超解釈テニスの王子様  人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

人生への圧倒的肯定を描き出す『テニスの王子様』と、その続編『新テニスの王子様』についての個人的な考察を綴ります。 出版社および原作者など全ての公式とは一切の関係はありません。全ては一読者の勝手で個人的な趣味嗜好です。 Twitterアカウント:@namimashimashi

キャラクター考_主人公と最強

テニスの王子様青春学園中等部1年生越前リョーマの視点に立って描かれたストーリーだということをまずは全ての念頭に置かれたい。

 

無印時代の『テニスの王子様』において主人公は越前リョーマであり、最強は手塚国光である。厳密に言うと主人公にとっての最強が手塚国光であるがために、ストーリー中では最強として取り扱われている。

無印原作中で主人公越前リョーマが敗戦を喫した描写がある対戦相手は2名、実父の越前南次郎と手塚国光である。対同年代では越前リョーマ手塚国光に対してのみ負けている、負けを認めている(関東大会氷帝戦「俺に勝っといて負けんな」発言からその心情は読み取れる)。

このことから、作中において手塚国光は最強の存在として描かれている。

テニスの王子様』ストーリー内における"最強"とは存在の絶対性である。

手塚国光は強さの基準・単位となっている。

登場する越前リョーマ青春学園の対戦相手達は、手塚国光を目指し、その強さは手塚国光を基準に測られ、語られる。

これは全て『テニスの王子様』が越前リョーマ視点で描かれ、彼にとっての世界の基準=テニスの強さが手塚国光であることに因る。

なお、無印作中において手塚国光は負けた試合がいくつかある選手であるが、テニプリにおけるテニスの試合に負けるということは即ち人生の価値観が転換することと同意義であることを考えると、手塚国光はテニスの試合に負けても彼の人生価値観が揺らぐ描写がないので真の意味での敗北を喫していない=俺は負けないのである。

その点から作品を読むと手塚国光は九州編で敗北を喫しているのだが、その手塚が負けたことは主人公越前リョーマの見えない知らないところで起こっているため、主人公視点で語られるストーリー全体における手塚国光の絶対性は揺らがないでいられる。

 

ちなみに余談だが、16年続くテニプリのラジオ番組:ラジプリ(現正式名称:新テニスの王子様オンザレイディオ)において原作者の許斐先生と越前リョーマキャラクターボイス担当の皆川純子氏は2人揃って"越前リョーマの最大のライバルは手塚国光である"と発言している。

 

さて、無印作品中において1名だけ手塚国光の基準で語られないキャラクターがいる。

幸村精市である。

越前リョーマが「テニスって楽しいじゃん」の天衣無縫の極みに辿り着く最後の対戦相手として登場する幸村精市は、彼もまた最強であり一つの基準の存在である。

 

このことがよく分かるのが『テニスの王子様』の続編『新テニスの王子様』だ。

 

『新テニスの王子様』においては、主人公が遠山金太郎であり、最強は幸村精市となっている期間がある。

新テニに関してはまだ完結していないため、この考察が覆る可能性が高いものの、主人公と最強の組み合わせは以下の流れになっていると読める。

1〜13巻 無印の流れを汲む 主人公:越前リョーマ 最強:手塚国光

13〜22巻 新テニの世界 主人公:遠山金太郎 最強:幸村精市

23巻〜 W基軸 主人公:越前リョーマ&遠山金太郎 最強:手塚国光&幸村精市

新テニでは、主人公と最強の存在を両方ともメインストーリーから外すという手段に出たにも関わらず、止まることなくストーリーが進行したのは、その代わりになる存在が同じ世界の中に居たからでもある。

それが遠山金太郎幸村精市である。

ストーリー中の精神的な位置づけがそれぞれ同じなのである。

遠山金太郎にとって絶望的敗北を喫している=負けを体感しているのは幸村精市であり、また遠山金太郎には幸村精市が難病で絶望した経験が見えていない。

また新テニ作中で、幸村精市が出場し、敗北したドイツ戦の徳川カズヤと組んだダブルスも、試合結果は負けたものの、矜持を見せつけて幕引きをさせた幸村精市は生き方が揺らがない=テニプリ世界における真の意味での敗北はしていない。

この遠山金太郎幸村精市両名が無印時代に越前リョーマ手塚国光がストーリー中で担っていた役割を果たすことで、新テニはテニプリの世界観・作品の雰囲気を保ったままで、無印とはまた異なる基軸を有する新作漫画として生き生きと展開していくことができるのである。