絶望の姿
『テニスの王子様』が描き出す人生への圧倒的肯定感を語るために用いた作中における絶望の姿を考えてみたい。『テニスの王子様』が絶望として表現したのは何だったのだろうか。
なお本稿は以前にアップロードした下記過去の記事と内容は重複しますがご容赦ください。
・https://namimashimashi-tpot-373.hatenablog.jp/entry/2019/02/24/225516
・https://namimashimashi-tpot-373.hatenablog.jp/entry/2019/01/05/032649
まず一般論として、古来より人間は思考上、”人間の死”を人間存在の限界であると捉えて絶望としていた。
そのため諸宗教では、その方法の違いはあれど、死をどう克服するか、死とどう向き合うか、という問題を取り扱っているものがほどんとである。
人間という存在に限界があることは絶望であり、人間存在の限界は死ぬことであり、すなわち死が絶望なのである。
その絶望に向かっていく生との付き合い方を説くのは重要な宗教の一側面なのだ。
この世に存在する宗教というものの発端を考えると、一点においては、死という人間存在の限界への絶望と付き合うものだと見る事ができるだろう。
例えば、一般にはキリスト教は救いの宗教、仏教は覚りの宗教と言われている。
死を救いとしたり、死について覚ったりすることで絶望せずに今生を生きることができる。
人間にとっての死は古来より絶望と捉えられており、その絶望と向き合うための手段として宗教的な発想が発展してきたのが人類の歴史である。
頻繁に宗教的だとされる『テニスの王子様』であるが、例えば『テニスの王子様』を宗教だとすれば『テニスの王子様』が答える絶望との付き合い方はどんなものなのであろうか。
それは、死を見えなくなるまで生に集中することなのではないだろうか。
一点集中「この一点を見極めろ」である。
『テニスの王子様』は絶望を超えていくストーリーだ。
語るまでもなく無印『テニスの王子様』における最大の敵(ラスボス)は幸村精市である。
主人公が最終的に越えるべきラスボス、すなわち、『テニスの王子様』ストーリーにおける最大の絶望は幸村精市の姿をしてやってきた。
『テニスの王子様』における絶望は"通用しない"とほぼ等しい。
"通用しない"とは"無力"であるということだ。
目の前で起こる全ての事象に対して自らは精神的にも肉体的にも為す術が無い状態を存在の限界として五感剥奪(イップス)で表現している。
これは推測だが、『新テニスの王子様』における絶望は最初は平等院鳳凰の姿をしていた。おそらく最終的には手塚国光になるのではないだろうか。
『新テニスの王子様』になると絶望は破壊の形をする。
『新テニスの王子様』21巻において越前リョーマが平等院鳳凰を本当に倒したいのかという自問自答を超えるまでは平等院鳳凰が絶望であった。
『テニスの王子様』において主人公の越前リョーマは一度絶望を超えている。
絶望を超える力を希望と呼ぼう。
”天衣無縫の極みに到達する "という現象は、獲得したものの喪失から再獲得する行為、だと再定義したい。
すなわち自信や技術などといった精神的な働きを含め何らかの経緯で獲得したものの喪失は、絶望との直面であり、その絶望の克服が天衣無縫の極みの扉を開いた状態だと捉えている。
そして絶望を超える事を希望とするのであれば、『テニスの王子様』における絶望が"通用しない"で表される"無力"であったのに対し、『新テニスの王子様』の世界観では希望の対義語は"破壊"である。
光る球が平等院鳳凰が打つ時はデストラクション=破壊であるのに対し、越前リョーマが放つとホープ=希望になるのは、このためである。
話を『テニスの王子様』に戻そう。
『テニスの王子様』での最終決戦である全国大会決勝戦シングルス1の試合描写において、幸村精市は越前リョーマのことを「ボウヤ」と呼ぶ。固有名詞では呼ばないという一個人と認識しない、偏に風の前の塵に同じ。スーパールーキー、メタ視点でいえば物語の主人公であっても、他の対戦相手と何も変わらない存在としてしかみていないことがうかがえる。後に『新テニスの王子様』になると「”あの”ボウヤ」とボウヤが固有名詞化する。
全国大会決勝S1越前vs幸村は精神性の高い試合である。
