超解釈テニスの王子様  人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

人生への圧倒的肯定を描き出す『テニスの王子様』と、その続編『新テニスの王子様』についての個人的な考察を綴ります。 出版社および原作者など全ての公式とは一切の関係はありません。全ては一読者の勝手で個人的な趣味嗜好です。 Twitterアカウント:@namimashimashi

スポーツ漫画は現実スポーツの前座ではない

テニスの王子様』『新テニスの王子様』を考察する面白さは、緻密に構築された世界観の秘密を解き明かすような類のものではない。

異世界ファンタジーやサスペンス・推理物の考察とは異なり、作品全体を通して発するメッセージやエネルギーが何であるかを掴み取ろうとするための考察だ。

テニスの王子様『新テニスの王子様』の読解考察はスポーツの解説に近い。

 

私は、許斐剛はスポーツ漫画を描くのに適した漫画家なのではないだろうか、と考えている。

許斐剛という漫画家が好んでとる”サプライズ”という手法が現実世界におけるスポーツの予測はできるが先の読めない、結果を読み解くことができない、何が起こるかわからない様に似ている。

“完全には理解できない”というのもまた現実のスポーツでも稀に起こりうるスーパープレーのような超次元のレベルのプレイを模している部分かもしれない。

理解できないようなことが起きるというまた現実の不可思議な、超人的な側面を演出できているのかもしれない。

つまり、『テニスの王子様』『新テニスの王子様』で起きていることは、一般常識や物理法則を逸脱している、常人には理解できない、理解する必要もない、それで良いのかもしれない。

 

無印『テニスの王子様』関東大会 青学vs氷帝 S1手塚国光vs跡部景吾の試合中に出てくる言葉『この試合いつまでも見ていたいな』(単行本18巻 Genius153 まぼろし より)というのは試合内容が良くてずっと見ていたいとかそんな単純な感情ではない。決着がついてほしくない。どちらかが敗者になるのを見たくない。それならばいっそ永遠に続いて欲しい。という感情があるということは2019年全英オープン勝戦ロジャー・フェデラーvsノバグ・ジョコビッチを観ていて私の中に湧いた感情だ。

ロジャー・フェデラーの言葉に「テニスに引き分けはない。必ずどちらかが敗者になり勝者になる。」がある。

こういうことに気がつくのはどうしたって現実のスポーツだ。

許斐剛はきっと現実のスポーツでこの感情を味わったことがあるのではないだろうか。

だから「どちらも勝たせたかった」(BEST GAMES!!手塚vs跡部 パンフレットより引用)と15年以上経っても言えるこの手塚vs跡部の試合の観客のこぼす心情としてこの言葉を持ってきたのではないだろうか。

 

テニスの王子様』『新テニスの王子様』の根底にあるのはいつだって現実世界のスポーツへ対する圧倒的なリスペクトだ。

 

その一方で、『テニスの王子様』『新テニスの王子様』には、ファンタジーである漫画が現実のスポーツには無い魅力を提供するためにできることは何か、現実のスポーツとは違う方法でアプローチするしかないというある種の危機感があるように見受けられる。 

テニスの王子様』はともすれば、主人公が勝利するという結果ありきの決まり定まった先が読める王道少年漫画だと思われがちだ。

だがその実情は異なる。

上述のように、”先の見えなさ”を抱えた現実のスポーツに対抗するべく練られたスポーツを題材に取り扱う新機軸の少年漫画だ。

確かに結果的には主人公である越前リョーマは必ず勝負に勝つ。

勝敗ではないところでその予測不可能性を提示しているにすぎない。

それは、おそらく、結果の予測できなさでは現実のスポーツを超えることができないからなのではないだろうか。

結果ではなく、現実のスポーツがどうやっても手を出せない部分、想像力がポイントとなる部分で現実のスポーツに対抗するような娯楽エンターテインメントとして存在するべく工夫されている。

 

テニスの王子様が、テニスをしない層にアプローチ・ヒットしているのはそのマインドが寄与する部分も大きいだろう。

 

スポーツ漫画らしい部分は、偶然性、次に戦ったときはどちらが勝つかわからない、さらには、スポーツである以上当たり前だが、次回の対戦の可能性があるという部分だろう。バトル漫画に次回はない。再戦というのは稀な話だ。

その一方でバトル漫画っぽい主人公無双やヒーローによる勧善懲悪ストーリーがある。

テニスの王子様』の先人である週刊少年ジャンプ漫画である『ドラゴンボール』は再戦を可能にした仕組みにおいてスポーツ漫画の要素を取り入れたバトル漫画ではないかと考えているが、そうであるとすると『テニスの王子様』はバトル漫画要素を取り込んだスポーツ漫画、スポーツ漫画におけるドラゴンボールといえるのではないだろうか。

