」柳を「己の中の呪縛から解き放」った。
毛利寿三郎、経験者はかく語りき。
どんな方法でも1番は狙えるが、狙うかどうかを決めるのは自分自身である。
勝つと本気で思えるか。1番になるのは自分だと自分で思うことができるか。ある程度で満足せずにいようとするか。
この価値観は『テニスの王子様』Genius295満足いく試合(ゲーム)とは内での榊監督と宍戸・鳳ペアの会話「満足していては俺達は上へ行けませんから」でも明確に発せられている。新テニプリになる前の無印テニプリ時代から在る価値観だ。
テニスの王子様が魅せる生き様
・挑み続けること
・自分で自分を見限らないこと
・自分の生き方を自分が否定しないこと
そんな当たり前のことが当たり前にあるのがテニスの王子様・新テニスの王子様の世界だ。
もしも機会があれば本稿のタイトルに歌詞を引いた歌の歌詞をご一読されたい。
愛されるより 愛したい KinKi Kids 歌詞情報 - うたまっぷ 歌詞無料検索
“扉の向こう” “光る空” “青い風” “つよい風に向かいながら走りつづけたい”(作詞:森浩美, 作曲:馬飼野康二, "愛されるより 愛したい", KinKi Kids, 1997年11月12日)
同調圧力を無効化したい
2020年5月4日(月)0:00に先行配信された 種ヶ島修二「閃きCHAY BOY☆」 遠野篤京「Bloody Dance」を聞きながら『新テニスの王子様』17〜19巻を読みながら、改めて思ったことを徒然と書きます。
『テニスの王子様』『新テニスの王子様』の最強さを抽象化した時、それは同調圧力への耐性である一面もあるかもな。と思った。
まずはじめにテニプリシリーズに限らないことについて書きます。
実はSFバトル漫画に比べてスポーツ漫画の方が強さこそ正義の価値観を採用しているんだろうな、と思っている。
スポーツ漫画は勝つことが至上命題だし、勝つためには強くなくてはならない。
まぁ、強い奴が必ず勝つとは限らない、という変則球もあるけど、そこは十分条件と必要条件の必要十分条件にはならない部分ということで許してほしい。
もちろん勝たなくても成り立つスポーツ漫画もあるけど、そもそも勝ちたくて挑むんでしょ、から逃れられないのは圧倒的にスポーツ漫画の方だ。
その点から考えると、ドラゴンボールはバトル漫画の面を被ったスポーツ漫画だと思っていて、
・死者の生き返り=敗者復活
・わかりやすい強さ一辺主義
あたりはスポーツ漫画のそれに見える。
あと、弟/妹のために~とか、◯◯◯を取り返すために~とか、◯◯になるために~みたいな強くなりたい理由がなくて、強くなりたいから強くなりたい。
天下一武闘会で勝ちたいから強くなりたい。
スポーツ漫画でいうところの大会で勝ち上がりたい仕組みと対して変わらないな。と。
やっぱりドラゴンボールはすごい。SFバトルとスポーツと二大王道少年漫画ジャンルをどっちも含有してしまっている。
閑話休題。
私は、無印の『テニスの王子様』に比べて『新テニスの王子様』の方が話として強いなと感じている。
新は、「これが俺の生きる道」を持って戦わせていて、大体がプライドvsプライド状態。特に15巻以降の世界大会編になってからは全試合ほぼこれ。
自分の信条が定まった奴ら同士の見せつけ合いとぶつかり合いなので揺らぎが少なくて強い。
そもそも強いっていうやつ。
無印『テニスの王子様』は”最初から強い “価値観を少年漫画に持ち込んだ漫画で、新テニの主人公だけではなくて”最初からみんな強い”は無印の上位互換、無印は新の序章として取り扱うことができても納得できる。というか、今度はそうきたか。という感覚。
だからというわけでもないけれど、新では主人公越前リョーマに影響を受けるキャラクターが少ないような印象を受ける。
リョーマに対峙しても自分が揺らがない奴らが多い。特に高校生と海外勢。
23.5巻の許斐剛インタビューで先生が会心の出来だと語っていたプレW杯ドイツ戦3試合目の徳川がラケットを飛ばされて越前リョーマと対峙するシーンなんかは割と象徴的だと思っていて、徳川の「邪魔をするな越前リョーマ」とあの場面で力強く一蹴できるキャラクターは無印では描けなかったのではないかと思ったりもする。
ちなみに、話として強い、というのは、弱い奴が出てこない/全員強いというのに近い。
強者と強者が勝ちを求めて戦っている話。
抽象化すると、ブレが少ない。一本筋通った基軸への精神面での迷いや揺らぎが小さい。
それを成り立たせているのは一度話が綺麗に完結している面が大きい。誰もが納得してしまう立ち返ることができる場所を確立させている。そこもやっぱり強い。
『新テニスの王子様』は無印に比べてより群像劇感が高い。
テニスの王子様シリーズの価値観は割と現実的で残酷で、ちゃんと、努力だけだと才能や環境に恵まれた奴らには敵わないようにできていたりもする。
ただあの話がファンタジーとして成り立っていたり、それでいて読者のメンタルをこてんぱんにやっつけたりしないのは、敵わなくても構わない価値観が同時に存在するからなんだと思っている。(まぁ、その残酷さに気がつくと打ちのめされたりもすることは否定しないけど。)
テニスの王子様でも新テニスの王子様でも共通で強いキャラクターは何かしらのGiftedがあるケースがほとんど。
つきつめると要するに
・身体能力が異常に高い
・運動神経がやたらと発達している
・すさまじく器用
・超賢い
など割と現実的なそりゃ強いだろ要素に収まったりする。
作品特有の世界観と基準において強いみたいなのがほぼない。(イリュージョンだけはちょっと特殊な気がするけど。コピーと物真似は前述の範囲内なんだけどな。)
そのGifted達に対峙せざるをえない世界の中でやりたいことをやり続けるためにはどうすればいいのか。を各自突き詰めているのが新テニスの王子様だなと。
テニスの王子様世界におけるこのやりたいことが「テニスをやること」になっている。
結局、じゃあ自分には何ができるか?何があるか?諦めたくないならどうする?に自分の意思でどこまで付き合えるか。が問われているんだな、と。
そのメッセージがとても強くて、
無印だと檀太一、新だとオリバー・フィリップスへの越前リョーマの発言が分かりやすいけど、他者基準で物事を考えるなよ
諦める/捨てるならその選択をするのは他人じゃなくて自分だぞ
と言われてる、と漫画を読み続けると感じる。
他者基準で物事を考えない、というのは、自分の人生に自分で責任を持ち続ける覚悟が必要なので残酷だけど、同調圧力で押し潰されそうな時はこれ以上ない心強さにもなる。
自分の感覚を自分で否定しなくていいんじゃない?って言ってくれることが力になる時って人生であるよなぁ。そういうのを求めている心境の時にテニプリシリーズに触れると元気や勇気が出るのは分かる。
