超解釈テニスの王子様  人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

人生への圧倒的肯定を描き出す『テニスの王子様』と、その続編『新テニスの王子様』についての個人的な考察を綴ります。 出版社および原作者など全ての公式とは一切の関係はありません。全ては一読者の勝手で個人的な趣味嗜好です。 Twitterアカウント:@namimashimashi

天衣無縫の極みについて考える_幸村精市とテニス

幸村精市は天衣無縫の極みの文脈のキャラクターではないのではないか。


天衣無縫は誰もが持ってるので、"天衣無縫の極みの文脈ではない"というと語弊があるかもしれない。

 

本稿は以前にこのブログにアップした天衣無縫の極みについて考える_人生の辿り着くべき場所への到達 - 超解釈テニスの王子様 人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

天衣無縫の極みについて考える_人生の辿り着くべき場所への到達

から更に考えたこと、及び、考えた結果、違う見解をもった点について記す。


幸村精市は自らの意思によるテニスの喪失を経験していないのではないか。
突然の難病による外的要因での喪失は経験しているが、
Genius374 最終決戦!王子様VS神の子④での入院時の回想内での発言「テニスの話はしないでくれと言っているんだ」
これはテニスを嫌いになったのではなく、ネットスラングで言うところのいわゆるテニスに対するクソデカ感情というやつではないだろうか。
テニスができる奴が羨ましい、嫉妬。
自分もできることならもっとテニスがしたい、焦燥。
テニスが無理と言われたことへの悲しみ、悲壮。
そいういう感情が内混ぜになって渦巻いた状態であって、決してテニスそのものが嫌いになったり、テニスをもうやりたくない、テニスをするのが苦しい、そんな思いになった訳ではないのではないだろうか。

幸村精市はテニスを諦めないのである。

テニスの王子様において、このあたりの厳密なニュアンスや定義が難しい。

少し話が逸れるが、竜崎桜乃越前リョーマへの感情も作者の許斐剛曰く「越前リョーマのテニスが好き」(テニスの王子様 20周年アニバーサリーブック TENIPURI PARTY掲載 オールテニプリSP対談①皆川純子×許斐剛より)であって、リョーマが好きとは明言されてはいない。

このあたりの微妙なニュアンスや定義の隙間は、テニスの王子様が漫画という絵と文字をコマ割りで表現する手法で語られるストーリーである以上、仕方がないのだけども。

話を幸村精市の天衣無縫の極みに戻す。

新テニでイップスに陥った幸村精市も、誰もがテニスが嫌いになる状況で〜とはモノローグしているもののいやに分析的で、読み方によっては前向きにイップスからの回復方法を考えることに、つまり、テニスを継続する意思があると見える。

イップスの克服=天衣無縫の極みにならなかったのは、幸村精市が獲得からの喪失からの再獲得プロセスを辿ったにもかかわらず天衣無縫の極みに辿りつかなかった例外なのではなく、そもそも再獲得プロセス自体を辿っていない。

獲得→喪失→再獲得プロセスについては、天衣無縫の極みの扉を開くためにはGenius378最終決戦!王子様VS神の子⑧での越前南次郎の発言「いつしか どいつもこいつも あん時の心を忘れちまう」からもテニスを楽しいと思うようになった後にその気持ちを忘れ、そして、思い出す道順を経ることが伺えるだろう。

天衣無縫の極みの到達への喪失には自分の意思、精神の方向性が作用している必要があるのではないだろうか。

テニスの王子様』『新テニスの王子様』の作中で越前南次郎を除く天衣無縫の極みの扉を開いた人物たちの様子を鑑みれば、
越前リョーマは「テニスってこんなに辛かったっけ」(Genius376最終決戦!王子様VS神の子⑥)
手塚国光「そんな部活なら…オレ辞めます」(Genius146事実発覚!)(※ テニスそのもの自体ではないので論拠としては弱いが自覚的なテニスへの嫌悪感として読み取る。)
遠山金太郎鬼十次郎による状態分析の「魂(ハート)の火も燃え尽きちまったかよ」(Golden age98更なる高みを求めて)
と、物理的な結果のみならず精神的な方向性が喪失に関わっている。

無印『テニスの王子様』は“テニスは人生”の全体で一つの大きな話である一方で、『新テニスの王子様』は“各人の人生でテニスをする”というそれぞれのストーリーが集まった話だと読み取っている。

また無印『テニスの王子様』の答えは「テニスって楽しいじゃん」であって天衣無縫の極みそのものではないと解釈している派でもある。
天衣無縫の極みはテニスが楽しくて夢中になっていたころの気持ちを思い出した結果として体現された状態であって、天衣無縫の極みが至高なのではなく、物語の結論として導くのであれば、そこにたどり着く心境の「テニスって楽しいじゃん」の方なのだと思う。
これもテニスの王子様の言葉の微妙なニュアンスや定義の隙間による解釈の揺らぎがある部分の一つだとは思うが。

さて、冒頭の幸村精市はそもそも天衣無縫の極みとは違う文脈で強くなる方向のキャラクターだったのではないか。の問いに戻ろう。
『新テニスの王子様』は『テニスの王子様』へのアンチテーゼとしても作用しうるだろう。
人には人の天衣無縫、とまでは言わないが、矜恃の光の精神派生のように天衣無縫の極みのその先があったり、『闇(ダークサイド)』や各人の海賊・阿修羅・鬼神・侍・騎士のようなスタンドなど天衣無縫の極み以外の強さが体現した状態があったりする。


テニスの王子様』の価値観がたどり着いた先には必ずその先がある。
幸村精市もそちら側の人間であり、テニスの王子様の文脈を引き継ぐ人物ではない。

まとめると、幸村精市はテニスそのものに対してはネガティブな感情を抱いた訳ではないのではないだろうか。
また、天衣無縫の極みへの到達には喪失からの再獲得プロセスがあるとしていたが、その喪失は自らの意思による喪失である必要性があるのではないか。と現時点では考えるに至っている。