超解釈テニスの王子様  人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

人生への圧倒的肯定を描き出す『テニスの王子様』と、その続編『新テニスの王子様』についての個人的な考察を綴ります。 出版社および原作者など全ての公式とは一切の関係はありません。全ては一読者の勝手で個人的な趣味嗜好です。 Twitterアカウント:@namimashimashi

平等院鳳凰は"頭(かしら)"である

Twitterで呟こうとしたら3,000字近くにまで及んでしまったのでブログにも載せることにしました。

Twitterは140字なのにね。

何考えてんだ、お前。っていう。

 

そんなわけで考証とかあんまりしていないし、Twitterばりの砕け口調です。

いつもブログ書く時に(実は)意識している論文調ではないです。

あとPrivatterにアップした文章からやっぱり少し手を加えています。

読み返すほどに書きたいことが増える。テニプリ考察はやっぱり底なし沼。

 

さて、閑話休題

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平等院鳳凰という人間的にどうなのレベルの暴力テニスをする人間がトップである理由を考えました。

 

私、お頭 平等院鳳凰が好きなんです。

新テニを考察しようとするとどうしても平等院鳳凰の分析を避けて通れないよなとかなんとか思っているので平等院鳳凰氏については定期的に思いを馳せています。

 

選抜合宿編あたりは(こんな倫理観崩壊したみたいな奴をトップに据えて大丈夫かよ)と思っていたけど、色々ここまで見てきて考えると「トップはこの人しかいないわ」と思う様になりました。

私の問いは「平等院鳳凰は本当にテニスで一番強いのか?」。
それは選抜合宿で高校1年生に鬼に敗北しているところからくる疑問なのですが。
平等院鳳凰って負傷していたとはいえ2年前の世界大会でフランス戦でも負けてるし、入れ替え戦でも徳川にあと1ポイントで負けそうなところまで追い込まれているし、以前の世界大会でアマデウスとのシングルスにも多分あれ負けたんでしょう。「一切負ける気がしない」とか強いことを言っているからそう見えないけど、実のところ負け描写が多いキャラだし。
そんな平等院鳳凰氏が現Genius10のNo.1なのはなぜ?となっておりまして、代表選抜合宿は実力社会なので強くなったから、という単純な話だとは思いつつも、精神世界の観点から考えると、はあなるほどトップは平等院がふさわしいよ、と腑に落ちているのです。私の中では今のところ。

テニプリにおけるテニスの強さが精神面の強さに左右しされがちなのは、これは無印テニスの初期中の初期から変わらないテニプリ世界の基準の一つだと思います。山吹戦S2越前vs亜久津では明確に言及されているし。

さて、で、平等院鳳凰さんのことですが、この人の精神の強さは"人間として強い "という部分なんじゃないかと思っているわけです。私が好きなのはこの部分。
"人間として"強いので、人間やめそうな人を人間で止まらせておくことができる。格上なるは、他人を身内に引き摺り込むことまでもできる人なんじゃないかと。

ちょっと脱線しますが、"人間止めるレベルの人"(格好良くいうと"人ならざるものになろうとする人")を"人間"でいさせられるのは他人にしかできません。
人間をやめた人は人型を取っているヒトという生命体であり、人間ではない。人ならざるものになろうとしている人は得てして孤独になる。人と人の間に生きる"人間"ではなくなってしまう。しかも人ならざるものの領域に手を伸ばすその人本人はそれが意識的であれ無意識であれ積極的に孤独を選びとってしまうものです。
だから、人間やめるレベルの高みへ登る人を"人間"でいさせるには、その人を孤独にならないようにしなくてはならない。
その方法は、人間やめるレベルの人と同じレベルに行くか、人間やめてしまった人を変わらずに人間として接するか、だと思うのです。

平等院鳳凰氏はそのどちらの手法も取ることができる。鬼や亜久津との関わり方を見ていてそう感じています。

そして、さらに、これが一番重要なんだと思うのだけども、平等院さんは自身が孤独にならなず人間の形をとり続けることができる。

人間を保ちながら強くいられるのは特殊能力です。
孤独を選びとらずに高みに手を伸ばすことができる人などそうそういない。
それができるのが平等院鳳凰という人間なのだと思うのです。