Dear Prince~テニスの王子様達へ~の「キミが勝てるまで 見ててあげるから」ってそいういう意味なのかなぁ。と。
この辺りを越前リョーマのあの「いいんじゃない?」みたいな決めつけない、相手に委ねて、自分は自分のスタイルを貫く主人公が魅せるっていうのも極上のバランス感覚。
日吉若とか切原赤也とかの2年生キャラにいがちで、他にも遠山金太郎とか遠野篤京とかがそういうマインドだと思うけど「敵わないものにどこまでも挑み続けることができる」精神は眩しい。
この精神も一つの答えなのだと扱われているんだな。
負けても挑み続けられるって強いなぁ、すごいな。と私なんかは目が眩んでしまうけど。
自由にテニスを楽しんだもん勝ち。
それは実際に勝ち負けじゃなくて、自分のマインドにおける勝ち。
誰の騒音にも耳を貸すことなくて、楽しいと思った、好きだと思った、その自分の感情はいつだって本物だと信じ続ける強さがほしい。
それが「テニス」に落ちてくると「テニスって楽しいじゃん」になるんだろうなぁと解釈している。
そういう漫画だから好きだったりするし、もう部活とか青春とかじゃなくなった人生のフェーズでも自分の人生で気持ちを奮い立たせたくなった時に読みたくなるんだと思っている。
『新テニスの王子様』で様々な生き様を見ることができることが、好きだ。
強くて、好きだ。
=冒頭で触れた楽曲について===
2曲とも原作漫画の展開を巧みに表現している仕上がりです。
ぜひ視聴だけでも。できればご購入を。1曲¥255です。
種ヶ島修二「閃きCHAY BOY☆」:https://www.feelmee.jp/index.php/item/product/1285
遠野篤京「Bloody Dance」:https://www.feelmee.jp/index.php/item/product/1288
(2020/5/7追記)歌詞は以下Webサイトに掲載
種ヶ島修二「閃きCHAY BOY☆」:
閃きCHAY BOY☆ 種ヶ島修二 歌詞情報 - うたまっぷ 歌詞無料検索
遠野篤京「Bloody Dance」:
Bloody Dance 遠野篤京 歌詞情報 - うたまっぷ 歌詞無料検索
そして、ぜひ曲を聞きながら、遠野の方はGolden age188〜191、種ヶ島の方はGolden age192〜 194、そして2人共通してGolden age233・241を読んでください。
漫画『新テニスの王子様』は少年ジャンプ+(アプリ版/ブラウザ版有り)で1話¥30〜読むことができます。
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僕の青春を不二周助に捧ぐ
これは、2001年に不二周助に魅せられ、それから18年強の間、不二周助に対して向けてきた感情を煮詰めてドロドロにしてしまった、もうどうしようにもまとめられなくなってしまった、私の不二周助への執着と願望と感謝を綴ろうとした文章である。
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不二周助に惹かれた理由はなんとなく覚えている。
私が『テニスの王子様』を読み始めたのは単行本10巻が発売された頃だった。
聖ルドルフとの団体戦が終わり、校内練習試合の越前リョーマvs不二周助が掲載されている巻だ。
私にとって聖ルドルフ戦〜校内vsリョーマの不二周助があまりに印象的だったのである。
その直後に描かれる態とスリルを求める試合展開にもっていくバケモノ感。
圧倒的に格好良くて、私のヒーローになった。
まず、私が不二周助に惹きつけられて止まない魅力は数々あるのだけれども、その中から3点だけ語ります。
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運動能力
身長167cm体重53kg靴のサイズ25cmという小柄な身体。10.5巻掲載のスポーツテストの結果好評において「しなやかで弾力性の高い筋肉を持っている」と評された筋力。筋肉トレーニングではなくスポーツで鍛えられた肉体。そのしなやかな筋肉が可能にする三種の返し球をはじめとした華麗なカウンターの数々。そこに美しさを感じずに何を見出そうか。不二周助の肉体は神秘。
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精神的葛藤
本気を出すことや自分の限界を知ることへの恐怖、自分の存在意義を他人の中に拠り所を求めようとする不安定な自信、高みを目指さずにいられない自分を持て余してしまう葛藤、それらを乗り越えようと悩みもがき、一つずつのりこえていく姿に胸が震える。それでもドキドキワクワク胸が高鳴る瞬間が楽しくて、その感情に出会えるテニスが好きで、自分の大切な人が傷つけられると過激になる純粋さ。現実世界で不二周助と同じようにアイデンティティーや意志薄弱で悩む時、もがく彼の姿はとても身近で、それでいて進化し続けるテニスをする姿を見れば励まされる。
熱さと優しさと怖さと脆さが同居している不安定さと心の豊かさが不二周助という人間の深さであり、最大の魅力。
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声
透明感がありつつも憂いを秘めている二面性を感じさせる声が最高にセクシーでかっこよくて大好き。甲斐田ゆき氏の美少年ボイスがこの世で最も似合う男。不二周助の声帯が甲斐田ゆき氏であることに何度感謝したことかしれない。あの声が不二周助の全てを表現している。巧いテニスも、穏やかさと激情の二面性も、不安定な思春期の少年らしさも、家族友人想いの優しさも、不二周助の全てを内包した声に魅せられてたまらない。
私が不二周助の声は甲斐田ゆきしかいない、と思っているのは声質もさることながら、不二周助のキャラクター解釈が完璧に合うからなのですね。
あのアニプリにおいて不二周助をBL的視点抜きで完璧に捉えている。新テニの手塚の幻影との試合でさえもBL視点抜きで捉えてみせているのは流石としか言いようがない。そこが大好き。
甲斐田さんの不二周助解釈のおかげで精神的に不安定さが残る他のキャラクターとは一線を画す”天才不二周助"が成り立っていると思っている。
確か昔のラジプリで「不二周助は自分の持った技術に精神の成長が追いついておらず、他人(自分の外)に精神的拠り所を求めないと自分の持った力を発揮できない部分があり、そこが彼の弱さであり成長克服すべきポイントである」といったようなことを仰っており、完璧だ…と思った記憶がある。
私自身、腐女子だし二次創作物を楽しむのは好きだし楽しんでいるけど、公式が全面に出してくると「なんか違う…」となるタイプなので、cv.甲斐田ゆきの不二周助は本当に素晴らしいし、至高。
