超解釈テニスの王子様  人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

人生への圧倒的肯定を描き出す『テニスの王子様』と、その続編『新テニスの王子様』についての個人的な考察を綴ります。 出版社および原作者など全ての公式とは一切の関係はありません。全ては一読者の勝手で個人的な趣味嗜好です。 Twitterアカウント:@namimashimashi

僕の青春を不二周助に捧ぐ

これは、2001年に不二周助に魅せられ、それから18年強の間、不二周助に対して向けてきた感情を煮詰めてドロドロにしてしまった、もうどうしようにもまとめられなくなってしまった、私の不二周助への執着と願望と感謝を綴ろうとした文章である。

 

===

 

不二周助に惹かれた理由はなんとなく覚えている。

私が『テニスの王子様』を読み始めたのは単行本10巻が発売された頃だった。

聖ルドルフとの団体戦が終わり、校内練習試合の越前リョーマvs不二周助が掲載されている巻だ。

私にとって聖ルドルフ戦〜校内vsリョーマ不二周助があまりに印象的だったのである。

聖ルドルフ戦の団体戦全体でのカタルシスは気持ちがいい。

このカタルシスの決定打を打つのが不二周助なのである。

その直後に描かれる態とスリルを求める試合展開にもっていくバケモノ感。

圧倒的に格好良くて、私のヒーローになった。

 

 

まず、私が不二周助に惹きつけられて止まない魅力は数々あるのだけれども、その中から3点だけ語ります。

  1. 運動能力

身長167cm体重53kg靴のサイズ25cmという小柄な身体。10.5巻掲載のスポーツテストの結果好評において「しなやかで弾力性の高い筋肉を持っている」と評された筋力。筋肉トレーニングではなくスポーツで鍛えられた肉体。そのしなやかな筋肉が可能にする三種の返し球をはじめとした華麗なカウンターの数々。そこに美しさを感じずに何を見出そうか。不二周助の肉体は神秘。

  1. 精神的葛藤

本気を出すことや自分の限界を知ることへの恐怖、自分の存在意義を他人の中に拠り所を求めようとする不安定な自信、高みを目指さずにいられない自分を持て余してしまう葛藤、それらを乗り越えようと悩みもがき、一つずつのりこえていく姿に胸が震える。それでもドキドキワクワク胸が高鳴る瞬間が楽しくて、その感情に出会えるテニスが好きで、自分の大切な人が傷つけられると過激になる純粋さ。現実世界で不二周助と同じようにアイデンティティーや意志薄弱で悩む時、もがく彼の姿はとても身近で、それでいて進化し続けるテニスをする姿を見れば励まされる。

熱さと優しさと怖さと脆さが同居している不安定さと心の豊かさが不二周助という人間の深さであり、最大の魅力。

透明感がありつつも憂いを秘めている二面性を感じさせる声が最高にセクシーでかっこよくて大好き。甲斐田ゆき氏の美少年ボイスがこの世で最も似合う男。不二周助の声帯が甲斐田ゆき氏であることに何度感謝したことかしれない。あの声が不二周助の全てを表現している。巧いテニスも、穏やかさと激情の二面性も、不安定な思春期の少年らしさも、家族友人想いの優しさも、不二周助の全てを内包した声に魅せられてたまらない。

私が不二周助の声は甲斐田ゆきしかいない、と思っているのは声質もさることながら、不二周助のキャラクター解釈が完璧に合うからなのですね。

あのアニプリにおいて不二周助をBL的視点抜きで完璧に捉えている。新テニの手塚の幻影との試合でさえもBL視点抜きで捉えてみせているのは流石としか言いようがない。そこが大好き。

甲斐田さんの不二周助解釈のおかげで精神的に不安定さが残る他のキャラクターとは一線を画す”天才不二周助"が成り立っていると思っている。

確か昔のラジプリで「不二周助は自分の持った技術に精神の成長が追いついておらず、他人(自分の外)に精神的拠り所を求めないと自分の持った力を発揮できない部分があり、そこが彼の弱さであり成長克服すべきポイントである」といったようなことを仰っており、完璧だ…と思った記憶がある。

私自身、腐女子だし二次創作物を楽しむのは好きだし楽しんでいるけど、公式が全面に出してくると「なんか違う…」となるタイプなので、cv.甲斐田ゆき不二周助は本当に素晴らしいし、至高。

 

他にも魅力を感じることはたくさんあったけれども、不二周助不二周助であること、1人の中学3年生男子として、テニスの王子様として存在していることが一番の魅力なのだ。

 

