超解釈テニスの王子様  人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

人生への圧倒的肯定を描き出す『テニスの王子様』と、その続編『新テニスの王子様』についての個人的な考察を綴ります。 出版社および原作者など全ての公式とは一切の関係はありません。全ては一読者の勝手で個人的な趣味嗜好です。 Twitterアカウント:@namimashimashi

覆い隠される真理

本稿は『テニスの王子様』『新テニスの王子様』を宗教的気づきをもたらす物語として解読することを目的としているため、この試合のストーリーにおいて語られる精神的やりとりに着目して解析している。

テニスの王子様はテニスのルールどころか物理法則をも超えてしまうようなその過激な表現から超常現象に注目が行きがちであるが、その姿を通して語られる登場人物たちの魂のやりとりは普遍的な人間の姿である。

 

テニスの王子様は述べるまでもなくファンタジーだ。

それもかなりのファンタジーである。

 

少なくともテニスシーンに我々の生きている現実の物理的なリアリティは無い。特に原作漫画単行本の22巻以降の作品後半は物理的な現実性・リアリティはかなり低いと言って差し支えないだろう。

そもそも漫画に登場するキャラクター達の身長、BMI、パーソナリティーなどもおしなべて現実味が薄い。

 

それもその筈である。

というのも、作者である許斐剛がファンタジー漫画と同列で語ることのできる週刊少年漫画を描こうとして描いている作品であり、また、漫画読了後には前向きな気持ちになるべきだとの考えから苦悩や悲壮は極力描かれないストーリーであるからなのである。

 

仮にテニスの王子様に物理的なリアリティを感じるのであれば、それを持ち込んでいるのは、アニメとミュージカルのキャストなのではないだろうか。

キャストの彼、彼女達によってキャラクター達に人間という存在の多面性が可視化されるようになる。

 

そしてまた、テニスの王子様はいわゆるキャラ漫画である。

キャラクターこそが漫画の命とする作者の考えから、ストーリーや絵よりも圧倒的にキャラクターに比重が置かれた漫画となっている。

そんな漫画であるからこそ、キャラクター達の人間性が可視化されることによって一気にリアリティが出てくる。身近なストーリーになってくるのである。

 

 

テニスの王子様』の連載が始まったのは1999年だった。

連載開始から20年が経った現在、西洋人のスポーツでの日本人の台頭や10代前半選手の活躍は、現実において、テニス・卓球・サッカー・スケート・バドミントン・将棋・水泳etc.様々なプロの世界でも現実になってきている。

"日本人の中学1年生が西洋スポーツで八面六臂の活躍をする"越前リョーマの設定もありえないことではなくなってきている。

現実のスポーツでありえることを少年漫画でファンタジーで描いても現実には敵わない。リアルのスポーツを超えるエンターテインメントにはなれない。

では、漫画コンテンツが漫画の中だけてはなく他のエンターテインメントとも比べて選ばれるために魅力的になるためできることはなんだろうか。

テニスの王子様には、ファンタジーがリアルを越えた魅力を放ちたいという意志がある。

 

 

科学法則に反した必殺技、物理法則を無視したボールの威力、テニスのルールに即さない試合展開など人智を超えた展開を見せるが、こういった自然科学法則を無視した現象は、聖書や仏陀伝説における超常現象の類だと考えている。

 

 「科学的に否定される事象を全て取り払ったとしてもそれは何ら聖書の価値を損ねることにはならない」

これは私が縁のあるキリスト教教会での礼拝の説教で語られた言葉だ。

 

この言葉と同様に科学的見地から否定されてもそれがテニスの王子様の価値を損ねることにはならないだろう。

登場人物がより高みを目指して切磋琢磨しあう姿は、自己存在を成長させ、人間としての高みを目指すようだ。

テニスの王子様の深淵を読み取ろうとした時、紙面に表現された目に映る絵だけを捉える「見える側に囚われているようじゃまだまだ」なのではないだろうか。

 

また、テニスの王子様では効果的に理解していない観客・傍観者=第三者の声が入ってくる。

コアの精神的なやり取りの真髄に近づくとそれを覆い隠すかのように何も理解していない者達からのヤジが飛ぶ。

それが現実的感覚とを繋げる一方で、読解を難しくしている。

テニスの王子様の世界では観客と選手に明確な一線がひかれている。

コート上でのやり取りは同じくコートに立てるだけの力量のある人間たちにしか理解できていないのだ。

原作漫画では、同様に、試合を解説する人物も、出場の如何を問わず、その試合を理解できる者が選ばれている。

 

さらに、テニスの王子様を読み解くにあたっては、読者と登場人物の間に情報格差があること、それに伴う認識の差異が生じていることにも気づく必要があるだろう。

青学メンバーについてだけでも、例えば手塚の怪我からの復帰に関しては全国大会氷帝戦S2で青学は手塚について評価しているが、九州でのイップスの一件は彼らは知らない。

全国大会決勝D1中で竜崎スミレの語りかけ「そう言えばお前達がピンチの時−常にリョーマがきっかけになりよったわい」によって越前リョーマが青学の柱になっていたことに気がつく(越前リョーマが作中で自他共に認める青学の柱として試合をしたのはおそらく全国大会決勝S1の一戦のみだと思われる)。

 

「瞳に見える外側に囚われている様じゃ…まだまだだぜ」というのは主人公・越前リョーマの父、『テニスの王子様』における最高到達地点・天衣無縫の極みに一番最初に到達した人物・越前南次郎が全国大会決勝戦前に息子・越前リョーマを指導した際に投げかけた言葉だ。

これは、もっぱら作中世界で息子に語りかけた言葉のように見えるが、もしかすると、テニスの王子様の世界を見つめようとする読者にむけても語りかける言葉なのかもしれない。

 

参考資料:

ジャンプGIGA 2017 vol.1 掲載「許斐剛×藤巻忠俊 クリエイティブの秘訣お答えしますスペシャル」 2017年4月28日発売 集英社

テニスの王子様 公式ファンブック40.5 許斐剛先生 百八式破答集 2007年12月9日 発行