超解釈テニスの王子様  人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

人生への圧倒的肯定を描き出す『テニスの王子様』と、その続編『新テニスの王子様』についての個人的な考察を綴ります。 出版社および原作者など全ての公式とは一切の関係はありません。全ては一読者の勝手で個人的な趣味嗜好です。 Twitterアカウント:@namimashimashi

追記『リョーマ! The Prince of Tennis 新生劇場版テニスの王子様』雑記 〜世界を敵に回しても譲れないものとは何だろうか

今までTwitterで感想や考えたことを書いてきたけれども、字数制限が無いブログでも『リョーマ!The Prince of Tennis 新生劇場版テニスの王子様』について書いておこうと思う。

 

 

Twitterでツイートしたことは下記の2つのエントリーにまとめている。

(※どちらもページの読み込みに物凄く時間がかかります。)

namimashimashi-tpot-373.hatenablog.jp

 

namimashimashi-tpot-373.hatenablog.jp

なお、以下『リョーマ!The Prince of Tennis 新生劇場版テニスの王子様』は"映画リョーマ!"と表記する。

 

 

映画リョーマ!から感じた"テニスの王子様らしさ"の所以と、主題歌『世界を敵に回しても』で歌われる「世界を敵に回しても守るべきもの全て」「世界を敵に回しても譲れないもの」とは何のことを指していたのか、引いては、映画リョーマ!が語るメッセージについて考えたい。

 

世界を敵に回しても守るべきものとは一体何で、サムライ南次郎はどうしてそんなに強いのか。

「強くなりたい?そんな曖昧な答えなら「まだまだだぜ」」ならば、どんな答えが認められるのだろうか。

そんなことに考えを巡らせた雑記である。

 

 

自分は、一人の人間が一瞬のヒーローになる物語を目撃するのが好きだ。

エメラルドは「お前なんて親父でも何でもねぇ」と吐き捨てた自身の父親を相手に、エメラルドにしかできない仕事をやり、リョーマを助け、リョーマのヒーローになっているし、ウルフは放送室をジャックして会場にアダムアンダーソンの八百長試合内訳を流す一役を買っているし、ブー&フーはVIP室のセキュリティに成り代わっている。

皆自分の領域で誰かには欠かせない役割を担っている。

越前リョーマは確かにテニスの力で自ら勝って道を切り開いたかもしれないが、「八百長試合を止めさせる」のはリョーマ一人では出来なかったことだ。

エメラルド、ウルフ、ブー、フーがいたから本丸にたどりつくことが出来た。

 

映画リョーマ!では自分の出自への前向きなエネルギーを見ることもできる。

自分を自分で肯定して誇ること。

主題歌『世界を敵に回しても』の歌詞にある「俺の心の中にあるプライド あなたが教えた宝物」のように、先達から受け取ったものをポジティブに捉えて日々を生きる推進力にしていく。

これは、原作漫画『テニスの王子様』の最終決戦でラストに出てくる「テニスって楽しいじゃん」〜天衣無縫の極みの扉を開く試合で語られるメッセージに近いのではないだろうか。

というのも、ミュージカル テニスの王子様3rd season全国大会青学vs立海後編のパンフレットに掲載された越前南次郎役/オリジナル演出・脚色・振付 上島雪夫氏の言葉にその思いの一端を見るのである。

そのメッセージは下記の通り(一部省略)。

「先を生きた大人たちや先輩たちの想いを引き継いで、でも自分らしく生きていくって大事なことだよな、って。心のどこかで、あんたたちの想いは受け取ってるからね!って。たまに思い出させてもらってるよ、って。(中略)なぁ、リョーマ!」

 

跡部景吾手塚国光に電話BOXから電話がつながるのはちょうど映画の中間地点にあたるが、そこから道が拓けていき、世界が広がっていく。

物語ラストのカタルシスまでの高揚感を盛り立ててくれる。

八百長試合を仕掛けたアダム・アンダーソンにベイカー親子と越前リョーマが迫るシーンも「っていうか真剣勝負ができないなんて面白くないじゃん」「そうだテニスは真剣勝負だから面白いし価値がある」テニスが面白いこと、それに価値があること

アダムを許さないと直接攻めるのは取引相手のベイカー父であり、子世代でテニスをするリョーマとエメラルドはテニスは真剣勝負で面白くなる。そのことに価値がある。その価値を邪魔するなと主張する。