----------------------------

 

次に、不二周助という人物の精神性にフォーカスして考察じみたことをしたい。

 

テニスの王子様』で心的外傷PTSDトラウマイップスに直面し克服する存在といえば手塚国光に他ならないのだが、物語以前からの心的な悲しみに直面しているのが不二周助である。

 

彼の悲しみとそれに伴う精神的な枷は、『新テニスの王子様』の段階でようやく外れることとなる。

『新テニスの王子様』で不二周助はもう一段階上に到達できた。作品中の言葉をそのまま使えば「不二周助は生まれ変わ」った(Golden age142)。

 

この変化を象徴する描写として団体戦における第一試合の勝敗を見たい。

テニスの王子様』において不二周助団体戦の第一試合にオーダーされた試合はダブルス・シングルス全て負けを喫している。

第一試合だったvs不動峰D2は棄権負け、vs山吹D2は3-6、vs四天宝寺S3は6-7と全て敗北している。

第一試合の勝率0%なのだ。

それが『新テニスの王子様』になり、15巻のプレW杯エキシビションマッチvsドイツ戦でダブルスとはいえ初戦第一試合で勝利を収める。

 

不二周助は自分のために力を発揮できないとも言われている。

自分に近しい人間の負けや不利益があった時に勝ち試合となっている試合が多い。

代表的なのは聖ルドルフ戦S2vs観月はじめの一試合だが、他にも関東大会氷帝戦S2vs芥川慈郎、関東大会立海戦S2vs切原赤也、比嘉戦D2vs平古場凛・知念寛ペアなども自分ではない誰かの敗北や屈辱を晴らすかのような戦いぶりが見られる。

本気で戦うことができない告白があった関東立海S2と四天宝寺S3。

それら全ての試合を踏まえた上での『テニスの王子様』全国決勝立海戦S2vs仁王雅治、すなわち不二周助の本編での最終試合で、ようやく不二周助は「過去に自分が負けた相手へのリベンジ」という自分自身の案件を含んだ勝ち試合を見せた。

その試合で顧問の竜崎スミレから不二周助について語られた言葉を見返すと、

「準決勝のあの敗戦が…不二を更なる高みへ押し上げおった」

「不二(やつ)め一試合で…手塚越えと前回のリベンジ双方ともやりおった」

などと言われている。

 

またこの全国決勝立海戦S2vs仁王雅治の試合中には

「どちらが上か決着がついてしまうのが怖かったから」

不二周助自身が独白している。

不二周助はトップとしてチームを背負うほどの覚悟は持っていないが、負けず嫌いだ。誰に対しても自分の優位は覚えていなくとも劣位は認めていない、という一面が伺えるだろう。

 

不二周助に問われているのは「テニスのためにテニスができるか」どうかへの問いへの答えのみではなく、天才、上手い人、技術のある人間がテニスのためにテニスができる様な時にどんな景色をみるようになるのかという答えも見せてくれることを期待したい。

 

また、手塚国光の救済について考えていた過程で気がついた"不二周助の戦う理由=生きる理由"と"自分の能力を発揮させる仕組み"についても考えたい。


無印『テニスの王子様』で不二周助の戦闘マインドは、その場その場で身近な誰かのために戦うスタイルだった。それが関東立海S2頃に自分が所属するチーム青学のトップである部長:手塚国光に触発されてチームの優勝のために戦うようになる。
無印で青学の優勝後、自分の戦う理由であった手塚国光への擬似的な勝利を経て本人そのものとの対戦を申し出、自らの壁を自らの手で壊そうとする意思表示をして無印は終わる。
新章の『新テニスの王子様』になり、手塚国光自体は青学の柱の枷が外れ、チームのために自己犠牲を働く戦い方から自分のために戦うようになる。手塚の戦闘マインドは「俺は負けない」から「俺は勝つ」へなった。
その時、不二周助は、自らが道標すなわち自分の戦う理由としてきた手塚国光手塚国光自身のために戦うようになってしまい、自分のために戦うことをしてこなかった不二周助は戦う理由がなくなってしまい、途方にくれてしまう。

Goleden age143〜144で描かれた合宿所でのテニスを辞めるための私的試合で見た幻影の手塚国光に言われた「道標は自分で作るんだ」。
プレイスタイルがカウンターという相手の打球に反応に特化するではなく、風の攻撃技(クリティカル・ウィンド)を身に付け攻撃的な自分から攻めるスタイルに変わる=不二周助は生まれ変わる。
不二周助は誰かの中に戦う理由を見出していたのを、自分自身が気がつき、自分の呪いを解いたので、今度は手塚国光の"中"に理由を見出すのではなく、手塚国光が"そうしたように"同じ方法をとることにしたのが新テニの不二周助の姿である。