幸村のマジレステニスで「ずいぶん現実的なんだね」と無我の境地でくりだす過去の対戦相手の技、記憶喪失から戻ってきた記憶のカケラをことごとく返球し、「どんな技も… …誰の技も …何も通用しない」と圧倒→どんな逆境でも諦めない精神力で百錬自得の極みのオーラを適材適所に集めることで返球するようになる→「テニスなんてもう無理だろう…」と医者に言われた過去(幸村自身の絶望)を思い出して精神力を立て直し「どこに打っても返されるイメージ」を対戦相手に見せる五感を奪われたようにイップスに陥る→「テニスを嫌になる状態」と称されるイップスを「テニスを嫌いになれる訳ない」と克服し、逆に「テニスって楽しいじゃん」「楽しんでる?」と聞き返す→「ふざけるな!テニスを楽しくだと!」と反論する気力で試合も盛り返す幸村→手塚「今こそ青学の柱になれ越前」越前「ういっス」サムライドライブとこの一点を見極めろ勝利
作中で幸村が罹患した病気は”手足がまず動かなくなり 徐々に体の自由が奪われ”る病気であり、自身の対戦相手の五感が失われている状態に似た状態を自身も経験しており、また彼自身はその状態を「誰もがもうテニスをするのも嫌になるこの状態」と評している。
「やはり君は危険すぎる」というのは自分も乗り越えたテニスができなくなる状態に同じく立ち向かう格下の者を脅威として捉えているのではないだろうか。
五感を失われた状態、ボールを返したくなくなる、テニスをしなくなくなる状態は、テニスコート上では終わりに等しく、テニスを人生と捉えればテニスの終わりは人生の終わりすなわち死に等しい状態。要するに五感を失われた状態は瀕死に近い。
瀕死状態にあってなおテニスを続けようと、生き続けようとする意思が天衣無縫の極みの扉を開かせた。
スコアは前半0-4までは幸村がほぼ完封で試合を進めるが、4ゲーム目に1ポイントだけリョーマがポイントをとっている。
百錬自得の極みのオーラを適材適所に集めることで返球しているリョーマに対して幸村精市は「このボウヤはいったい…」とリョーマの可能性に恐れを抱き、精神的に揺らぐ。
またこの百錬自得の極みのオーラを適材適所に集めることで返球している状態に幸村精市は「こ これがまさか…」とまだ見ぬ天衣無縫の極みを予感しているが、のちに実際越前リョーマがたどり着いた天衣無縫の極みについて乾貞治が「百錬パワーを適材適所に移動させたアレの進化版みたいなもの」と解説をしている。
それでは『テニスの王子様』において幸村精市は何のためにテニスをしていたのだろうか。
全国大会決勝戦シングルス1の時点で彼は立海三連覇の”ために”テニスをしているのである。
その時点において彼もやはり他者の基準の理由に囚われた一人であった。
対して越前リョーマは結果的に青学の全国優勝をもたらしたが、彼がテニスに勝ちたい、テニスに負けたくない理由は、勝ちたいから、負けたくないから、であって、青学を全国優勝に導く”ために”テニスに勝ちたいのではないのである。
手塚「今こそ青学の柱になれ越前」青学の柱は越前リョーマの心の枷にはなっていない。
義務感ではない自主選択制。そこに自由意志が介在している。
越前リョーマは青学の柱になれど、青学のために戦っていたわけではないわけで、そこが幸村をはじめとするチームのために勝利しようとしたライバル校たちとは異なっている。大義名分のために試合をしていたのではない。
青学の柱とは、青学のために戦う存在ではなく、青学の他メンバーが柱の存在を目指し、柱のために戦うことができる存在のことであろう。一と全体の価値観は対等なのである。青学はOne for All. All for One.梵我一如。全は一、一は全。宇宙の法則を頂点に導いたのがこのストーリーを貫く思想なのだと読む。
この立海三連覇のためという理由から解放された時、それが神の子が人の子になった瞬間である。
とはいえ、『テニスの王子様』『新テニスの王子様』は何かを背負うことに対して否定的な価値観を有しているわけではないとみている。
事実、幸村が盛り返したのはチームのことを思い返して立海のことを精神の支えとした時である。
また、(『新テニスの王子様』の読解は完結した後に本格的に取り組もうと考えているため深くは考えていないがという断りをした上で、)フランス戦でデューク渡邊をS1に起用した三船コーチもその気持ちを汲んでおり、また、S3でメディカルタイムアウトを時間いっぱい使わせた平等院鳳凰や、スイス戦S3で「選手が戦おうとしているのを止めるな」と審判に言い放ったアマデウスなど、最強ランクのキャラクター達は自らの力を増幅させるモノ・何かがあることを否定してはいないことが伺える。
青学の柱になれ、という手塚の声かけも、全国氷帝S1の越前リョーマが気絶から立ち上がった時に青学の先輩たちを思い出したように、もう一手となりうる存在・動機を認めている。
重要なのはその自分の外的動機との付き合い方であり、プレイヤー自身の心がそこに囚われていないこと、まさに天衣無縫の状態でテニスに向き合えているかどうか、なのであろう。