他にも魅力を感じることはたくさんあったけれども、不二周助が不二周助であること、1人の中学3年生男子として、テニスの王子様として存在していることが一番の魅力なのだ。
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次に、不二周助という人物の精神性にフォーカスして考察じみたことをしたい。
『テニスの王子様』で心的外傷PTSDトラウマイップスに直面し克服する存在といえば手塚国光に他ならないのだが、物語以前からの心的な悲しみに直面しているのが不二周助である。
彼の悲しみとそれに伴う精神的な枷は、『新テニスの王子様』の段階でようやく外れることとなる。
『新テニスの王子様』で不二周助はもう一段階上に到達できた。作品中の言葉をそのまま使えば「不二周助は生まれ変わ」った(Golden age142)。
この変化を象徴する描写として団体戦における第一試合の勝敗を見たい。
『テニスの王子様』において不二周助は団体戦の第一試合にオーダーされた試合はダブルス・シングルス全て負けを喫している。
第一試合だったvs不動峰D2は棄権負け、vs山吹D2は3-6、vs四天宝寺S3は6-7と全て敗北している。
第一試合の勝率0%なのだ。
それが『新テニスの王子様』になり、15巻のプレW杯エキシビションマッチvsドイツ戦でダブルスとはいえ初戦第一試合で勝利を収める。
不二周助は自分のために力を発揮できないとも言われている。
自分に近しい人間の負けや不利益があった時に勝ち試合となっている試合が多い。
代表的なのは聖ルドルフ戦S2vs観月はじめの一試合だが、他にも関東大会氷帝戦S2vs芥川慈郎、関東大会立海戦S2vs切原赤也、比嘉戦D2vs平古場凛・知念寛ペアなども自分ではない誰かの敗北や屈辱を晴らすかのような戦いぶりが見られる。
本気で戦うことができない告白があった関東立海S2と四天宝寺S3。
それら全ての試合を踏まえた上での『テニスの王子様』全国決勝立海戦S2vs仁王雅治、すなわち不二周助の本編での最終試合で、ようやく不二周助は「過去に自分が負けた相手へのリベンジ」という自分自身の案件を含んだ勝ち試合を見せた。
その試合で顧問の竜崎スミレから不二周助について語られた言葉を見返すと、
「準決勝のあの敗戦が…不二を更なる高みへ押し上げおった」
「不二(やつ)め一試合で…手塚越えと前回のリベンジ双方ともやりおった」
などと言われている。
「どちらが上か決着がついてしまうのが怖かったから」
と不二周助自身が独白している。
不二周助はトップとしてチームを背負うほどの覚悟は持っていないが、負けず嫌いだ。誰に対しても自分の優位は覚えていなくとも劣位は認めていない、という一面が伺えるだろう。
不二周助に問われているのは「テニスのためにテニスができるか」どうかへの問いへの答えのみではなく、天才、上手い人、技術のある人間がテニスのためにテニスができる様な時にどんな景色をみるようになるのかという答えも見せてくれることを期待したい。
また、手塚国光の救済について考えていた過程で気がついた"不二周助の戦う理由=生きる理由"と"自分の能力を発揮させる仕組み"についても考えたい。
無印『テニスの王子様』で不二周助の戦闘マインドは、その場その場で身近な誰かのために戦うスタイルだった。それが関東立海S2頃に自分が所属するチーム青学のトップである部長:手塚国光に触発されてチームの優勝のために戦うようになる。
無印で青学の優勝後、自分の戦う理由であった手塚国光への擬似的な勝利を経て本人そのものとの対戦を申し出、自らの壁を自らの手で壊そうとする意思表示をして無印は終わる。
新章の『新テニスの王子様』になり、手塚国光自体は青学の柱の枷が外れ、チームのために自己犠牲を働く戦い方から自分のために戦うようになる。手塚の戦闘マインドは「俺は負けない」から「俺は勝つ」へなった。
その時、不二周助は、自らが道標すなわち自分の戦う理由としてきた手塚国光が手塚国光自身のために戦うようになってしまい、自分のために戦うことをしてこなかった不二周助は戦う理由がなくなってしまい、途方にくれてしまう。
Goleden age143〜144で描かれた合宿所でのテニスを辞めるための私的試合で見た幻影の手塚国光に言われた「道標は自分で作るんだ」。
プレイスタイルがカウンターという相手の打球に反応に特化するではなく、風の攻撃技(クリティカル・ウィンド)を身に付け攻撃的な自分から攻めるスタイルに変わる=不二周助は生まれ変わる。
不二周助は誰かの中に戦う理由を見出していたのを、自分自身が気がつき、自分の呪いを解いたので、今度は手塚国光の"中"に理由を見出すのではなく、手塚国光が"そうしたように"同じ方法をとることにしたのが新テニの不二周助の姿である。
誰かが強くなることで自分も強くなる。
その姿を自分事として引き寄せる。
新テニのドラマはこのスタイルで生まれる。
『新テニスの王子様』は『テニスの王子様』のように誰か(越前リョーマ)に負けなくても、触発という形で登場人物が強くなるのが特徴だろう。
敗北による救済はない。
真髄はプレW杯vsドイツ戦3試合目の徳川幸村ダブルスの試合だろう。
越前リョーマに触発される徳川カズヤと徳川カズヤに触発される幸村精市の姿。
これが後のW杯での中学生を導く高校生という形式につながっていく。
強くなることを正義とする。
不二周助は姉のテニスクラブについて行って始めたテニスに天賦の際があったことで弟に反感を買うようになってしまったけれど、弟が越前リョーマに敗北したことでもっと広い世界に目を向けてくれたことで弟が兄への確執から開放された。
次は不二周助自身が何かを理由に自分のために戦うのを避けずに向き合うことだ。
何かを理由に自分を諦めることなく、戦うように問うのはテニプリの真髄だ。
「どれくらい眠れば一人で強くなれるのだろう
苦しみも悲しみも本当の心の姿」
不二周助がKIMERUのYou got game?をカバーした時は、不二周助のキャラクターとその歌詞とのリンクに痺れた。2番の歌詞はその苦悩ともがく姿そのままだと思う。
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以下はただの自分語りです。
自分のコンプレックスの克服が自分一人でできなかったどうしようもない話。
私は、小中学生の頃、それなりに真剣に演劇をやっていた。
部活レベルをどれくらい真剣と捉えるかは社会的なモノサシで計れば大したことがない気もするけれど、自分の中では真剣にやっていたのだ。
私は自分の演技力には自信があった。