テニプリが新テニになり、越前リョーマ以外のテニス描写にもスタンドが現れる様になったけど、平等院鳳凰のスタンドは海賊です。
鬼十次郎は鬼神、徳川カズヤは阿修羅です。
平等院はスタンドが神様の類ではなく、人間社会の姿をとっているのですよ。
まあ、実際に描かれた海賊は白骨化していたので、本当に人間かよ、とも思うけど。

平等院鳳凰という人間は没我的でありながら自意識と組織目標に乖離のない人物であり、自らの力は日本チームの勝利のために用いることこそが自分の願いである。
平等院はチームの勝利のために生きているから彼はどこまで強くなったとしてもチームという他人ありきの発想なので決して孤独にならない。
その芯が決して揺らがない限り、彼は人間を自らやめることはない。その強さがある。

平等院鳳凰は"人間として"強い。

そういう点において私、本当に、平等院鳳凰お頭が好きなんです。
頭領たる器の人間だなと思うんですわ。
比較することでもないとは思うけども、鬼とか徳川はNo.1にはなれるかもしれないけれど"頭"にはなれない。
平等院は逆で、No.1でなくても集団を率いる頭(まあ今No.1だけど)ではある。

それでいうとGenius10はこの"頭性"みたいな順番に並んでいるようにも見えるなぁとか思っていまして。
平等院に一番近いのはNo.2の種ヶ島。
"人間やめそうな他人の手を引ける人"であるかどうか。
Genius10の中でそれができるのはNo.1&2の2人に強く感じる。
他人の手を強く引いてしまうことができる人なのですよ。
人間やめるレベルの高みへ登ろうとする人を人間でいさせられる強さで他人に関わることができる。
気持ちの持ち様ではなく、現れる結果が他人のためになる風に動くことができてしまう人々。
人たらし的な側面がある。
求心力という点において組織のトップたる人物といわれて納得できる。
種ヶ島修二にもこういう"結果的な人たらし"要素を感じられるなぁと思っています。


でもね、やっぱりNo.1の平等院鳳凰は、この
・人間やめそうな人を人間で止まらせておくことができる
・他人の手を強く引いてしまえる
・自ら人間をやめることはない
の3点を、意識せずに当たり前のこととしてやっているあたり、生まれながらのお頭の器なのだと思うわけです。
やっぱりこの人がNo.1だぜお頭。お前たちのリーダーだよ。

まあ相手をボッコボコにマジで殺そうとするテニススタイルをとる神経はよく分からないけど。
擁護するように見ると、あれは平等院なりの選別試験的なものなのかもしれないと今のところは思っている。懐に入れるべき相手かどうかを見極めている。死ぬほど不器用だな、おい。

私は平等院の日々が報われる日がきたらいいな、と思っているけれど、多分、彼は自分自身が報われようなど1mmも思っていないだろうあたりがやっぱり好きだと思う。
それはもちろん日本代表が世界大会で優勝する勝利を勝ち獲りたいとは思っているだろうけれども、平等院自身は今までの自分の日々が報われたいからその日が来てほしい、という意識はきっと無いんだろうな。
本当に純粋に日本テニス界を世界の頂点へ導きたいだけ。
すごい人だ。真似しようと思ってできることじゃない。

あと平等院鳳凰には自己犠牲の悲壮感みたいなのが全然ないあたりも良い。
覇王の安心感がある。
自分を慕うものに自らの身を案じさせない領域まで強くなってくれている安心感たるや。
私もお頭って呼びたい。
そういう部分も含めて彼は頭領の器を持って生まれてきた人物であり、U-17JAPANチームは彼に統率してほしいと思うよ。

最後に脱線するけど、次世代Golden ageの話をすると、現行中学3年生キャラクターでテニススタイルが一番平等院に近い人物は幸村精市だと思いますが、自らが強くなる方法に孤独を選ばない点においては跡部景吾に信頼をおくので中学生チームのリーダーが跡部なのはやっぱりこの自分とチームとの関係というか意識の持ち方が新テニの価値観において組織のトップに必要な要素だと判断されている部分なのではないかな、なんて思うわけです。

新テニ読みたい。日本チームに勝ってほしい。
平等院鳳凰よ、導いてくれ。期待を重圧になど微塵も感じずに前を見据えていてほしい。