だからリョーマはヴォーンだった勝つ可能性がゼロじゃないじゃんと言ったりする。

真剣勝負で戦うからこそ勝利と敗北に価値がある。

越前リョーマはアダム・アンダーソンを物理的には追い詰めるが、言葉ではアダム個人を責めるのではなく、テニスを楽しむ世界を邪魔するなと主張している。

リョーマ! The Prince of Tennis 新生劇場版テニスの王子様』が「テニスって楽しいじゃん」を皆が戦ってきた答えとした漫画『テニスの王子様』の続編であることが窺える。

 

また、自分がこの映画リョーマ!のストーリーで興味深いと感じているのは、越前リョーマの困難を切り開く力になるのは、今までにリョーマがテニスで共に戦ってきた仲間やテニスコートで対峙したライバル達になっているところだ。

越前リョーマに対して、身近な人(親父や桜乃)はリョーマに闘って勝てとは言わないし、南次郎や桜乃と一緒にいる内はリョーマ自身も「逃げ切ろう」と考えている。

でも本来の目的は逃げ切ることではない。八百長試合を止めさせることだ。

逃げ切れば八百長試合は成立しないが、八百長試合を止めさせるのには逃げるだけが手段ではない。

相手の姿を捉えているから闘って勝つ方法がある。

そこに目を向けさせるのは、リョーマを闘いの場に向かわせるのは、仲間でありライバル達だ。

それが電話BOXで現代に電話が繋がるところである。

「あの試合を思い出せ!」青学のランキング戦から始まり、全国大会決勝までのその全ての試合が、戦ってきた軌跡と出会いと経験が越前リョーマに戦う自信をつけて、背中を押しにくる。

越前リョーマに勝って来いと言うのは部長とライバルの声だ。

 

結果論では、現役南次郎の言う事が現代越前リョーマにとって有効に働いていないのである。

現役選手のサムライ南次郎にとっては、現代リョーマが庇護対象に近くてリョーマを戦わせる気が最初から無い。 

サムライ南次郎は現代リョーマに「逃げろ」と指示をし、「彼女を守れるのか」とちょっと脅しもする。

とはいえ、これはある種当たり前と言えば当たり前で、あの時点でサムライ南次郎は現代リョーマのテニスの技量を知らないし、もしも目の前の少年リョーマが自分の子どもの未来の姿だと気がついていればまだ幼い我が子と重なり慎重にもなるし、そもそも自分が世界で一番強いと思ってるので自分が守ってやれる自負も自信もある。

 

ただ、結果的に越前リョーマの道を切り開いた選択肢は、エメラルドと対峙して勝負して勝つことだったし、この選択肢に導いたのは南次郎でもましてや桜乃でもなくて、今までに戦ってきた仲間とライバルとの電話だった。 

現代の越前リョーマにはリョーマ自身がこれまでの人生を歩いてきた道に活路があった。

現代リョーマはもう守られる対象から自分の力で道を切り開いて行く力があるようになっていた。

映画の最後で南次郎に勝負を挑んで「アンタに勝ちたい」と面と向かって言うのは、父親南次郎の庇護下から出ていく象徴でもあるだろう。

これが「映画リョーマ!は貴種流離譚の話である」と言われている所以であろうと考える。

外に向かっていく気持ちを奮い立たせるのはDecide編の仲間とGlory編のライバル達になっている。

"守るべき者"ではなくて"守るべきもの全て"が俺を強くさせる。

愛する世界を愛し続ける為に戦う。

だから世界を敵に回してもは越前リョーマ1人ではなく、多くのキャラクターが歌う。

冒頭のDear Prince〜テニスの王子様達へ〜と同じように。

 

「世界を敵に回しても 守るべきもの全てが 俺をまた強く強くさせる」のは、これもまた全てのテニスの王子様達1人1人のことでもあるだろう。

守るべきものは時として自らの足かせとなるだろう。

人質に取られるような存在など居なければ、そもそも弱みなど掴まれない。

この葛藤は、義を見てせざるは勇なきなりを座右の銘と掲げて戦う徳川カズヤと、それを哀れな自己犠牲の末路と切って捨てる平等院鳳凰が待ち受ける『新テニスの王子様』へと続く。

 

