超解釈テニスの王子様  人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

人生への圧倒的肯定を描き出す『テニスの王子様』と、その続編『新テニスの王子様』についての個人的な考察を綴ります。 出版社および原作者など全ての公式とは一切の関係はありません。全ては一読者の勝手で個人的な趣味嗜好です。 Twitterアカウント:@namimashimashi

はしがきpart2_このブログを始めようと思った理由

♪君が悲しむ理由を知りたい〜 (跡部景吾/理由)

では、なく。

完全な個人の事ですが、このブログの元になったテニプリの考察をしようと思ったきっかけを書きます。

ある種の悲しみや怒りも混ざったこのブログの元になるテニプリの考察を始めた理由について、です。

自分の個人の心情を語るので過激な表現を使いますが、御ご容赦ください。 

 

身体に電流が走るような、という表現がありますが、まさしくそんな経験でした。 

許斐剛先生に「ありがとうございます」と叫びかけたところ、こちらを向かれて「こちらこそ」と仰っていただきました。

2017年10月15日オールテニプリミュージアムin京都(通称おてみゅ)での出来事でした。

 

その時、私の中に生まれたのは「許斐先生に話しかけていただいて嬉しい」という思いよりも「私、許斐先生に"こちらこそ"なんて言われること、感謝していただくことなんて何もしていない」という思いでした。打ちひしがれました。

自分のできることをやろう

自分にできる方法でテニスの王子様と真剣に向き合おう

と思い、考察として言葉で『テニスの王子様』『新テニスの王子様』が自分自身の生きる糧となるような力を与えてくれるのは何故なのか、について真剣に考え、できる限り理論的に詳細に語る挑戦をしてみようと、始めたのがこのブログです。

 

そして去る2018年6月10日(日)に許斐剛パーフェクトライブ〜一人オールテニプリフェスタ2018(通称おてふぇす)に参戦した今、テニプリに対する感謝の気持ちに後押しされるように、またもう一度『テニスの王子様』『新テニスの王子様』に向き合おう、このコンテンツの多幸感とその所以を考察して、一人でも多くの人に真剣に取り合ってほしい、と改めて強く思いました。

 

宗教という響きがどこかマイナスのイメージを伴ってしまう日本で、漫画・アニメコンテンツがサブカルチャーに属する世間で、それでもどうしても、『テニスの王子様』『新テニスの王子様』を理論的にその特異性と人々に与える好影響を説明したいと志しています。生きる支えとなり、原動力となり、幸せの感情を提供するコンテンツたる所以をできれば一人でも多くの人に正しく知ってほしいと思っています。

 

テニプリはどこか嘲笑めいて「宗教のようである」「テニスをしていない」と評される声が大きく聞こえるのが私は悔しくて仕方がないのです。

私の人生を肯定する力を与えてくれるコンテンツを軽んじて嘲笑めいた言葉を投げかけられるというのは、それは最早、神と聖典への冒頭のように感じられるのです。

 

だから、これは、私の聖戦ジハードです。

私の頭脳と言語表現力をかけて『テニスの王子様』『新テニスの王子様』の奇跡を凄さを理論的に語り尽くしたい。

私の力ごときで世界を変えられるだなんて思ってはいないけれど、何もせずにはもう居られない。何か少しでも良いからテニプリの一漫画・コンテンツを超えた概念や理念といった部分を解き明かして知ってほしい。

 

そもそも宗教や宗教信仰というのは、ヒトの高い精神性が為せる業であり、生物界において多様な言語を操り頭脳を大きく発展させたヒトのみが持つ高度な営みの一つです。

その宗教にも似た、人が生きる拠り所となるような、読み手(ファン)に魂の安心をもたらすコンテンツが唯一無二の奇跡ではなくて何だと言うのでしょうか。

テニプリが"奇跡"である説明をしたい。この"奇跡"を理解したい。

これらの思いに急き立てられて本格的にまとまった文章の形をとった考察をしようと試みているのがこのブログです。

 

その思いが、おてふぇす2018を経てさらに強くなったので、また引き続きこれからも『テニスの王子様』『新テニスの王子様』と向き合い、自らの能力とも戦いたいと思います。

ただし、これは辛いことではありません。

テニプリに対する新たな知見を得ることは喜びでありそれを考えていく過程は楽しくもあります。

そして何よりも、テニプリに向き合うことはすなわち、行き詰まることや辛いことや大変なことがあっても、人生の傍らを歩いてくれている王子様達の存在を常に思い出せる幸せがあると信じて書き続けて行きたいと思います。