人文知と社会知
テニスの王子様の話のような、そうではないような話をします。
本ブログの更新はすっかりご無沙汰になってしまい、前記事掲載から一ヶ月以上が経過してしまっている。
その間、テニスの王子様に関する考察をしなくなったのではなく、考察点のアイディアはあるもの文章として納得いくように纏められず、未公開の下書きは20以上あった。
その下書きに保存されていた考察ポイントのアイディアの整理として、本ブログで試みようとしているテニスの王子様に関する人文学的考察から観点がずれる項目についていくつか言及しようと思う。
テニスの王子様の功績は多々ある。
検証すべき社会学的事象も多くある。
だからといって社会的功績と人文学的功績を混ぜこぜにして語ると考察として成立しがたくなる場合があるだろう。
というのも、社会学的考察に踏み込むにはデータ収集と分析が必要だからである。
つまり、テニスの王子様の社会学的功績ともいえる、少年漫画読者への女性層の呼び込み、ヒットは難しいと言われてきたテニス漫画のヒット、クールで天才な"すでに強い"という少年漫画における新たな主人公像の確率、キャラクターマーチャンダイジングやメディアミックスの手法と展開、エンタテインメントコンテンツにおける視聴者への公共性の提供などについて客観的に述べるにはそれを裏付けるデータが必要になる。
感覚的にはテニスの王子様のメディアミックス展開やキャラクターマーチャンダイジングの多様性とそれらに伴う消費者や後発の他作品への影響を感じてはいる。
しかしながら確証を得て述べるのが難しいと考えているため、この場では、私が感じていたり噂で聞いたりしていることを上記のように列挙するにとどめたいと思う。
その代わりではないけれども、作品世界を読み解くことで解析し、たどり着くことのできる哲学や物語性ような人文知の事柄について引き続き考察していきたい。
漫画作品のようなサブカルチャー作品の分析ならびに考察に関して励まされる言葉に出会った。
「(前略)芸術や表現を「分析」するとう行為は、その物語や表現が、時間、空間を問わず、人々によって共有されるべき価値があると判断されたからこそ成立する、と思うのだ。逆から言えば、共有されるべき価値を内包しない物語や表現に関しては、そもそも「分析」自体が成立しないことになる。とするならば、分析が成立した時点で、その社会的な価値は保証されていることになる。」
(2018年3月29日発行 野村幸一郎著 『新版 宮崎駿の地平 ナウシカからもののけ姫へ』 あとがき p204〜205より引用)
これは現代では一定の地位を確立させつつあるジブリ作品についての言及ではあるものの、テニスの王子様にもその片鱗は必ずあるとみることができるのではないか。
それは、2018年8月25日9:00付けで配信されたORIKON NEWS:
置鮎龍太郎&諏訪部順一が語る『テニスの王子様』の功績 まもなく20周年 | ORICON NEWS
よりインタビュー内で「(前略)実は『テニスの王子様』って、スポーツ青春ドラマが持つ普遍的な魅力をきちんと備えた物語なんですよね。今回リメイクされたエピソードも、全く古さを感じませんでした。」
と諏訪部順一氏の言葉として語られている。
テニスの王子様には何年経っても変わらないアツさがあり、そのアツさの要因や普遍性の源についての分析ならびに考察が成立する。
人々に、時と場所を越えて共有されるべき価値観を有する物語であると言っても差し支えないのではないだろうか。(と、私は信じている。 )
すなわち人文学的考察に耐えうる作品だと言いたい。
さて、本ブログでは再三述べるようであるが、私はテニスの王子様の魅力は言葉で説明できるところにあるとは考えていない。
むしろ、"好き"であるだとか"面白い"であるだとか感覚に訴える部分の力が大きい作品だと思っている。
本能的気持ち悪さがない、感覚の世界に訴求力があるからこその信仰じみた好きを生み出すのだと考えている。
が、しかしそれは考察を否定するものでも無い。
読者に何が好きだと思わせて、何を面白いと感じさせ、何に感覚的感動を覚えているのか。
その正体を突き詰め、作品内で語られる哲学や美学を解明しようとする、そんな知的な営みの対象たる漫画作品の一つであると信じて人文学的考察を続けたい。
気持ちや情感を理知的に述べるには人文知を深めるのが有効なのだ。
テニスの王子様は、感覚的でありながら理性的である。
その両側面を忘れずに、そして、感覚と理性の両方に訴える魅力を存分に堪能しながらこれからもテニスの王子様の作品世界を楽しんで生きたい。