キャラクター考_W主人公とその所属校について考える
一方で原作者からは、アイディア段階では遠山金太郎が主人公であったと明かされている。
本ブログでは以前『新テニスの王子様』は、越前リョーマと遠山金太郎のW主人公で物語が描かれていると論じた通り、テニスの王子様の物語を読み解き、考察する際には、遠山金太郎も主人公と同等の役割が物語内で与えられているとみて差し支えないだろうとみている。(
キャラクター考_W主人公補足 - 超解釈テニスの王子様 人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ))
ちなみに『新テニスの王子様』以前であっても、無印『テニスの王子様』単行本28-29巻に掲載されたGenius245-247の3話は、Wild1-3と話数が数えられ、主人公遠山金太郎がライバル越前リョーマと出会う物語として描かれている。
さて、この主人公2人だが、そのパーソナリティーがそのままそれぞれの所属校を象徴していると読めるだろう。
主人公を最年少の可能性の化身とし、かつ所属集団の象徴の役割を背負わせることで、最終的に物語全体を昇華させるのである。
テニスの王子様ではファンブックとしてキャラクター設定集が刊行されている。
ファンブックでは各キャラクターの様々なプロフィールが公開されているが、無印40.5巻と新テニ23.5巻では"座右の銘"が掲載されている。
それによると、越前リョーマと遠山金太郎の座右の銘は下記だとされている。
越前リョーマ「All or Nothing」
遠山金太郎「やられたらやり返せ!」
(『新テニスの王子様』23.5巻ではキャラクターの成長に伴い、何名かいつくかの項目でプロフィールが前出のファンブック掲載内容から変更されていることもあったが、この2人の座右の銘は、40.5巻から変更はなかった。)
このそれぞれが座右の銘にしている言葉は、それぞれの所属校、越前リョーマは青春学園(以下、青学)、遠山金太郎は四天宝寺の男子テニス部レギュラーが掲げるモットーと親和性が非常に高い。
遠山金太郎の「やられたらやり返せ!」の信条から伺えるのは、自分の土俵で勝負を買い、そのフィールドでは勝つ、という気概だ。
これは、「勝ったモン勝ち」の精神を共有する集団である四天宝寺の哲学を凝縮させているとも見えないだろうか。
また、越前リョーマの「All or nothing(全か無か、全てを賭ける、絶対的)」も、無印の作中で唯一天衣無縫の極みの扉を開いたテニスの申し子、テニスのみに向かい合う、テニスに対してto be or not to be(テニスであるか、ないか、それが問題だ)とでもいうような姿勢は、テニスのみを価値観として繋がる青学を象徴する。青学はテニスのみを価値観として繋がり、テニスに勝つことそのもののみが目的にもなっている哲学を抱える集団だ。
このことから、青学と四天宝寺は超新人がいてこその集団とも言え、またそれと同時に、W主人公は自らの学校に所属するべくして所属している存在だとも言えるだろう。
そしてまた、全国大会準決勝S1のオーダーは、1年生同士の試合だが、団体戦として学校同士の想いがぶつかり試合となる可能性があるオーダーであった。
(しかし実際は、越前リョーマと遠山金太郎の可能性同士が共鳴し合い、運命的に相手を倒したいと感じ取ったことにより、団体戦の試合ではなく、エゴイスティックな願望を反映する個人的な試合展開となった。それは二人が中学1年生であるためが故の集団を背負う存在としての未成熟さが故だと考えている。)
青学を東の主人公校とするならば、西の主人公校ともなる四天宝寺中学校テニス部についてもう少し考えてみたい。
無印『テニスの王子様』において青学以外のライバル校を読み取れる機会は少なく、青学との試合描写でのみから読み取るしかない場合がほとんどだ。
その代わりという程でもないが、団体戦では試合全体の雰囲気に対戦校の色合いが色濃くでる。対戦校が青学に課題を突きつけ、それを青学が破り克服する形で物語全体は進んでいく。(だから、青学メンバーは数々の課題克服を通して物語全体で進化・成長が分かりやすく描かれている。)