自己犠牲を捧げずに強くなれるか。

試合に勝つのは勝ちたいと思うのは誰かの為なのだろうか。

手塚国光が自らの腕を捧げたのは誰かの為だったか。

平等院鳳凰が生命を懸けるのは誰かの為なのか。

全ての思いを背負うことで勝利したプロへの道を進む手塚国光がいる一方で、自分が勝ちたいから勝ちたい切原赤也にも勝利の道を用意するのが新テニスの王子様の世界だ。

「強くなりたい?そんな曖昧な答えなら「まだまだだぜ」」は、自分は何故強くなりたいのか。

強くなった先に何を掴みたいのか。

そんな各王子様のその強くなりたい理由が研ぎ澄まされていく様が描かれる新テニスの王子様に繋がる先人からの問い掛けだ。


越前リョーマは何を求めて強くなりたいのだろうか。

「世界一のテニス選手になるんはワイやぁーっ!!」と世界大会のコート上で宣言できるか。

デッケー夢を見ているだろうか。


コートでは孤独で戦うのが、テニスというスポーツだ。

 
現役のプロトッププレーヤーで下記の記事に記されるようなやり取りも起こる。
Coaching on every point should be allowed in tennis. The sport needs to embrace it. We’re probably one of the only global sports that doesn’t use coaching during the play. Make it legal. It's about time the sport takes a big step forward.— Stefanos Tsitsipas (@steftsitsipas) 2021年7月18日
 

その孤独なコートで戦う自分を鼓舞するものは何かを問いかけるのが映画リョーマ!の主題なのではないかと思う。

 

越前リョーマ以外の視点で映画リョーマ!を考えてみる。

越前リョーマの立場から見ると映画リョーマ!は、”八百長試合がそのまま行われてサムライ南次郎が引退を選択する”というバッドエンドを回避しただけで、一番の目的だった「親父の引退を阻止する」は結局は達成出来なかったどころか、もしかすると自分がその親父の引退の片棒を担いだまである終わり方に見えかねない。

しかし、越前南次郎サイドで考えてみると、もしかしてそんな悲観的な引退でもなく、息子たちの中に可能性を見出してそれを鍛えることが、南次郎自身がこれからもテニスって楽しいじゃんと思い続ける為に必要だった選択だったのかもしれない。
越前南次郎の価値観で語れば、自分がテニスの試合で勝ち続けることよりも息子たちの可能性を鍛えることの方がデッケー夢になったのではないか。
 
もちろん現代からやってきた未来の息子らしき少年の越前リョーマがサムライ南次郎を駆り立てた部分も大いにあろう。
「世界には強いヤツなんてゴロゴロいるんだ 例えば俺を引退に追い込んだやつとかな」は、もしかして越前南次郎自身の現役時代のサムライ南次郎自身のことを指していたと考えてみてはどうだろうか。
この台詞はどうも不思議で、”俺を引退に追い込んだやつ”を越前リョーマのことだと仮定すると、南次郎はリョーマが戦うことのできないリョーマ自身を例に出して世界を見るように焚き付けているし、サムライ南次郎から最後にポイントを取ったのは映画リョーマ!の限りでは現代リョーマなので引退に追い込んだのは越前リョーマ本人なのではないかと考えるとも取れるだろう。
そうなった時に、この台詞は何か特定の人物について話しているのではなく、目の前の親父を倒したい思いで強くなりたい越前リョーマを日本の外へ、世界へ、連れ出す為に言ったことだとすれば。
 
サムライ南次郎は自宅に勝手に入っていた現代リョーマ竜崎桜乃に向かって「誰だ?お前ら」と言った直後にはリョーマを見つめて「もしかしてお前、俺のファンか」と言っている。
仮に、越前南次郎が少年越前リョーマがサムライ南次郎に正面から「アンタに勝ちたい」と勝負を挑んできた少年だった可能性がよぎっていたとすると、「世界には強いヤツなんてゴロゴロいるんだ」は、サムライ南次郎vs越前リョーマが試合する可能性にかけて息子リョーマアメリカに送り出す口実だったとの取れやしないだろうか。
そうなると、キッカケはあれど、他でもない越前南次郎自身が引退を決めた。
引退に追い込んだのは、デッケー夢を見続けたい当時のサムライ南次郎自身だったと考えてみることもできるかもしれない。
 
