超解釈テニスの王子様  人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

人生への圧倒的肯定を描き出す『テニスの王子様』についての個人的な考察を綴ります。 出版社および原作者など全ての公式とは一切の関係はありません。全ては一読者の勝手で個人的な趣味嗜好です。 Twitterアカウント:@namimashimashi

最近考えている宗教生活とテニプリ関連の思索について

 

このブログを書いている私自身は参加していないのだが、2019年2月23日に開催された第3回テニスの王子様研究発表会において発表された研究の中に「テニスの王子様は神話」だと結論づけるものがあったという情報が耳に入ってきた(※要旨や発表内容を拝見していません)。

私は『テニスの王子様』『新テニスの王子様』を今まで聖典だと思って読解しようとしていた。

しかしながら先の情報を聞いてから簡単に神話について調べたところ、テニスの王子様』『新テニスの王子様』は確かに神話の方が近いのではと考え直すようになった。

神話の中でも、特に日本神話に構造が似ているように思う。

つまり、西欧やインドのような英雄譚、戦闘の神話ではなく、国生み、受容の神話になぞらえることができる、ということだ。

 

テニスの王子様』『新テニスの王子様』は英雄譚の神話のような敗北=死の価値観ではない。

ストーリー中において試合に敗北した選手たちの存在の排除、消滅はなく、勝ち進んだ青学の応援席や日常で役割を持って登場する。

また、『テニスの王子様』におけるプレイヤーの覚醒の初期状態である"無我の境地"では過去の対戦相手の記憶を無意識に体の記憶が次々に繰り出す状態、すなわち過去の対戦相手が勝敗を関わらず無我の境地を使うプレイヤーの身体を通して現れる。

 

排除ではなく、受容。

敗者に求められるのは、価値観の追加や見直しであり、屈服や排除ではない。

試合に負けたとしても相手は相手のまま生きていけるし生きていて構わない。

そこで価値観を見直すかどうかは相手自身に委ねられている。選択の余地があり、強制されていない。

 

テニスの王子様のストーリーにおいて、敗者は越前リョーマや青学レギュラーに敗北することでテニスと自らの関係をもう一度見つめ直す、テニスにもう一度出会う。

テニスの王子様によってテニスに出会うのである。

例えばこれが一番わかりやすいのは対不二裕太だと思っている。

都大会準々決勝の聖ルドルフ戦での不二裕太越前リョーマに対して「俺の最終目標はやっぱり兄貴だ」と宣言した発言に対して越前リョーマは「いいんじゃない」と答え、試合中では「俺は上に行くよ」と言葉をかけている。

リョーマ自身は、自らの意思の上では俺というあくまで一個人的な目的意識しか有していない。

 

また、受容と国生みの物語を語る国家神道に通ずる日本神話になぞらえるのには、もう一つ観点がある。

2本柱構造である。

日本神話は、伊奘諾(イザナギ)と伊邪那美イザナミ)の2神を起源とする国生みの創造の物語である。

またイザナギイザナミは始まりと終わりを司る。

テニスの王子様』も越前リョーマ遠山金太郎の2主人公物語だ。

そしてまた、越前リョーマは最初という始まり、遠山金太郎は最後という終わりを象徴する存在と見ることができる。

越前リョーマにとってテニスは始まりだ。生まれた時から自我が芽生えるよりも前からあったものがテニス。テニスが最初の存在が越前リョーマである。

一方で、遠山金太郎にとってテニスは最後。全てが可能、なんでもできる遠山金太郎が最後に出会い、残り付き合い続けることができたのがテニスだ。

(余談で付け加えるとするならば、越前リョーマはテニスが最初で最後になる可能性が残されている点において遠山よりもより可能性が大きい。遠山は決してテニスが最初になることは無いので。)

