超解釈テニスの王子様  人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

人生への圧倒的肯定を描き出す『テニスの王子様』と、その続編『新テニスの王子様』についての個人的な考察を綴ります。 出版社および原作者など全ての公式とは一切の関係はありません。全ては一読者の勝手で個人的な趣味嗜好です。 Twitterアカウント:@namimashimashi

絶望しない王子様達

 

人は、絶望の中では上を目指すのは困難である。

絶望しながら希望を見ることはできない。

人が生きる中では、時として絶望を覚えることがある。絶望により自らの人生を諦めることがある。前を向けなくなることがある。

そんな時は『テニスの王子様』『新テニスの王子様』を読んでほしい。

テニプリは人生への圧倒的肯定感を描いている。

人が生きること、人生を究極に賛美している。

その肯定感を描き出すテニプリの王子様達は絶望しない存在なのだ。

絶望をはねのける圧倒的な力を有した存在達として存在している。

 

「テニスは人生」 である『テニスの王子様』『新テニスの王子様』において絶望とはテニスを辞めることだ。

その世界において、王子様達は誰一人としてテニスを辞めていない。

このことは、パーフェクトファンブック23.5巻

P233 許斐先生が答える!一問一答ラリー

Q28「代表合宿に来ていない中学生の様子が知りたいです。」

A.「来年に向けてがっつり練習してます!」

この質問・回答からうかがい知ることができるだろう。

新テニで代表合宿に参加しテニスをしている王子様達はもちろん、合宿に来ていない王子様達であってもテニスを続けていることが明言されているのだ。

 

そんな中、作品中で一度テニスを辞めた、すなわち、絶望を味わった王子様がいる。

亜久津仁である。

しかし、テニプリは無印から新テニに続く亜久津仁の描き方で、絶望を克服させている。

亜久津仁は自らの信念によりテニスを辞めざるをえなくなったが、"血のあがない"という文字通りに命をかけた行為により、その手にもう一度テニスを取り戻している。テニスを失った絶望を打破させたのである。

その絶望を克服した決定打として描かれた新テニのU-17W杯予選グループ3戦目スイス戦S3からテニプリにおいて王子様が絶望しない存在であることを示唆しうる一言、『新テニスの王子様』22巻スイス代表アマデウスの台詞を引用する。

 

「審判…!選手が戦おうとしているのに余計な手出しをするな」

 

生きようとする意志が有る限り、その意志は尊重されるべきであり、外野によって妨げられるべきではない。何人たりとも他人(ひと)のテニスを奪うことはできない。

その意志は無印で辿り着いた「天衣無縫の極み」の要素だ。つまり、最終決戦!王子様VS神の子で越前リョーマが体現して見せた五感を奪う=テニスをできなくする神の子を打破する力が絶望をはねのけるのだ。

この力が存在する限り、そして、越前南次郎が言ったように「天衣無縫なんてもんは誰もが持ってる」のであれば、テニプリの王子様は絶望しない。

 

王子様全員が天衣無縫の力を持っている。

テニスを楽しむテニスをする力が人生を暗く貶める呪文を否定する。

テニスをする意志の光は消えない。

消えても命をかけることで再び灯る。

 

それを見せてくれる王子様は絶望しない存在だ。

 

これこそが、テニプリが描く圧倒的に肯定された人生であり、その人生への肯定感を受け取ることで読者はテニプリに励まされ、生きる活力を得ることができている。