超解釈テニスの王子様  人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

人生への圧倒的肯定を描き出す『テニスの王子様』と、その続編『新テニスの王子様』についての個人的な考察を綴ります。 出版社および原作者など全ての公式とは一切の関係はありません。全ては一読者の勝手で個人的な趣味嗜好です。 Twitterアカウント:@namimashimashi

原作漫画を読み解く_高校生からの問い掛け

 「お前はその力を自分以外の誰か/何かのために使えるか?」

テニスの王子様』の続編『新テニスの王子様』から登場する高校生達は問い掛ける。

《汝の力を何のために使うのか?》

《何を成し遂げようと生きているのか?》

《自分自身の力は何のためにあるのか?》

 

"生きること"そのものに全力である尊さが全面に出た中学生キャラクターとその周辺人物達の世界が無印の『テニスの王子様』だとするのであれば、 その続編の『新テニスの王子様』の世界では高校生という先達が全力で"生きること"の尊さの先の人間の生き方をその背中で問い掛けている。その問いが<己の生を何に捧げるのか>という命題だ。

すなわち、自らの生を肯定し、前向きに受け止めた、その先の"生き方"の提示と問い掛けが『新テニスの王子様 THE PRINCE OF TENNIS Ⅱ』なのである。

 

平等院鳳凰がU-17日本代表No1 であり"お頭"と呼ばれる所以は、彼が大義:日本代表の勝利を全身で背負う存在だからである。

 

かの有名なマズロー欲求段階説自己実現理論)によると、自己承認欲求が満たされた人間が次に満たすのは自己実現欲求であり、そして自己実現欲求を充した者が到達する自己実現のさらに上位段階が自己超越の段階である。

自己超越の段階では、コミュニティーの発展への寄与、利己的個人的動機の超克、愛の奉仕を行うようになる。

この自己超越の境地にたどり着けるか。

この命題と向き合い続けている先達が高校生の王子様であり、今、目の前にこの命題を提示され向き合い始めたのが中学生の王子様なのではないだろうか。新テニで度々描かれる高校生と中学生の師弟関係はこの人生における段階の違いから来るものだと見ることができるだろう。

 

また、テニプリの自己超越の課題は飽く迄自己承認欲求と自己実現欲求が満たされた者に課される命題である。

自らの人生を全面的に肯定し、自分自身を更なる高みへ進化させようと手を伸ばし続けている者、すなわちテニスの王子様達だからこそ向き合うべき課題である。

ただし、テニプリにおいては、誰もがテニスの王子様になることができる可能性を秘めている存在と暗に仄めかされているので、自己超越の段階にも誰もが挑むことができる可能性があると信じられている世界だと言っても良いだろう。

この選民的に見えながらも実は一切の差別の無い人間観もテニプリの圧倒的肯定感、作品が読者に前向きな力を与える一因だと考えられる。

なお、マズロー自己実現理論では、自己超越に達する至高体験では自我忘却や無我状態を経験することも定義付けされており、つまりは、自己超越段階は無我の境地のその先なのである。

 

さて、原作漫画の作品中においては、平等院鳳凰のトップとしての方法の正しさには議論の余地が多分に残されているものの、その根幹の目的がお頭たるにふさわしいものであるからお頭なのであろう。ただし、方法論においての破壊性を超越できていないあたり、彼もまた完璧な自己超越者ではない。

そこで高校生をも見守るコーチ陣である大人の存在が生きてきている。

少し話が逸れるが、その点においては、数多いる王子様の中で自己超越者に一番近いのは鬼十次郎なのではないか、と見ている。だからこそ、鬼十次郎平等院鳳凰とU-17日本代表のダブルトップを務める存在なのではないだろうか。 

 

新テニ12巻で描かれている一年前の代表合宿で徳川カズヤが平等院に完膚なきまでに叩きのめされたのも、世界と戦うようになってから平等院が徳川を認められるようになったのも、徳川が利己的個人的動機以外の目的として自分の力を使えるようになったからである。

平等院はGenius10とのシャッフルマッチを戦う徳川の姿に、「こやつ本当に命を懸けてー」と認識し、徳川を受け入れるようになった。つまりこの瞬間が徳川が自己超越の段階に近づき、真に強くなった時なのである。日本代表のトップになるなどという内向きな願望ではない方向に目が向いたのである。それがその後の「俺は俺のやり方で世界をとってみせる」という言葉に現れている。

 

遠山金太郎も「日本一のテニプスプレイヤーになる」から「世界一の選手になったる」と目標が変わったところで、また金太郎の強さは一段と進化した。

 

そしてテニプリの主人公であるはずの越前リョーマが現在の新テニでも主人公に返り咲いた瞬間は23巻で「日本のテニスをナメんな!」と啖呵を切ったところではないだろうか。

この場面は無印18巻の関東氷帝控え選手によるシングルスが始まる前の「お前は青学の柱になれ!!!」と同じ雰囲気を纏っている。越前リョーマが背負うものを背負い、背負うもののために自らの持てる力を賭す生き方を選択した瞬間である。

 

新テニ22巻のスイス戦で亜久津仁に起きた第八の意識 『無沈識』が最強の状態であるのは、ありとあらゆる利己的個人的自己意識を完全に超越しているからである。

 

人生の肯定の先を目指していく困難と、この困難でさえも乗り越えることができる希望が、今の、第2章の、英語タイトルでは"Ⅱ"と表される、テニスの王子様〜THE PRINCE OF TENNISである。

 

そしてそれはもしかすると、全てを「ファンのため」として執筆、創作活動を続けるハッピーメディアクリエイター時々漫画家、『テニスの王子様』『新テニスの王子様』原作者:許斐剛の姿、人生哲学そのものなのかもしれない。