少し横道に逸れることになるが、ここで越前南次郎の息子リョーマの教育方針を考える。
越前南次郎は、中学生になった息子越前リョーマがさらに強くなるためには、父親南次郎を倒したい以外で燃え立たせることだと考えていた。(『テニスの王子様』Genius43強さへの芽生え)
テニスの王子様』の緑山中戦で、越前リョーマと同じような環境持ちの季楽靖幸との対戦と並行して越前季楽の両父が子供にテニスをやらせることについて話すシーンがある。
ここを読むと、越前南次郎も息子リョーマのテニスへの情熱を焚きつける役割は担っていない点においては泰造と一緒だと思う。
越前リョーマを燃え立たせたのは手塚であり青学だ。
南次郎は”青学へやって正解だった”と自分の役割ではない自覚があっただけだ。
越前南次郎の功績は早々に息子の目標を『打倒親父』から、これから共に強くなっていく息子の同世代に目を向けさせようと選択したところだと見ている。
未来の存在は未来の存在に託した判断である。
 
映画リョーマ!でサムライ南次郎を見ると、現代の父親越前南次郎は、現役時代に比べてかなり指導者然りとなっている。
自分自身が勝利することではなく、越前リョーマを鍛えることに自分の力を使うことにしている。
これは、もしかして映画リョーマ!の現役時代に、リョーマを庇護対象として取扱ったことの反省から自分の手から離すことを考えたのでは?とも思っている。
 
そしてこの広い世界に少年を旅立たせる選択は、「世界は広いぞ」で強くなる『新テニスの王子様』に繋がっていく。
 
テニプリ新テニ一貫した強さの法則は「世界は広い」だ。
身内、学校、地域、国など、15歳位ではともすれば世界の全てになってしまいがちな世界の外へ飛び出すこと、挑戦すること、今よりも一歩広い世界を知りに行くこと、そうして王子様達は強くなっていくのがテニプリ新テニの一つの価値観。
『新テニスの王子様』は世界を知ってる平等院鳳凰が日本代表No.1だ。
日本一の次は世界一だ。
テニスの王子様』で日本一を奪取した次は世界一を目指して戦っていく。
「世界は広いぞ」と体感で言えるのがNo.1なのは、世界獲りを目指す少年漫画において説得力がある。
 
また、映画オリジナルキャラクターのエメラルドについても考えたい。
サムライ南次郎の八百長試合を止めさせた世界では、エメラルドがテニスをしなくなることを考えたが、それが好きなテニスを好きでい続ける為のエメラルドの選択だったと捉えてはどうだろうか。
エメラルドもサムライ南次郎と同様に、テニスを嫌いにならないために、好きで居続けるための選択の先にモデル業があった。
エメラルドは本来のプレイスタイルでは公式戦には出られない。
日の目を浴びない自分の得意なスタイルのテニスを封印してテニスをプレーし続けることではなくて、テニスを好きで居続けるために。
エメラルド・ベイカーの価値観では、テニスを最前線でプレイすることよりも自らの容姿を魅せていくことの方がゾクゾクすることが出来たのかもしれない。
 
映画リョーマ!は、南次郎とエメラルドを通した終わりの物語の側面がある。
そして、今までとはまた違う方法でテニスと付き合っていく始まりでもある。 
 
 
かなりメタ的で力技的な纏め方になってしまうが、"テニスをすること"よりも"テニスって楽しいじゃんを忘れないこと"が大切で、好きだと思うことを好きで居続ける為に自らの意志で選び取った未来は、他人の反応や期待や批判があっても誇らしいものだということかもしれない。
 
誇らしい未来を選択させるのは今までの自分の生きてきた日々だ。
 
これをテニスの王子様の言葉で語ると、それが「今の自分を誇れるか誇れないか、それだけだぜ」(Glory編 跡部景吾の台詞)であり、「テニスを思い出せ」(Decide編 手塚国光の台詞)ということだ。
 
 
サムライ南次郎の強さの秘密が「大人になったら分かる」「(お前たちがもっと)大きくなったら教えてやる」のも、大きくなる、すなわち成長して歳を取ることで生きる日々が積み重なっていくからなのではないか。
あるいは、大きくなるをビックになる有名になると捉えると、自分が大きくなる過程で経験したことや出会った人々が背中を押してくれる可能性が増える、有名になってもテニスを楽しいと思い続けることができる、それが"強さの秘密"なのではないか。
 

多分、「世界を敵に回しても守るべきもの全てが俺を強くさせる」のも「世界を敵に回しても譲れないものがある」のも、「世界を敵に回しても守るべき"者"」ではないのが、映画リョーマ!が少年漫画のセオリーを踏襲するストーリーであるところだと思う。
 
愛するものが愛するものであり続けるために。世界を敵に回しても今日も戦う。