役者をやれば誰にも負けないと思っていた。自分より演技の上手な同年代なんていないと思っていた。それが事実かどうかではなく、そのくらいの入れ込みで演劇を役者をしていた。
脚本を読めば自分がハマる役は分かったし、オーディションは基本的に第一希望で通った。
誰にも負けない、ものだった。
高校進学を機に演劇をやめたのは、もうこれ以上先が無いとふと感じたからだ。
それは、その時にの自分に見えていた役者の世界が容姿を磨くことが必要だったり、力を賭したわりには儲けることができなかったり、そういう未来があまり見えない世界に見えていたからでもあり、そんな世界をこれ以上突き詰めるのであれば、他のことをしよう。勉強もしたい、運動もしたい、そう思って自分が演じる世界とは決別する進路を選んだ15歳だった。
それが良かったのか悪かったのかは今でも分からないし、判断したくないのだけれども、確実に認識している悪影響が1つあった。
演劇が観られなくなってしまった。
正確に形容すると"ハイクオリティの演劇作品以外は舞台映像含めて楽しめなくなってしまった"。
舞台を観に行っても、ドラマを観ても、映画を観ても、アニメを観ても、演技が粗いとダメだしをしたくなってしまった。
さらにそれが容姿の優れた演技下手な演者だと最悪だ。
やはり演劇の世界は容姿で商売するのだ、などという真っ黒な感情で気持ちが支配されてしまう。
加えて照明や音響も気になる作品はもう一切受け付けない。
嫉妬のどす黒い感情を抜きに演劇鑑賞ができなくなった。
何も気にならない一部の作品しか触れられなくなった。
そんな状態で過ごすこと10年以上、今、ようやく他の演劇作品も観てみようと気持ちが緩和してきている。
きっかけはテニミュだ。
テニミュが演劇としてクオリティが高いとは正直思っていない。
それでも、気持ち悪くなることなく演劇を観られるようになった。
アンケートを書かせてくれることも大きいのかもしれない。
3rd season最後の全国大会青学vs立海後編を観劇した時も、嫉妬心からくるイライラを覚えないわけではないけれど、未熟な舞台や演劇作品に対して感情が穏やかになり少しずつ観られるようになった。
慣れもあるし、それはそれでそういう楽しみ方があるんだなぁ、と思うようになった。
自分が少し大人になったのかもしれない。あの時演劇を辞めた自分をようやく受け入れることができるようになってきたのかもしれない。
そのきっかけをくれたテニミュには感謝している。
私の最愛キャラクターはテニプリに初めて触れた時からずっと変わらず不二周助だった。
恋慕ではなく憧憬に近かった。
不二周助の中に自分を観ていた。
彼の悩みが手に取るように分かった。
彼のように天才と呼ばれ、ふるまいたかった。
不二周助にはいつでも私の悩みを共有してほしかったし、その苦しみを打破するべく戦ってほしかった。その姿を見て慰められていた。
それが時が経つにつれて不二周助以外のキャラクターも好きになった。
でも、彼のように自己投影をして好きになったキャラクターはいない。
18年が経った今、もうキャラクターに自己投影はできなくなってきた。
自分が大人になったのかもしれない。
純粋にかっこいいから好きだと思うようになった。
自分のメンタルが変わって好きな王子様も変わる。
もしかしたら完全にテニミュを楽しめるようになる頃には私の中の不二周助は消えてなくなるかもしれない。
演劇を楽しく観たくても観られなかった日々と別れる日がくるのかもしれない。
それは自分の未練を捨てることと同意義かもしれない。
その日がくるのは寂しくもある。
それでも大好きだった演劇をまた楽しく観られるのであれば楽しみでもある。
たとえそれが過去の自分との決別になるとしても。
そうやって終わったところから始まるものもある。
3rd season全国氷帝の凱旋公演を観た時の感動は計り知れない。
自分が演劇をしていたことを否定しなくてもいいのだな、と思えて本当に感動してしまった。
大阪公演で観た時に悲しみと怒りが綯い交ぜになったような気持ちで結構文字通りの死ぬ気でアンケートを書いてなんとか凱旋公演の前までには届くように、と送った。
セリフも歌詞も演技も変わっていた。全ていい方向に変わった。
最高だった。
素晴らしかった。
そして、私の意見が取り入れられたような感覚になった。
本当に送ったアンケートが活かされたのかどうかは大切ではないのだ。
この感覚を覚えることができたことが大切だった。
中学生で演劇をやめてしまったことに、その時は何も思っておらず、すっきりと次の興味の対象に移行していた。
けれど、学生生活が終わった頃にどっと後悔が押し寄せてきて、高校演劇も大学演劇も知らない自分はこれから先に観るどんなお芝居を観て違和感を覚えても意見を述べる資格は無いのではないだろうか、と一人で打ちひしがれていた。
その気持ちがすべて救われた気がした。
小中学生だった自分が演劇に全力だったこと、真剣だったことを肯定しても良いのだと言われているようだった。
テニスの王子様が大切にされていることと、真剣にテニスの王子様のストーリーを作っていることが伝わったのと同時に、自分の過去まで肯定されたようだった。
あんな多幸感は滅多に本当に一生に一度味わえるかどうかの幸せだった。
テニスの王子様の世界ではテニスでの悔しさはテニスにしか晴らせないように、我々の世界でもちゃんとそのものに向き合うことでしか得られない克服がある。
「テニスのためにテニスができるか」それは「生きるために生きられるか」と、我々読者に人間の根源的な問いを問いかけている。
不二周助とお別れする日は、そのまま私自分の過去を清算することができた日になるのかもしれない。
今度は真正面から、自分の弱さの投影じゃなくて 不二周助に会いたい。
不二周助自身も『テニスの王子様』『新テニスの王子様』の世界で成長している。
今はGolden age207で語られたように、秘められていた「自らの手で壁をブチ壊していく程の心の強さ」が発現し、「己の中の呪縛から解き放たれた」"天才・不二周助"だ。
===
最後に。
18年が経って大人になった私は、不二周助には激烈な感情は抱かなくなった。
思春期の不安定さ青さが、私を不二周助に惹き付けた。
不二周助は私の青春だ。
不二周助の心の葛藤に自分の葛藤を重ねた日々があった。
天才と呼ばれる不二周助に憧れを抱いた日々があった。
道が別れたとしても不二周助に惹き付けられた若かった日々があった。その事実は変わらない。
これを公開するのは、今日しかない。そう思った。
たとえ公開する文章がどんなにまとまっていなくても今日だと思った。
4年に一度の特別な日に生を受けた君へ。
Happy Birthday, Syusuke FUJI.
May the GOD Bress you, forever and ever.