この視点で『テニスの王子様』『新テニスの王子様』を見るとキャラクター達一人一人は日本神話における八百万神と同様に捉えることもできるであろう。キャラクターひとりひとりを八百万神と見るとすれば、不二周助跡部景吾・白石蔵ノ介・幸村精市の4人を四大宗教と呼ぶ感覚も納得できるかもしれない。

 

テニスの王子様におけるテニスとは人生である。

テニスが人生であることについては、作中でエピソードが描かれている。

最終決戦 全国大会決勝戦前に天衣無縫の極みを息子:リョーマに教えるべく作中で唯一すでに天衣無縫の極みに到達している存在である父親:南次郎が山修行に連れ出す話だ。そこで南次郎はテニスを生きるための術として駆使している。

テニスの王子様が問いかける問いは「テニスのためにテニスができるか」。

すなわち我々は生きるために生きられるのかという問いに直面させられる。

今に最大限に集中できるか。

何かを目的にではない生を生きる。

これは仏教的修行が得られるとしている瞑想マインドフルネス思考に近いものがある。

 

以上のことから、テニスの王子様は、仏教的人生観・真理・哲学を国家神道神話的手法によって語る物語である、と考えることができるのではないだろうか。

 

 

ここで考えたいのが"唯一神"と言われることもある原作者の許斐剛先生の存在についてだが、この許斐先生の神格化については日本人の人神(ヒトガミ)発想に通ずるのではないかと考えている。

日本人には歴史を振り返ると、例えば菅原道眞公を神として祀るといったことや、先祖や未練を残した人物を奉り崇めたりするなどといった神と人との連続性が日本人の意識にはあるとされている。

日本人の意識には、何か偉大な物を作り後世に影響を与えた人間を神や精霊、人ならざるものとして讃える習慣があるのである。

このことから、テニスの王子様の創作者であり、影響力の大きい許斐先生は日本人の感覚では"神"と呼ばれる人間であったと考えられるのではないだろうか。

例えるのであれば、テニスの王子様というストーリーに対して許斐先生はシャーマンや預言者のトップオブトップに近いとみることができるかもしれない、と考えている。

 

 

 

さて、話は少し変わるが、テニスの王子様への信仰に似た意識は、日本の風土が成立させている部分も大きいのでは無いかと考えている。

日本の四季があるモンスーン気候で暮らす生活をしているからこそ、夏という季節の暑さがわかり、夏が終わることを理解し、季節は巡っても同じ夏は2度と来ないという既視感と創意性を理解している民族だから、真夏の一瞬間を切り取ったテニスの王子様の一瞬の輝きに惹かれ、戦いの暑さに胸を焦がすことができる。

四季のない国や常夏の国に生活する人々にとってはテニスの王子様の魅力は半減することだろう。

それは読者自らが体感した追体験でもある。

テニスの王子様信仰にはその信仰の形から仏教やキリスト教のような創唱宗教感があるが、その信仰の土壌を考えると、日本の土着信仰の一つとも言えるのかもしれない。

 

日本人の刹那、瞬間を慈しむ愛おしむ気持ち

夏の一瞬、青春の一瞬、を尊ぶ感覚を有している

一瞬を切り取ることに美を覚える

夏という単語から眩しさ暑さ激しさを連想できる感覚

消えてしまう眩しさを愛おしく思う

そんな自然災害の多い四季のある国に生きる人間に養われた感覚が、中学生の夏のたった3ヶ月間程度の凝縮された一夏の物語を愛でる感覚になる(なお、この説はいわゆる学園ものスポーツ系少年漫画が好まれる理由として共通するであろう)。

 

 

またテニスの王子様が発する創唱宗教感の原因としては、テニプリフェスタに代表されるライブが創唱宗教における礼拝に似ている感覚を覚えさせるからだと思っている。

礼拝における神や仏の御前においては一個人として平等な存在という自覚に似ている、テニスの王子様というコンテンツの前においてはファンは皆等しく同じという平等感を感じることがある。

 

 

と、以上のようなことを最近は考えています。