超解釈テニスの王子様  人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

人生への圧倒的肯定を描き出す『テニスの王子様』と、その続編『新テニスの王子様』についての個人的な考察を綴ります。 出版社および原作者など全ての公式とは一切の関係はありません。全ては一読者の勝手で個人的な趣味嗜好です。 Twitterアカウント:@namimashimashi

キャラクター考_W主人公補足

前記事で述べた主人公としての越前リョーマ遠山金太郎について補足したい。

テニプリ読者には馴染み深い話ではあるが、連載開始前の構想段階では、テニスの王子様は「金テニ」というタイトルで遠山金太郎が主人公、越前リョーマは主人公のライバルとなる予定であった。それが入れ替わったような形となり、実際の越前リョーマが主人公の『テニスの王子様』として世に出たのである。

 

遠山金太郎は結局主人公ではなかったものの、主人公になるポテンシャルを持った存在なのである。

実際に原作漫画に遠山金太郎が登場する第245〜247話では、話数冠言葉が従来の"Genius"ではなく、"Wild"という遠山金太郎を表す冠言葉が使われ、その話の間は遠山金太郎が主人公、越前リョーマがライバルの立ち位置で描かれている。

その後『テニスの王子様』は再び越前リョーマが主人公の話として完結するが、潜在的には主人公が2人、W(ダブル)主人公の話となっている。

 

この2人はそれぞれ別の"答え"を宿した中心人物である。

"天衣無縫の極みに到達する希望の塊である"という根幹は共通しているものの、その出発点とも言うべきテニスとの出会い方や性格に表裏の様な違いがある。

例えば、テニスの試合に"負けること"に関して、

越前リョーマにとって負けは認めるものであり、

遠山金太郎にとって負けは体感するものである。

一見、全く違う物の様に見えるが、それは世界の理解の仕方、捉え方の違いであって、真には同じことを意味する。

 

また、遠山金太郎の方がより感覚的野生的な主人公である。

越前リョーマも直感や感覚的な主人公ではあるが、その感覚のスイッチや目覚めの瞬間が第三者である読者に見えやすい。遠山金太郎はその野生性のためか、勢いやエネルギーが強く速く、成長が第三者には突発的であり、読者がストーリー展開に置いていかれる可能性がある。

その点において、『テニスの王子様』が「テニスって楽しいじゃん」という人生への圧倒的肯定感を紙面から伝えることができたのは、主人公が越前リョーマであり、遠山金太郎は最初はライバルとして登場したことも一つの要因であると考えられるのではないだろうか。