2020/02/29
天衣無縫の極みについて考える_幸村精市とテニス
幸村精市は天衣無縫の極みの文脈のキャラクターではないのではないか。
天衣無縫は誰もが持ってるので、"天衣無縫の極みの文脈ではない"というと語弊があるかもしれない。
本稿は以前にこのブログにアップした天衣無縫の極みについて考える_人生の辿り着くべき場所への到達 - 超解釈テニスの王子様 人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)
天衣無縫の極みについて考える_人生の辿り着くべき場所への到達
から更に考えたこと、及び、考えた結果、違う見解をもった点について記す。
幸村精市は自らの意思によるテニスの喪失を経験していないのではないか。
突然の難病による外的要因での喪失は経験しているが、
Genius374 最終決戦!王子様VS神の子④での入院時の回想内での発言「テニスの話はしないでくれと言っているんだ」
これはテニスを嫌いになったのではなく、ネットスラングで言うところのいわゆるテニスに対するクソデカ感情というやつではないだろうか。
テニスができる奴が羨ましい、嫉妬。
自分もできることならもっとテニスがしたい、焦燥。
テニスが無理と言われたことへの悲しみ、悲壮。
そいういう感情が内混ぜになって渦巻いた状態であって、決してテニスそのものが嫌いになったり、テニスをもうやりたくない、テニスをするのが苦しい、そんな思いになった訳ではないのではないだろうか。
幸村精市はテニスを諦めないのである。
テニスの王子様において、このあたりの厳密なニュアンスや定義が難しい。
少し話が逸れるが、竜崎桜乃の越前リョーマへの感情も作者の許斐剛曰く「越前リョーマのテニスが好き」(テニスの王子様 20周年アニバーサリーブック TENIPURI PARTY掲載 オールテニプリSP対談①皆川純子×許斐剛より)であって、リョーマが好きとは明言されてはいない。
このあたりの微妙なニュアンスや定義の隙間は、テニスの王子様が漫画という絵と文字をコマ割りで表現する手法で語られるストーリーである以上、仕方がないのだけども。
話を幸村精市の天衣無縫の極みに戻す。
新テニでイップスに陥った幸村精市も、誰もがテニスが嫌いになる状況で〜とはモノローグしているもののいやに分析的で、読み方によっては前向きにイップスからの回復方法を考えることに、つまり、テニスを継続する意思があると見える。
イップスの克服=天衣無縫の極みにならなかったのは、幸村精市が獲得からの喪失からの再獲得プロセスを辿ったにもかかわらず天衣無縫の極みに辿りつかなかった例外なのではなく、そもそも再獲得プロセス自体を辿っていない。
獲得→喪失→再獲得プロセスについては、天衣無縫の極みの扉を開くためにはGenius378最終決戦!王子様VS神の子⑧での越前南次郎の発言「いつしか どいつもこいつも あん時の心を忘れちまう」からもテニスを楽しいと思うようになった後にその気持ちを忘れ、そして、思い出す道順を経ることが伺えるだろう。
天衣無縫の極みの到達への喪失には自分の意思、精神の方向性が作用している必要があるのではないだろうか。
『テニスの王子様』『新テニスの王子様』の作中で越前南次郎を除く天衣無縫の極みの扉を開いた人物たちの様子を鑑みれば、
越前リョーマは「テニスってこんなに辛かったっけ」(Genius376最終決戦!王子様VS神の子⑥)
手塚国光「そんな部活なら…オレ辞めます」(Genius146事実発覚!)(※ テニスそのもの自体ではないので論拠としては弱いが自覚的なテニスへの嫌悪感として読み取る。)
遠山金太郎は鬼十次郎による状態分析の「魂(ハート)の火も燃え尽きちまったかよ」(Golden age98更なる高みを求めて)
と、物理的な結果のみならず精神的な方向性が喪失に関わっている。
無印『テニスの王子様』は“テニスは人生”の全体で一つの大きな話である一方で、『新テニスの王子様』は“各人の人生でテニスをする”というそれぞれのストーリーが集まった話だと読み取っている。
また無印『テニスの王子様』の答えは「テニスって楽しいじゃん」であって天衣無縫の極みそのものではないと解釈している派でもある。
天衣無縫の極みはテニスが楽しくて夢中になっていたころの気持ちを思い出した結果として体現された状態であって、天衣無縫の極みが至高なのではなく、物語の結論として導くのであれば、そこにたどり着く心境の「テニスって楽しいじゃん」の方なのだと思う。
これもテニスの王子様の言葉の微妙なニュアンスや定義の隙間による解釈の揺らぎがある部分の一つだとは思うが。
さて、冒頭の幸村精市はそもそも天衣無縫の極みとは違う文脈で強くなる方向のキャラクターだったのではないか。の問いに戻ろう。
『新テニスの王子様』は『テニスの王子様』へのアンチテーゼとしても作用しうるだろう。
人には人の天衣無縫、とまでは言わないが、矜恃の光の精神派生のように天衣無縫の極みのその先があったり、『闇(ダークサイド)』や各人の海賊・阿修羅・鬼神・侍・騎士のようなスタンドなど天衣無縫の極み以外の強さが体現した状態があったりする。
『テニスの王子様』の価値観がたどり着いた先には必ずその先がある。
幸村精市もそちら側の人間であり、テニスの王子様の文脈を引き継ぐ人物ではない。
まとめると、幸村精市はテニスそのものに対してはネガティブな感情を抱いた訳ではないのではないだろうか。
また、天衣無縫の極みへの到達には喪失からの再獲得プロセスがあるとしていたが、その喪失は自らの意思による喪失である必要性があるのではないか。と現時点では考えるに至っている。
スポーツ漫画は現実スポーツの前座ではない
『テニスの王子様』『新テニスの王子様』を考察する面白さは、緻密に構築された世界観の秘密を解き明かすような類のものではない。
異世界ファンタジーやサスペンス・推理物の考察とは異なり、作品全体を通して発するメッセージやエネルギーが何であるかを掴み取ろうとするための考察だ。
『テニスの王子様』『新テニスの王子様』の読解考察はスポーツの解説に近い。
私は、許斐剛はスポーツ漫画を描くのに適した漫画家なのではないだろうか、と考えている。
許斐剛という漫画家が好んでとる”サプライズ”という手法が現実世界におけるスポーツの予測はできるが先の読めない、結果を読み解くことができない、何が起こるかわからない様に似ている。
“完全には理解できない”というのもまた現実のスポーツでも稀に起こりうるスーパープレーのような超次元のレベルのプレイを模している部分かもしれない。
理解できないようなことが起きるというまた現実の不可思議な、超人的な側面を演出できているのかもしれない。
つまり、『テニスの王子様』『新テニスの王子様』で起きていることは、一般常識や物理法則を逸脱している、常人には理解できない、理解する必要もない、それで良いのかもしれない。
無印『テニスの王子様』関東大会 青学vs氷帝 S1手塚国光vs跡部景吾の試合中に出てくる言葉『この試合いつまでも見ていたいな』(単行本18巻 Genius153 まぼろし より)というのは試合内容が良くてずっと見ていたいとかそんな単純な感情ではない。決着がついてほしくない。どちらかが敗者になるのを見たくない。それならばいっそ永遠に続いて欲しい。という感情があるということは2019年全英オープン決勝戦ロジャー・フェデラーvsノバグ・ジョコビッチを観ていて私の中に湧いた感情だ。
