超解釈テニスの王子様  人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

人生への圧倒的肯定を描き出す『テニスの王子様』と、その続編『新テニスの王子様』についての個人的な考察を綴ります。 出版社および原作者など全ての公式とは一切の関係はありません。全ては一読者の勝手で個人的な趣味嗜好です。 Twitterアカウント:@namimashimashi

閑話_テニプリが促した現実理解(後編・原作至上主義と原理主義)

先の記事の流れから至極個人的な話の余談を続けたい。

私自身の"原作至上主義"について。

 

私が初めてテニプリに出会ったのが原作漫画である、ということにも関係するであろうが、とにかく、原作漫画が好きで好きで仕方がない。あまりに好きすぎて、アニメがオリジナルストーリーを作ったり、原作を改変させたりしたことが許せない。正直、2000年頃の地上波放送当時も、アニメ放送が原作の本誌に追いついてしまいそうになった頃「このまま行くと、原作とは違うストーリーのアニメになってしまう。そんなことはあってはならない!」と当時小学生ながら危機感を覚え、焦り、悲しみ、憤った記憶がある。

ただし、キャラクターの声に関してはアニメを愛している。全てのキャラクターの"声"は多大なる感謝をしている。それは、アニメの"声"はアニメこそがオリジナルだからである。

許斐剛先生が越前リョーマとのデュエットで歌っている"フェスティバルは突然に"という歌(キャラクターソング)の歌詞で「あのね キミと出会ったのはね 10数年前の暑い日だったけな」とある。このことから分かるのは、テニス王子様の原作者・許斐先生は、キャラクターには、"生み出している"というよりは"出会って"いるのだろうことが感じ取れる。許斐先生は、木手永四郎役の新垣樽助氏に対して「木手を描く時はいつも台詞が新垣さんの声で聞こえる」と話していたことがある。許斐先生がキャラクターと出会う時はその声まで聞こえた一人の人物として出会っており、アニメ制作にあたって配役された声優はそのキャラクターが元々持っていた声を持つ声優が探し当てられ選ばれているのだ。だから、アニメによって聞こえるようになったキャラクター達の"声"はどこまでもオリジナルであり原点である。

 

正直、オリジナルストーリーを展開し、原作を改変し、作画崩壊するアニメも、演出の都合なのか何なのか、登場するキャラクターやストーリー展開の場面減らしたり、オリジナルと違う声がしたりするミュージカルも、原作至上主義の私にとっては許せなくて、そんなの二次創作と一緒だと思うことがある。(正直に言えば、ミュージカルを観ると、顔面解釈違い、とか、声が全然違う、とか、仕方がないと知りつつも、どうしようもないことを思っています。)

ただし、全ては"原作者・許斐剛監修"の一言により、公式という理解をして、受け入れている。

そのため、原作者監修の無いアニメやミュージカルのグッズやイベントは、テニプリに心酔し信仰心を抱くようになってから10年以上が経つ今でも精神的に受け入れがたいことがある。(もちろん、アニメもキャラソンもミュージカルも日常的に感謝を込めて楽しんでいます。)

こういうことを自覚すると、やっぱり自分は原作至上主義、すなわちテニスの王子様における原理主義者なんだなぁ、と思っている。そして、その原作至上主義過激派モードの自分を自覚する度に、世界の宗教の各宗派における原理主義の主張が何となく理解できる気がするのである。