超解釈テニスの王子様  人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

人生への圧倒的肯定を描き出す『テニスの王子様』と、その続編『新テニスの王子様』についての個人的な考察を綴ります。 出版社および原作者など全ての公式とは一切の関係はありません。全ては一読者の勝手で個人的な趣味嗜好です。 Twitterアカウント:@namimashimashi

キャラクターと原作者との関係性

テニスの王子様』の主人公:越前リョーマと原作者とのデュエットソング「フェスティバルは突然に」(作詞作曲:許斐剛)の歌詞からテニプリキャラクターと原作者との関係性を考えたい。

というのも、テニプリキャラクターは漫画家の手によって"生み出される"というよりは"描き出されている"書き方をされているのである。

 

まず何よりもこの「フェスティバルは突然に」の歌い出し

「あのね キミと出会ったのはね」

と始まる。

許斐剛先生にとってキャラクターは"出会うもの"なのである。

 

出会ったキャラクター達が漫画の中で動き息をする様子を描いているのが『テニスの王子様』『新テニスの王子様』なのである。

何かのインタビューでは、「キャラクターが自分が思っていたのと違う動き方をされて(漫画を描いている内に)想定していた試合の勝ち負けと変わった試合がいくつかある。」と語っている。

 

そして、テニフェス2011では実際に原作者許斐剛先生とアニメシリーズで越前リョーマキャラクターボイスを担う皆川純子氏とがフェスティバルは突然にをパフォーマンスしているが、その中で越前リョーマからの問いかけ

「でもだってその気になれば俺を大人に出来るでしょ」

に対して許斐先生は首を横に振っている。

つまり、そんなこと(越前リョーマを大人にすること)は原作者であってもできないのがテニスの王子様なのである。

 

また、2番の歌詞からは、より実在の人間に近いリアリティーを有している所以と、許斐先生のキャラクターへの愛情を読み取ることもできる。

特に

「キミは孤高の天才だった 〜 でも勝利を共に分かち合う仲間もいなかった」

という部分。

元々は人間味の強い熱血漢の遠山金太郎を主人公にし、そのライバルとして越前リョーマを登場させる想定だったテニスの王子様だが、越前リョーマ遠山金太郎の立ち位置を逆にしたことがリョーマのクールで孤高だった部分を緩和させ、仲間がいてこそ強くいられる人間の姿をストーリー中でより強く明確に描くことに成功している。

 

テニプリキャラクターの実在する人間の既視感は、アニメやミュージカルにおいて "キャラクターがキャストを選ぶ"という説もあるほどである。

物理的肉体的な特徴ではなく、精神性やよりトータルな人間性の部分で実在する人間に近い部分を、まずは主人公に与えたことで、しかも構想段階では最も人間味から遠かったキャラクターを主人公に据えることで、全てのキャラクターにもたらしたと見ることができるのではないだろうか。