誰かが強くなることで自分も強くなる。
その姿を自分事として引き寄せる。
新テニのドラマはこのスタイルで生まれる。

『新テニスの王子様』は『テニスの王子様』のように誰か(越前リョーマ)に負けなくても、触発という形で登場人物が強くなるのが特徴だろう。
敗北による救済はない。
真髄はプレW杯vsドイツ戦3試合目の徳川幸村ダブルスの試合だろう。
越前リョーマに触発される徳川カズヤと徳川カズヤに触発される幸村精市の姿。
これが後のW杯での中学生を導く高校生という形式につながっていく。
強くなることを正義とする。

不二周助は姉のテニスクラブについて行って始めたテニスに天賦の際があったことで弟に反感を買うようになってしまったけれど、弟が越前リョーマに敗北したことでもっと広い世界に目を向けてくれたことで弟が兄への確執から開放された。
次は不二周助自身が何かを理由に自分のために戦うのを避けずに向き合うことだ。
何かを理由に自分を諦めることなく、戦うように問うのはテニプリの真髄だ。

 

「どれくらい眠れば一人で強くなれるのだろう

苦しみも悲しみも本当の心の姿」

不二周助KIMERUのYou got game?をカバーした時は、不二周助のキャラクターとその歌詞とのリンクに痺れた。2番の歌詞はその苦悩ともがく姿そのままだと思う。

 

-------------------

以下はただの自分語りです。

 

自分のコンプレックスの克服が自分一人でできなかったどうしようもない話。

 

私は、小中学生の頃、それなりに真剣に演劇をやっていた。

部活レベルをどれくらい真剣と捉えるかは社会的なモノサシで計れば大したことがない気もするけれど、自分の中では真剣にやっていたのだ。

私は自分の演技力には自信があった。

役者をやれば誰にも負けないと思っていた。自分より演技の上手な同年代なんていないと思っていた。それが事実かどうかではなく、そのくらいの入れ込みで演劇を役者をしていた。

脚本を読めば自分がハマる役は分かったし、オーディションは基本的に第一希望で通った。

誰にも負けない、ものだった。

高校進学を機に演劇をやめたのは、もうこれ以上先が無いとふと感じたからだ。

それは、その時にの自分に見えていた役者の世界が容姿を磨くことが必要だったり、力を賭したわりには儲けることができなかったり、そういう未来があまり見えない世界に見えていたからでもあり、そんな世界をこれ以上突き詰めるのであれば、他のことをしよう。勉強もしたい、運動もしたい、そう思って自分が演じる世界とは決別する進路を選んだ15歳だった。

 

それが良かったのか悪かったのかは今でも分からないし、判断したくないのだけれども、確実に認識している悪影響が1つあった。

 

演劇が観られなくなってしまった。

 

正確に形容すると"ハイクオリティの演劇作品以外は舞台映像含めて楽しめなくなってしまった"。

 

舞台を観に行っても、ドラマを観ても、映画を観ても、アニメを観ても、演技が粗いとダメだしをしたくなってしまった。

さらにそれが容姿の優れた演技下手な演者だと最悪だ。

やはり演劇の世界は容姿で商売するのだ、などという真っ黒な感情で気持ちが支配されてしまう。

加えて照明や音響も気になる作品はもう一切受け付けない。

嫉妬のどす黒い感情を抜きに演劇鑑賞ができなくなった。

何も気にならない一部の作品しか触れられなくなった。

 

そんな状態で過ごすこと10年以上、今、ようやく他の演劇作品も観てみようと気持ちが緩和してきている。

 

きっかけはテニミュだ。


テニミュが演劇としてクオリティが高いとは正直思っていない。 

それでも、気持ち悪くなることなく演劇を観られるようになった。

アンケートを書かせてくれることも大きいのかもしれない。

3rd season最後の全国大会青学vs立海後編を観劇した時も、嫉妬心からくるイライラを覚えないわけではないけれど、未熟な舞台や演劇作品に対して感情が穏やかになり少しずつ観られるようになった。

慣れもあるし、それはそれでそういう楽しみ方があるんだなぁ、と思うようになった。

 