ロジャー・フェデラーの言葉に「テニスに引き分けはない。必ずどちらかが敗者になり勝者になる。」がある。
こういうことに気がつくのはどうしたって現実のスポーツだ。
許斐剛はきっと現実のスポーツでこの感情を味わったことがあるのではないだろうか。
だから「どちらも勝たせたかった」(BEST GAMES!!手塚vs跡部 パンフレットより引用)と15年以上経っても言えるこの手塚vs跡部の試合の観客のこぼす心情としてこの言葉を持ってきたのではないだろうか。
『テニスの王子様』『新テニスの王子様』の根底にあるのはいつだって現実世界のスポーツへ対する圧倒的なリスペクトだ。
その一方で、『テニスの王子様』『新テニスの王子様』には、ファンタジーである漫画が現実のスポーツには無い魅力を提供するためにできることは何か、現実のスポーツとは違う方法でアプローチするしかないというある種の危機感があるように見受けられる。
『テニスの王子様』はともすれば、主人公が勝利するという結果ありきの決まり定まった先が読める王道少年漫画だと思われがちだ。
だがその実情は異なる。
上述のように、”先の見えなさ”を抱えた現実のスポーツに対抗するべく練られたスポーツを題材に取り扱う新機軸の少年漫画だ。
確かに結果的には主人公である越前リョーマは必ず勝負に勝つ。
勝敗ではないところでその予測不可能性を提示しているにすぎない。
それは、おそらく、結果の予測できなさでは現実のスポーツを超えることができないからなのではないだろうか。
結果ではなく、現実のスポーツがどうやっても手を出せない部分、想像力がポイントとなる部分で現実のスポーツに対抗するような娯楽エンターテインメントとして存在するべく工夫されている。
テニスの王子様が、テニスをしない層にアプローチ・ヒットしているのはそのマインドが寄与する部分も大きいだろう。
スポーツ漫画らしい部分は、偶然性、次に戦ったときはどちらが勝つかわからない、さらには、スポーツである以上当たり前だが、次回の対戦の可能性があるという部分だろう。バトル漫画に次回はない。再戦というのは稀な話だ。
その一方でバトル漫画っぽい主人公無双やヒーローによる勧善懲悪ストーリーがある。
『テニスの王子様』の先人である週刊少年ジャンプ漫画である『ドラゴンボール』は再戦を可能にした仕組みにおいてスポーツ漫画の要素を取り入れたバトル漫画ではないかと考えているが、そうであるとすると『テニスの王子様』はバトル漫画要素を取り込んだスポーツ漫画、スポーツ漫画におけるドラゴンボールといえるのではないだろうか。
余談だが、スポーツ漫画を基にしたバトル漫画の前例はおそらく『キャプテン翼』が考えられるのではないだろうか。
『テニスの王子様』は、テニスを描写する漫画ではなく、テニスを介して表現する漫画なのではないだろうか。
バトル漫画の特徴としては主人公無双(主人公が敗北=死となりほぼ物語が終わってしまうので)、バトル漫画は静止画密接に絡んでいるので、人生に効く、普遍的な真理を語る。人生の悲哀と希望が描かれている。
テニスの王子様に人生に効く名言が多いのは、スポーツ漫画版のドラゴンボールだからであると考えられるのではないか。
書籍『テニプリパーティー』の置鮎龍太郎氏のメッセージ「人生を支える深い言葉を与えてくれた事。『油断せずに行こう』これがあればこの先も生きていけます」が顕著だろう。
また、『テニスの王子様』においては、それぞれのキャラクターにとっての最強ライバルと第三者的俯瞰視点における最強キャラクターが異なる。
この点においてはスポーツ漫画の特性を上手に活用しているといえるだろう。
そのため、勝負に負けても最強で居続ける一見矛盾してしまうような現象がおこる。
これが顕著なのが手塚国光だ。
バトル漫画では敗北=死すなわちストーリーからの実質的な退場になってしまうが、スポーツ漫画では勝負に負けてもストーリーから退場する必要がなく、また、リベンジの機会が与えられる可能性がある。
この人間模様の複雑さがまたストーリーに深みを与える。
いわば、キャラクター漫画としてバトル漫画とスポーツ漫画のいいとこ取りを成し遂げた、むしろ、バトル漫画とスポーツ漫画のハイブリッドを完成させるためにキャラクター漫画となっているともいえると考えている。
『テニスの王子様』はテニス経験者には不評だという説がある。
作中のテニスが物理法則の面において現実的ではないことが理由だという。
感情移入がしづらいのだろう。
テニス見経験者の方がテニスの王子様にはまりやすいらしい。
それは、テニスの王子様はみんなの物語だからなのではないだろうか。
現代を生きる人が自分に引き付けて読むことができる人間ドラマの物語。
テニスの王子様は生まれ持った血や才能でテニスに挑むスタートラインに差をつけない。挑むことは自由だ。誰でも挑戦することができる。
テニスコートとテニスラケットとテニスボールを使った生命の物語、バトル漫画といえないだろうか。
ジャンプGIGA2017年vol.1掲載の対談で許斐剛が言う"筋書きのないスポーツを観るワクワク感に漫画が勝つのは難しい。フィクションのシナリオより、ノンフィクションの方が時におもしろかったりする" という感覚は真理だと思う。
現実のスポーツをスポーツと漫画を同じ土俵で考えるな、というのも分からなくはないが、この2つをスポーツ観戦と漫画としてエンターテインメント・娯楽と捉えれば同じジャンルのものだと考えられる。
漫画が娯楽としてスポーツ観戦に勝てないということは、娯楽として選ばれなくなるということだ。
漫画が選ばれ続ける、読まれ続けるためにはノンフィクションのシナリオを勝負ができなくてはならない。
生命を賭けた戦いを繰り広げるバトル漫画は現実には決して起こり得ないフィクションエンターテインメントとして現実的な娯楽と娯楽として選ばれる勝負ができるかもしれない。
一般人が普通に暮らす中では目撃することが叶わない世界をフィクションで見せる漫画はそれだけで現実の体感を伴う娯楽とは一線を画することができるだろう。
ではスポーツ漫画はどうだ。
スポーツ漫画の役割は現実のスポーツの魅力を伝えるモノなのだろうか。
ノンフィクションのドラマへ人々の目を覚ますためのガイドフィクションなのだろうか。
スポーツ観戦をすれば漫画以上のドラマが待ち受けている現実のスポーツに目を開かせる伝道師にすぎないのだろうか。
我々、読者/受取手/コンテンツ消費者は、スポーツ漫画を"どれだけその題材スポーツを盛り上げたか/魅力を伝えることができたか"で評価してはいないだろうか。無意識のうちに。
題材スポーツの先、スポーツを超えたメッセージを読み取ろうとしているだろうか。また、その部分を見つめようとしているだろうか。
スポーツ漫画がスポーツ漫画のままで娯楽として選ばれ続ける方法。『テニスの王子様』『新テニスの王子様』は、現実に観ることができてしまう世界を取り扱うフィクションが、そのままで現実とエンターテインメント性で戦っていくための一つの答えなのかもしれない。
平等院鳳凰は"頭(かしら)"である
Twitterで呟こうとしたら3,000字近くにまで及んでしまったのでブログにも載せることにしました。
Twitterは140字なのにね。
何考えてんだ、お前。っていう。
そんなわけで考証とかあんまりしていないし、Twitterばりの砕け口調です。
いつもブログ書く時に(実は)意識している論文調ではないです。
あとPrivatterにアップした文章からやっぱり少し手を加えています。