余談だが、スポーツ漫画を基にしたバトル漫画の前例はおそらく『キャプテン翼』が考えられるのではないだろうか。

 

テニスの王子様』は、テニスを描写する漫画ではなく、テニスを介して表現する漫画なのではないだろうか。

 

バトル漫画の特徴としては主人公無双(主人公が敗北=死となりほぼ物語が終わってしまうので)、バトル漫画は静止画密接に絡んでいるので、人生に効く、普遍的な真理を語る。人生の悲哀と希望が描かれている。

テニスの王子様に人生に効く名言が多いのは、スポーツ漫画版のドラゴンボールだからであると考えられるのではないか。

書籍『テニプリパーティー』の置鮎龍太郎氏のメッセージ「人生を支える深い言葉を与えてくれた事。『油断せずに行こう』これがあればこの先も生きていけます」が顕著だろう。

 

また、『テニスの王子様』においては、それぞれのキャラクターにとっての最強ライバルと第三者的俯瞰視点における最強キャラクターが異なる。

この点においてはスポーツ漫画の特性を上手に活用しているといえるだろう。

そのため、勝負に負けても最強で居続ける一見矛盾してしまうような現象がおこる。

これが顕著なのが手塚国光だ。

バトル漫画では敗北=死すなわちストーリーからの実質的な退場になってしまうが、スポーツ漫画では勝負に負けてもストーリーから退場する必要がなく、また、リベンジの機会が与えられる可能性がある。

この人間模様の複雑さがまたストーリーに深みを与える。

 

いわば、キャラクター漫画としてバトル漫画とスポーツ漫画のいいとこ取りを成し遂げた、むしろ、バトル漫画とスポーツ漫画のハイブリッドを完成させるためにキャラクター漫画となっているともいえると考えている。

 

 

テニスの王子様』はテニス経験者には不評だという説がある。

作中のテニスが物理法則の面において現実的ではないことが理由だという。

感情移入がしづらいのだろう。

テニス見経験者の方がテニスの王子様にはまりやすいらしい。

それは、テニスの王子様はみんなの物語だからなのではないだろうか。

現代を生きる人が自分に引き付けて読むことができる人間ドラマの物語。

テニスの王子様は生まれ持った血や才能でテニスに挑むスタートラインに差をつけない。挑むことは自由だ。誰でも挑戦することができる。

テニスコートとテニスラケットとテニスボールを使った生命の物語、バトル漫画といえないだろうか。

ジャンプGIGA2017年vol.1掲載の対談で許斐剛が言う"筋書きのないスポーツを観るワクワク感に漫画が勝つのは難しい。フィクションのシナリオより、ノンフィクションの方が時におもしろかったりする" という感覚は真理だと思う。

 

現実のスポーツをスポーツと漫画を同じ土俵で考えるな、というのも分からなくはないが、この2つをスポーツ観戦と漫画としてエンターテインメント・娯楽と捉えれば同じジャンルのものだと考えられる。

漫画が娯楽としてスポーツ観戦に勝てないということは、娯楽として選ばれなくなるということだ。

漫画が選ばれ続ける、読まれ続けるためにはノンフィクションのシナリオを勝負ができなくてはならない。

生命を賭けた戦いを繰り広げるバトル漫画は現実には決して起こり得ないフィクションエンターテインメントとして現実的な娯楽と娯楽として選ばれる勝負ができるかもしれない。

一般人が普通に暮らす中では目撃することが叶わない世界をフィクションで見せる漫画はそれだけで現実の体感を伴う娯楽とは一線を画することができるだろう。

ではスポーツ漫画はどうだ。

スポーツ漫画の役割は現実のスポーツの魅力を伝えるモノなのだろうか。

ノンフィクションのドラマへ人々の目を覚ますためのガイドフィクションなのだろうか。

スポーツ観戦をすれば漫画以上のドラマが待ち受けている現実のスポーツに目を開かせる伝道師にすぎないのだろうか。

我々、読者/受取手/コンテンツ消費者は、スポーツ漫画を"どれだけその題材スポーツを盛り上げたか/魅力を伝えることができたか"で評価してはいないだろうか。無意識のうちに。

題材スポーツの先、スポーツを超えたメッセージを読み取ろうとしているだろうか。また、その部分を見つめようとしているだろうか。

スポーツ漫画がスポーツ漫画のままで娯楽として選ばれ続ける方法。『テニスの王子様』『新テニスの王子様』は、現実に観ることができてしまう世界を取り扱うフィクションが、そのままで現実とエンターテインメント性で戦っていくための一つの答えなのかもしれない。