自分が少し大人になったのかもしれない。あの時演劇を辞めた自分をようやく受け入れることができるようになってきたのかもしれない。

そのきっかけをくれたテニミュには感謝している。

 

私の最愛キャラクターはテニプリに初めて触れた時からずっと変わらず不二周助だった。

 

恋慕ではなく憧憬に近かった。

不二周助の中に自分を観ていた。

彼の悩みが手に取るように分かった。

彼のように天才と呼ばれ、ふるまいたかった。

不二周助にはいつでも私の悩みを共有してほしかったし、その苦しみを打破するべく戦ってほしかった。その姿を見て慰められていた。

 

それが時が経つにつれて不二周助以外のキャラクターも好きになった。

でも、彼のように自己投影をして好きになったキャラクターはいない。

 

18年が経った今、もうキャラクターに自己投影はできなくなってきた。

自分が大人になったのかもしれない。

純粋にかっこいいから好きだと思うようになった。

自分のメンタルが変わって好きな王子様も変わる。

 

もしかしたら完全にテニミュを楽しめるようになる頃には私の中の不二周助は消えてなくなるかもしれない。

演劇を楽しく観たくても観られなかった日々と別れる日がくるのかもしれない。

それは自分の未練を捨てることと同意義かもしれない。

その日がくるのは寂しくもある。

それでも大好きだった演劇をまた楽しく観られるのであれば楽しみでもある。

たとえそれが過去の自分との決別になるとしても。

そうやって終わったところから始まるものもある。

 

3rd season全国氷帝の凱旋公演を観た時の感動は計り知れない。

自分が演劇をしていたことを否定しなくてもいいのだな、と思えて本当に感動してしまった。

大阪公演で観た時に悲しみと怒りが綯い交ぜになったような気持ちで結構文字通りの死ぬ気でアンケートを書いてなんとか凱旋公演の前までには届くように、と送った。

セリフも歌詞も演技も変わっていた。全ていい方向に変わった。

最高だった。

素晴らしかった。

そして、私の意見が取り入れられたような感覚になった。

本当に送ったアンケートが活かされたのかどうかは大切ではないのだ。

この感覚を覚えることができたことが大切だった。

中学生で演劇をやめてしまったことに、その時は何も思っておらず、すっきりと次の興味の対象に移行していた。

けれど、学生生活が終わった頃にどっと後悔が押し寄せてきて、高校演劇も大学演劇も知らない自分はこれから先に観るどんなお芝居を観て違和感を覚えても意見を述べる資格は無いのではないだろうか、と一人で打ちひしがれていた。

その気持ちがすべて救われた気がした。

小中学生だった自分が演劇に全力だったこと、真剣だったことを肯定しても良いのだと言われているようだった。

テニスの王子様が大切にされていることと、真剣にテニスの王子様のストーリーを作っていることが伝わったのと同時に、自分の過去まで肯定されたようだった。

あんな多幸感は滅多に本当に一生に一度味わえるかどうかの幸せだった。

 

テニスの王子様の世界ではテニスでの悔しさはテニスにしか晴らせないように、我々の世界でもちゃんとそのものに向き合うことでしか得られない克服がある。

 

「テニスのためにテニスができるか」それは「生きるために生きられるか」と、我々読者に人間の根源的な問いを問いかけている。

 

不二周助とお別れする日は、そのまま私自分の過去を清算することができた日になるのかもしれない。

 

今度は真正面から、自分の弱さの投影じゃなくて 不二周助に会いたい。

 

不二周助自身も『テニスの王子様』『新テニスの王子様』の世界で成長している。

今はGolden age207で語られたように、秘められていた「自らの手で壁をブチ壊していく程の心の強さ」が発現し、「己の中の呪縛から解き放たれた」"天才・不二周助"だ。

===

 

最後に。

18年が経って大人になった私は、不二周助には激烈な感情は抱かなくなった。

 

思春期の不安定さ青さが、私を不二周助に惹き付けた。

 

不二周助は私の青春だ。

不二周助の心の葛藤に自分の葛藤を重ねた日々があった。

天才と呼ばれる不二周助に憧れを抱いた日々があった。

 

道が別れたとしても不二周助に惹き付けられた若かった日々があった。その事実は変わらない。

 

これを公開するのは、今日しかない。そう思った。

たとえ公開する文章がどんなにまとまっていなくても今日だと思った。

4年に一度の特別な日に生を受けた君へ。

 

Happy Birthday, Syusuke FUJI.

May the GOD Bress you, forever and ever.

2020/02/29