超解釈テニスの王子様  人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

人生への圧倒的肯定を描き出す『テニスの王子様』と、その続編『新テニスの王子様』についての個人的な考察を綴ります。 出版社および原作者など全ての公式とは一切の関係はありません。全ては一読者の勝手で個人的な趣味嗜好です。 Twitterアカウント:@namimashimashi

赦し・救い

テニスの王子様』『新テニスの王子様』において"赦し""救い"はあるのだろうか。と考えた。人生への圧倒的肯定感を感じることができる以上、人が生きていることを全面的に肯定し喜ぶ理、すなわち、人が生きることへの"赦し"や"救い"があるはずである。

テニプリにおける"赦し"はテニスをテニスのためにすることであり、テニスのためにテニスをしている以上そこに"救い"がある。

それは、テニス=人生なテニプリにおいては、生きることに真剣に生きていることが"救い"である。

無印『テニスの王子様』の378話(最終話の1話前)で主人公の父:越前南次郎が「天衣無縫の極み」を「誰でも持っているもの」だと語っている。また、この最終話のタイトルは「Dear Prince〜テニスの王子様達へ〜」。天衣無縫の極みに到達できる、「テニスって楽しいじゃん」と思える、最初にテニスに出会った時の気持ちを忘れずにいられる、そんなプレイヤー達は皆「テニスの王子様」なのだ。そして、「テニスの王子様」になること、「テニスの王子様」でいることが『テニスの王子様』『新テニスの王子様』における"赦し"と"救い"ではないだろうか。

そして、テニスのためにテニスができなくなった人々に"赦し"を与えるのが主人公の存在である。

越前リョーマ(と遠山金太郎)は対戦相手の"呪い"を解き"赦し"を与える存在だ。彼(ら)に対峙し、彼(ら)のテニスに敗北した相手は目が覚まされていく。(※とりわけ伊武深司と幸村精市は漫画でもその描写が分かりやすい。対戦前後で目の輝き(塗り方)が変化しており、試合が始まる前や試合中は目が催眠にかかったようなハイライトのない描かれ方をしているが、対戦後(越前リョーマに敗けた後)は他のキャラクターと同様の光を宿した目に変わっている。)

主人公とテニスで対峙することで、再びテニスのためのテニスに気づき、再び赦し救われる存在としての息遣いが始まる。

テニスのためにテニスをすること。

テニスに正面から自分の全てを以ってして向き合うこと。

テニスは人生のテニプリが発する圧倒的人生への肯定感は、そんな生きることそのものへの賛美と生きる楽しさや素晴らしさを取り戻し、忘れずいることの輝きからくるものなのだろう。

 

ちなみに、越前南次郎は、『新テニスの王子様』では、幼い息子達に「そうだ テニスをやれ」とテニスを勧めており、ここからも「テニスをすること」そのものこそがテニプリでキャラクターが息遣いを始める出発点であることが読み取れるだろう。

 

なお私は、新テニは、テニスを"何かのために"することという命題の考察をしているのではないか、と推察している。