読み返すほどに書きたいことが増える。テニプリ考察はやっぱり底なし沼。
さて、閑話休題。
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平等院鳳凰という人間的にどうなのレベルの暴力テニスをする人間がトップである理由を考えました。
私、お頭 平等院鳳凰が好きなんです。
新テニを考察しようとするとどうしても平等院鳳凰の分析を避けて通れないよなとかなんとか思っているので平等院鳳凰氏については定期的に思いを馳せています。
選抜合宿編あたりは(こんな倫理観崩壊したみたいな奴をトップに据えて大丈夫かよ)と思っていたけど、色々ここまで見てきて考えると「トップはこの人しかいないわ」と思う様になりました。
私の問いは「平等院鳳凰は本当にテニスで一番強いのか?」。
それは選抜合宿で高校1年生に鬼に敗北しているところからくる疑問なのですが。
平等院鳳凰って負傷していたとはいえ2年前の世界大会でフランス戦でも負けてるし、入れ替え戦でも徳川にあと1ポイントで負けそうなところまで追い込まれているし、以前の世界大会でアマデウスとのシングルスにも多分あれ負けたんでしょう。「一切負ける気がしない」とか強いことを言っているからそう見えないけど、実のところ負け描写が多いキャラだし。
そんな平等院鳳凰氏が現Genius10のNo.1なのはなぜ?となっておりまして、代表選抜合宿は実力社会なので強くなったから、という単純な話だとは思いつつも、精神世界の観点から考えると、はあなるほどトップは平等院がふさわしいよ、と腑に落ちているのです。私の中では今のところ。
テニプリにおけるテニスの強さが精神面の強さに左右しされがちなのは、これは無印テニスの初期中の初期から変わらないテニプリ世界の基準の一つだと思います。山吹戦S2越前vs亜久津では明確に言及されているし。
さて、で、平等院鳳凰さんのことですが、この人の精神の強さは"人間として強い "という部分なんじゃないかと思っているわけです。私が好きなのはこの部分。
"人間として"強いので、人間やめそうな人を人間で止まらせておくことができる。格上なるは、他人を身内に引き摺り込むことまでもできる人なんじゃないかと。
ちょっと脱線しますが、"人間止めるレベルの人"(格好良くいうと"人ならざるものになろうとする人")を"人間"でいさせられるのは他人にしかできません。
人間をやめた人は人型を取っているヒトという生命体であり、人間ではない。人ならざるものになろうとしている人は得てして孤独になる。人と人の間に生きる"人間"ではなくなってしまう。しかも人ならざるものの領域に手を伸ばすその人本人はそれが意識的であれ無意識であれ積極的に孤独を選びとってしまうものです。
だから、人間やめるレベルの高みへ登る人を"人間"でいさせるには、その人を孤独にならないようにしなくてはならない。
その方法は、人間やめるレベルの人と同じレベルに行くか、人間やめてしまった人を変わらずに人間として接するか、だと思うのです。
平等院鳳凰氏はそのどちらの手法も取ることができる。鬼や亜久津との関わり方を見ていてそう感じています。
そして、さらに、これが一番重要なんだと思うのだけども、平等院さんは自身が孤独にならなず人間の形をとり続けることができる。
人間を保ちながら強くいられるのは特殊能力です。
孤独を選びとらずに高みに手を伸ばすことができる人などそうそういない。
それができるのが平等院鳳凰という人間なのだと思うのです。
テニプリが新テニになり、越前リョーマ以外のテニス描写にもスタンドが現れる様になったけど、平等院鳳凰のスタンドは海賊です。
鬼十次郎は鬼神、徳川カズヤは阿修羅です。
平等院はスタンドが神様の類ではなく、人間社会の姿をとっているのですよ。
まあ、実際に描かれた海賊は白骨化していたので、本当に人間かよ、とも思うけど。
平等院鳳凰という人間は没我的でありながら自意識と組織目標に乖離のない人物であり、自らの力は日本チームの勝利のために用いることこそが自分の願いである。
平等院はチームの勝利のために生きているから彼はどこまで強くなったとしてもチームという他人ありきの発想なので決して孤独にならない。
その芯が決して揺らがない限り、彼は人間を自らやめることはない。その強さがある。
平等院鳳凰は"人間として"強い。
そういう点において私、本当に、平等院鳳凰お頭が好きなんです。
頭領たる器の人間だなと思うんですわ。
比較することでもないとは思うけども、鬼とか徳川はNo.1にはなれるかもしれないけれど"頭"にはなれない。
平等院は逆で、No.1でなくても集団を率いる頭(まあ今No.1だけど)ではある。
それでいうとGenius10はこの"頭性"みたいな順番に並んでいるようにも見えるなぁとか思っていまして。
平等院に一番近いのはNo.2の種ヶ島。
"人間やめそうな他人の手を引ける人"であるかどうか。
Genius10の中でそれができるのはNo.1&2の2人に強く感じる。
他人の手を強く引いてしまうことができる人なのですよ。
人間やめるレベルの高みへ登ろうとする人を人間でいさせられる強さで他人に関わることができる。
気持ちの持ち様ではなく、現れる結果が他人のためになる風に動くことができてしまう人々。
人たらし的な側面がある。
求心力という点において組織のトップたる人物といわれて納得できる。
種ヶ島修二にもこういう"結果的な人たらし"要素を感じられるなぁと思っています。
でもね、やっぱりNo.1の平等院鳳凰は、この
・人間やめそうな人を人間で止まらせておくことができる
・他人の手を強く引いてしまえる
・自ら人間をやめることはない
の3点を、意識せずに当たり前のこととしてやっているあたり、生まれながらのお頭の器なのだと思うわけです。
やっぱりこの人がNo.1だぜお頭。お前たちのリーダーだよ。
まあ相手をボッコボコにマジで殺そうとするテニススタイルをとる神経はよく分からないけど。
擁護するように見ると、あれは平等院なりの選別試験的なものなのかもしれないと今のところは思っている。懐に入れるべき相手かどうかを見極めている。死ぬほど不器用だな、おい。
私は平等院の日々が報われる日がきたらいいな、と思っているけれど、多分、彼は自分自身が報われようなど1mmも思っていないだろうあたりがやっぱり好きだと思う。
それはもちろん日本代表が世界大会で優勝する勝利を勝ち獲りたいとは思っているだろうけれども、平等院自身は今までの自分の日々が報われたいからその日が来てほしい、という意識はきっと無いんだろうな。
本当に純粋に日本テニス界を世界の頂点へ導きたいだけ。
すごい人だ。真似しようと思ってできることじゃない。
あと平等院鳳凰には自己犠牲の悲壮感みたいなのが全然ないあたりも良い。
覇王の安心感がある。
自分を慕うものに自らの身を案じさせない領域まで強くなってくれている安心感たるや。
私もお頭って呼びたい。
そういう部分も含めて彼は頭領の器を持って生まれてきた人物であり、U-17JAPANチームは彼に統率してほしいと思うよ。
最後に脱線するけど、次世代Golden ageの話をすると、現行中学3年生キャラクターでテニススタイルが一番平等院に近い人物は幸村精市だと思いますが、自らが強くなる方法に孤独を選ばない点においては跡部景吾に信頼をおくので、中学生チームのリーダーが跡部なのはやっぱりこの自分とチームとの関係というか意識の持ち方が新テニの価値観において組織のトップに必要な要素だと判断されている部分なのではないかな、なんて思うわけです。
