超解釈テニスの王子様  人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

人生への圧倒的肯定を描き出す『テニスの王子様』と、その続編『新テニスの王子様』についての個人的な考察を綴ります。 出版社および原作者など全ての公式とは一切の関係はありません。全ては一読者の勝手で個人的な趣味嗜好です。 Twitterアカウント:@namimashimashi

"解釈違い"の果てに

ここでは、"公式が公式設定を覆したこと"を解釈違いと定義づけよう。

そうすると、テニスの王子様の解釈違いは私個人が簡単に思い返すだけでも以下のような事案があった。

 

・漫画

上(兄・姉)兄弟が後付けで出てきた

同じファンブック内で試合オーダーが異なる

本編とファンブックで試合結果が違う

キャラクターの名前が変わる

 

・アニメ

漫画と兄弟姉妹構成、所属委員会が違う

アニオリ展開(アニメオリジナルキャラクター、原作にはない試合、試合展開が異なる)

悪夢の関東立海

キャラクターの髪の毛の色が違う(跡部、芥川、佐伯、柳生)

ミニキャラコント

一部キャラソン(いわゆる"キャラ崩壊")

キャラ声での声優キャスト私的ラジオトーク(いわゆる"キャラ崩壊")

 

・ミュージカル

キャラクターが消える

顧問がいないことによるセリフ再編

演者の判断で披露される日替わりネタ

 

などなど…

 

要するに何が言いたいかというと、数多の解釈違いを経験しているのだ。

そして、その先に在るのが現在のテニプリテニスの王子様・新テニスの王子様)である。

 

そんな解釈違いとは無縁ではなかった中、連載開始から20年が経ちながらもファンがい続けるテニスの王子様について、ファンや消費者は何を以って、公式供給物をテニスの王子様のコンテンツであると認識しているのだろうか。

テニスの王子様である」とは、どういうことをいうのだろうか。

 

多くの人に認識され、発信されてきたテニスの王子様

その多くの人々の手に渡っても共通して生き残っている要素、異なる部分が有ってもなお全てのテニスの王子様コンテンツで共有される価値観がテニスの王子様の真髄なのではないだろうか。

それはまるで様々な人の手を経て編纂され読み継がれてきた聖書や仏典のようにも見える。

傷ついて傷ついた先にその奥に残ったものがそれでも傷つかなかったものがコンテンツの真髄になるのではないか。

 

そしてまたそれと同時に、今までとは異なった情報や有り得ないような展開をも受け止めて許して存在を認めること。

発信者を信じ、発信者側も信じる側の人々に真摯に向き合う、という有機的な相互やり取りの関係性であるが故に生じる解釈の余地。

この伸縮性と懐の深さがテニスの王子様なのかもしれない。

 

絶対に揺らがない"核"

全てを受け止める"許容力"

この2つを兼ね備え続けていることを我々はテニスの王子様だと認識しているように思える。

 

 

"終わらない世界で 見つけたい答えを 両手広げいますぐ受け止めたい

全て抱きしめて 届けたい未来へ この願いを信じて 歩いてゆくだけ

 

止まらない世界で 探したいゴールを 一人では見つけられないとしても

今を抱きしめて 託したい思いを 一つ一つ集めて 歩いてゆくだけ"(Gather/青と瓶と缶)

 

 

正しいことも正しくはなかったことも全て抱きしめて、今まで一つ一つ歩んできたものと今いる場所とこれからの未来、それらがテニプリテニスの王子様・新テニスの王子様)というコンテンツの真の姿なのかもしれない。

 

 

(以下、余談。)

(2018年12月Twitterで解釈違い騒動が起きました。その発端となったヒプノシスマイクについて私はほぼ知識ゼロなので詳しいことはよく分かりませんが、「こっちよりもマシだろ」と言うつもりは毛頭ありません。「その傷はいつか見た傷」。おそらく我々も同じ痛みを知っていると思う。そういうこともあるよね。慰めあおう。と思いました。公式が出した設定を公式自ら無視された傷は癒えないと思います。オタクは癒えない傷をかかえてオタクを続けるしかないと思います。それでもその先にしか見えないものもきっとあるんだと思う。多分だけど。)