全国大会準決勝青学vs四天宝寺戦は、「勝ったモン勝ち」と「やられたらやり返す!」を表現するかのように、目には目を歯には歯をと言わんばかりの試合が続く。
すなわち、同じ長所を持つ者同士の戦いとなっている。テクニックvsテクニック、戦略vs戦略、パワーvsパワー、無我の境地vs無我の境地のように。
その中で非公式試合になったS1越前リョーマvs遠山金太郎の一球マッチは、可能性vs可能性の試合であり、その後の物語の終着点を予感させるような試合となった。
そしてまたストーリー外ではあるが、四天宝寺が青学と同様に主人公級の存在を抱える第二の主人公校であり、青学の対称(鏡写し)の学校であることは、そのメンバー構成や原作者の作詞のキャラクターソングの歌詞からも感じ取れる部分がある。
テニスの王子様に登場する学校の特性は、原作者の許斐剛作詞作曲の楽曲"テニプリFEVER"と"一人テニプリ☆パラダイス"の歌詞等で言及されている。
青学「勇気と優しさ無限の心」
四天宝寺「無限の輝き無二の個性派」
上記のように、歌詞では青学と青学との試合描写がある各校に一言が与えられているが、全11校中(U17は学校ではないが数に含めた)共通の単語が使われているのは青学と四天宝寺における”無限”のみである。
また、7人しか試合に出場することができない団体戦においてレギュラーを9人要する主要校も青学と四天宝寺の2校のみである。
つまり、設定の段階から集団として青学と四天宝寺は似て非なるような存在なのだ。
だからこそ四天宝寺と青学は対等であり、同様に遠山金太郎にとって越前リョーマは"やられるーやり返す"の関係が成立する存在なのだ。
なぜこの主人公達の象徴性が語られるべきかについては、越前リョーマが作中の世界でも彼自身がテニスの王子様だと呼ばれ、全国大会決勝S1での勝利を以って全てのキャラクターを昇華させたいわば作品の象徴的な存在であるためである。
『テニスの王子様』のストーリーは入れ子構造のようになっている。
物語は周辺部の事象からその真髄となる中心的哲学に向かって集約するように進んでいくように展開する。
テニスの王子様の特異性は計算され尽くした物語展開にはなく、中核部分(物語を貫く信念、哲学)の揺らがなさだ。
中心が強いため、その周辺で何をやっても全て中心概念を反映したものになる。
越前リョーマが象徴であるならば、物語内でリョーマと同格の立ち位置である遠山金太郎も象徴でなければならず、また、それと同じく、越前リョーマが物語全体を象徴するのであれば所属する学校(集団)の青学をも象徴する必要があり、またそうであるならば、遠山金太郎も自らが所属する学校(集団)の象徴であるべきであろう。
なお、越前リョーマが青学の象徴であることは「青学の柱」の伝承や、全国大会決勝S1開始前の青学ベンチで「(青学にとって)最も重要な選手に成長していた」と語られることから読み取ることができるだろう。
主人公に象徴の役割を持たせることは物語が最終的にたどり着いた結論の普遍性を強めている。
「テニスって楽しいじゃん」を皆が戦ってきたすべての答えとし、天衣無縫は誰もが以っていることを真に感じさせることができたのである。
この"誰もが持っている"普遍性を感じられるからこそ、テニスの王子様は人生を祝福し肯定するメッセージを発しているのだろう。
さて以下は余談だが、『新テニスの王子様』は世界大会が始まってからが、テニプリの面白さの本領が発揮されていると感じている。
作者である許斐剛氏は、キャラクター作りにおいて他の追随を許さないほどの天才的な手腕を発揮する漫画家だ。
各集団の特性を明確に設定し、多様なキャラクターそれぞれに自らの属する集団の精神を宿し、それを集団内のメンバー間共有させ、戦わせることで、テニスという個人種目をなお団体戦として魅せることができているのである。
『テニスの王子様』では学校単位で発揮されたこの手法が『テニスの王子様』最大の面白さであり、この面が全面に出ている戦いがテニプリの真骨頂である。
そのテニプリの真骨頂は『新テニスの王子様』で世界戦に突入し、各国代表という集団同士が戦い合う中で再び遺憾無く発揮されることとなる。