新テニ読みたい。日本チームに勝ってほしい。
平等院鳳凰よ、導いてくれ。期待を重圧になど微塵も感じずに前を見据えていてほしい。
思い出せ、越前 そして俺たちも、思い出せ
原作漫画への多大なる信仰とアニメ声優の声を聞きすぎた影響で長年、ミュージカル『テニスの王子様』(通称:テニミュ)の観劇を避けてきたが、社会人生活も3年目となった夏、収入にも困らなくなったこともあり、ようやくテニミュの観劇を開始した。2017年8月8日3rd season関東大会決勝 青学vs立海公演のことだ。
通常テニミュで感じたことは観劇者用アンケートに全て記述している。
劇場で書ききれなかった場合は持ち帰り、後日、郵送する。
それでも、この件はどうしても、どうしても、アンケートではなくブログに書きたくなり、この場で記す。
2019年9月29日に大千秋楽を迎えた3rd season全国大会 青学vs立海 前編。
その本編ラストシーンについて、である。
厳密に言えば、四天宝寺による『うちらのハートはパーカッション』の前部分、『思い出せ、越前!』『思い出せ、越前!2』だ。
記憶喪失になった主人公:越前リョーマの失われた記憶を桃城武が思い出させてやろうとテニスをするところに海堂薫と乾貞治が駆けつけ、歌の終わりには青学レギュラー9人が歌唱する。
観劇中に私は自分の体に爪を立てて自らを抱きしめた。
そうしていないと、衝動で叫び出してしまいそうだった。
言葉にならない熱い何かが舞台から襲ってくるようだった。
言語能力では捉えきれないエネルギーの塊のような、焦燥にも似た何かが全身を駆け巡り、生命力がみなぎるような、観劇している自分の身体が命の響きを思い出して暴れだすような感覚に襲われた。
その場面はこうだ。
桃城が歌う
「
思い出せ 越前
お前の人生の目的
思い出せ 越前
お前の生きてる意味
」
そして現れる手塚・河村・不二。
それもそれぞれがここまで最も痛みを伴った試合を彷彿させる姿で現れる。
手塚はvs跡部、河村はvs石田、不二はvs白石を思い出させる様に舞台に出てくる。
さらに間髪入れずに歌は続く。
今度は桃城だけではない。リョーマ以外の青学レギュラーがリョーマに向かって歌い掛ける。
「
テニスは俺らの全てじゃないか
俺たちはテニスで繋がる仲間
テニスにかけたあの日々を
テニスに委ねた熱い命を
思い出せ 越前
」
まるで"人生とはテニスだ"とと訴えるかのような青学の姿に私の精神も身体も震える。
生命の拍動を強く感じるのだ。
生きるとはテニスをすること。テニスをすることは生きることだ。
そうして生きてきた日々が今のお前を作っているんだろう。
それを忘れるな。否定するな。思い出せ。
お前のテニスを人生を思い出せ。
そのテニスで、テニスで勝ちたい、その思いの元に一丸となって戦った日々を思い出せ。
俺たちがテニスをしてきた日々を、テニスで勝つために費やした日々を、生きてきた日々を、そうして培われた絆を、思い出せ。
青学テニス部はテニスが繋いだ、テニスただそれのみで繋がれた仲間じゃないか。
テニス以外のことは何一つ俺たちを繋がない。
だから、テニスを思い出せ。
俺たちもお前とテニスで戦ってきた日々を今、思い出している。
そうだ。
この様子を観て、観客もまた、ここまでの『テニスの王子様』のテニスを、物語を思い出すのだ。
今までの彼らの戦いを、生き様を思い出す。
だから、この「思い出せ、越前」の問いかけにテニスを思い出すのは越前リョーマ一人ではない。
その場にいる青学も、観客も含めた全員が、"テニス"を思い出すのだ。
テニスに捧げた命を、日々を、人生を思い出す。
ここは原作漫画でいえば41巻Genius369 リョーマに繋げ
竜崎スミレ「そう言えば お前達が ピンチの時ー 常にリョーマがきっかけになっりよったわい」
前後のシーンに呼応するのだろう。
それが、この3rd season全国大会 青学vs立海 前編という舞台のクライマックスとして最高潮に盛り上げる。
このミュージカルシーンは「テニスは俺らの全てじゃないか」と青学が全員が歌う姿こそが正に青学だ。
テニス以外では繋がらないのが青学テニス部だ。
それであるが故にテニスは彼らの"全て"になる。
そうだ。『テニスの王子様』の主人公校の青春学園中等部男子テニス部にとってはテニスが全てなのだ。
だから観劇した私は震えた。
『テニスの王子様』が描くテニスと人生の繋がりを、全国優勝を掻っ攫っていく青学の姿を、熱く熱くそして正しく表現してみせる舞台に。
青学は一人一人がそこまで強いキャラクターではない。
一人一人の強さならばもっと強い選手を抱えた学校のテニス部はある。
現に全国大会決勝戦の対戦相手である立海は、手塚が7人+神の子幸村精市だ。
だが、青学は"何やらかすか 分からない"(Genius177窮地 忍足侑士のセリフより)。青学(アイツ)らは 窮地に立たされ ピンチになれば なる程 強く そして試合の中で どいつも進化していきやがる"(同話 向日岳人のセリフより)。
また、手塚が関東大会初戦S1跡部戦で青学テニス部の柱として青学のために身を賭して戦ったように、関東大会決勝S3で乾貞治が青学の団体戦に「でも この試合は 落とすわけにはいかない‼︎」と勝利したように、全国大会準決勝S3で不二周助が「このチームを全国優勝へ それが僕の願い‼︎」と吠えたように、同団体戦S2で河村隆が青学3年生の同期への思いで戦い続けたように、青学はチームでコートに立つ選手を奮い立たせる。
「テニスは俺らの全てじゃないか」と青学全員が円形となり中心にいる青学の仲間である越前リョーマへ訴える姿。
一人一人では相手の方が強いかもしれない。でも青学はコートに立つのは一人でも一人で戦うのではない。
「みんながいたから ここにいる きっと ずっと ともに走ろう」と謳うのはキャラソン青学オールスターズのTricoloreだ。
9人が揃った時のエネルギーがあるから、9人がいるから、強くなる。
それが、ここまでの『テニスの王子様』の物語を紡いできた青学の姿なのである。
さて、物語は後編へ続く。
こうして越前リョーマを通してみんなが全員が思い出した過去の対戦の全て。生きてきた全て。
この今までの『テニスの王子様』の全てを身体に宿した越前リョーマが最終決戦にて対戦する相手は幸村精市だ。
幸村精市はこの全てを"どんな技も 誰の技も 通用しない"という形で否定してみせる。
過去の全否定をしてみせるテニスプレイヤー幸村精市のラスボスとしての相応しさは筆舌に尽くしがたい。
これほどまでに絶望的な方法があるだろうか。
全員が思い出だしてパワーに変えた今までを一人で一蹴する。
その絶望の先の希望に辿り着くのは、その先の、『テニスの王子様』という物語の結末だ。みんなが戦ってきた答えが出る。
原作漫画『テニスの王子様』とミュージカル『テニスの王子様』は似て非なるものだという思いがある。原作漫画テニスの王子様の魅力を舞台作品として魅せるのがミュージカル『テニスの王子様』であろう。
だから、原作漫画とは異なる脚色もある。
一方で、舞台作品、ミュージカルだからこそだせる魅力もある。
原作のメッセージを舞台作品として観客に効果的に訴える。
青学vs立海 後編は2019年12月19日に初日を迎える。
我々も越前リョーマと同じように。
思い出せ、テニスを。
教えてもらおう、テニスを。
一つの答えが出るその瞬間のために。
ミュージカル『テニスの王子様』3rd seasonの物語が完成する刻も近い。