ユルゲン・バリーサヴィチ・ボルクはヘーゲルである〜U-17 W杯準決勝ドイツvs日本に見るドイツ観念論〜
初めに断りをさせてください。
本稿の筆者である私は、ドイツ観念論ならびに西洋哲学に関する専門知識は持ち合わせてはいません。深く学習した経歴もありません。一般的な知識をもとに調べた範囲で、新テニスの王子様との類似性を覚えた部分について述べていると思っていただければ幸甚です。
『新テニスの王子様』28〜35巻で描かれたU-17 W杯 準決勝ドイツvs日本を読み、この団体戦はドイツ観念論と縁が深いのではないかと考えた次第である。
以下、いささか散文的ではあるが、U-17 W杯 準決勝ドイツvs日本(以下、準決勝ドイツ戦)の中で、ドイツ観念論の用語や人物を思わせる部分を記述したい。
今から述べる内容を要約すると、大筋で以下3点となる。
・ユルゲン・バリーサヴィチ・ボルクにゲオルグ・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831年)を見る
・Q・Pにイマヌエル・カント(1724-1804年)を見る
『新テニスの王子様』17巻Golden age164共鳴から出てくる『能力共鳴(ハウリング)』が、ヘーゲルの弁証法で唱えられるアウフヘーベン(止揚)に理論構造が似ているように見える。
『能力共鳴(ハウリング)』は、作中の言葉を使うと、”互いの能力(スキル)が惹かれ合い””新たな超能力(スキル)が生まれた”技の名称である。
ゲオルグ・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(以下、「ヘーゲル」)は、ドイツ観念論を完成させたと言われるドイツの哲学者であり、彼の唱えた理論でとりわけ有名なのは、ヘーゲルの弁証法ではないだろうか。
ハウリングは、ヘーゲルの弁証法を想起させる仕組みではないだろうか。
前述の通り、『能力共鳴(ハウリング)』とはスキル同士が惹かれ合って新しい超スキルを生むのは、ドイツ観念論ヘーゲルの弁証法でいうところの、定立(テーゼ)・反定立(アンチテーゼ)・止揚(アウフヘーベン)の関係だろう。
具体的な例で示すと、Golden age294で登場したデューク渡邊とL・カミュ・ド・シャルパンティエのハウリングである『創造(シェプフング)』は、簡単に図にすると、
合(『創造』)
↑
正(『破壊』)→反(『愛』)
と、上記のようになる。
なお、ヘーゲルの弁証法について、解説書によっては「同一性と差異性の移行だ」と書く書籍や、「統一のうちに対立を見、対立のうちに統一を見出そうとする、矛盾を恐れぬ方法」とする書籍もある。
『能力共鳴(ハウリング)』が起きるスキル同士が補完関係になかったとしても、同一と非同一の関係にあり、移行した結果が能力共鳴(ハウリング)で発現した能力(スキル)と見ることができるだろう。
ハウリングの中でも互いのスキルが共鳴し合ったのではないミハエル・ビスマルクとエルマー・ジークフリートのハウリング『存在境界(ザイングレンツェ)』は、ヘーゲルの弁証法で言うところの絶対知へ上昇するプロセスに近いだろう。
このハウリングとアウフヘーベンの類似構造に着目した時、ドイツ代表のユルゲン・バリーサヴィチ・ボルク(以下、「ボルク」。本エントリー内では「ボルク」と表記した場合は、ユルゲン・バリーサヴィチ・ボルクを指すこととする。ベルティ・B・ボルクに言及する際は、別途その旨を記すこととする。)はヘーゲルであり、原作漫画28~35巻で描かれたU-17W杯準決勝ドイツvs日本戦はドイツ観念論の完成だとは読めないだろうか。
ボルクは、Golden age164で作中最初のハウリング『第六感(ゼクステジン)』が発現した際、それがハウリングであると指摘しているうえ、準決勝ドイツ戦までに作中に登場した5つのハウリング、『第六感(ゼクステジン)』、『衛星視点(サテリートゥパスペクティーヴ)』、『創造(シェプフング)』、『存在境界(ザイングレンツェ)』、『無限の竜巻(ウンエントリヒヴィントホーゼ)』は、全てボルクが解説に絡んでいる。
つまり、ボルクはハウリングを理解する立場として存在しているとも言えないか。
さらに、ボルクがW杯準決勝の日本戦S1で一人『能力共鳴』(ハウリング)を成し遂げたその業はアウフヘーベンの体現とも呼べるだろう。
ユルゲン・バリーサヴィチ・ボルクの二つ名は”勝利への哲学者"である。
また、23.5巻で公開されたプロフィールでは、好きな本にドイツ観念論に関係する人物であるヨーハン・ゴトリーブ・フィヒテの著書である『全知識学の基礎』をあげている。
新テニGolden age352の中で、ボルクの対戦相手である平等院は「テメェだけで【能力共鳴(ハウリング)】なんて誰が考えるかよ」と言うが、これもボルクが哲学者と言われる姿を引き立てて見えてくる。
ボルクが哲学者で在るにあたり、ヘーゲルよりも前にドイツ観念論に登場するフィヒテを好んで読むと捉えれば西洋哲学史の時系列的に納得する部分もあろう。
さらに、ヘーゲルがその著書『精神現象学』で提唱した動的な精神を、人間の精神は拡張していくことができる、とすると、ボルクがハウリングを1人でも発動できるところに結びついてくるのではないか。
ハウリングの『存在境界』については、ヘーゲルが若い頃に存在論を展開していたことに紐づき、また、異なる2つの存在を極限まで同調させるスキルという意味で、その直後の試合にボルク(ヘーゲル)が1人ハウリング(アウフヘーベン)に到達する前段階であったとも見えよう。
『存在境界』とは、”パートナーの動き・思考、息づかいまでもがシンクロし、次にどう動くのかお互い手に取る様に分かってしまう”『同調(シンクロ)』が生み出す、相手が不利になる状態を作り出す『擬似気配』を発動するハウリングだ。
このように、ハウリングを起点にボルクとヘーゲルとの親和性を考えた時に、ふと、もしかするとドイツ代表のQ・Pはイマヌエル・カント(以下、「カント」)なのではないだろうかとの考えがよぎった。
Q・PはGolden age281で『矜持の光(シュトルツシュトラール)』の精神派生3種【愛しさの輝き】【切なさの輝き】【心強さの輝き】を体感し吸収してテニスの神になるが、カントの唱えた有名な言説の一つには、神の存在論的証明批判があるだろう。
これを、3種の精神派生である愛しさと切なさと心強さの輝き(『天衣無縫の極み』)を吸収して究極の品質に到達する(テニスの神になる)のを、純粋理性批判・実践理性批判・判断力批判の三批判書から成るカント批判哲学と準えたい。
また、Q・Pを導いた監督ケン・レンドールは、宗教改革という教会、すなわち、権威であり、ここの新テニのストーリーでいえばドイツテニスアカデミーへの反逆を起こした人物として、カントから始まるドイツ観念論の論壇に宗教改革が影響を与えたことも想われよう。
前述したQ・Pが「僕はテニスの神にな」ったところにカントの神の存在論的証明批判を見たことについてだが、これは、選手(プレイヤー)がテニスの神になれるとした発想がカントの啓蒙思想の体現だったのではと考えたからである。
つまり、神の後見に頼らない人間理性による自然界の理解を、『矜持の光』に依らないプレイヤー自身の成長による強化だと、読んだ。
カントの啓蒙主義が、主体は人間の側にあると認識したのを、テニスの王子様では、テニスにはプレイヤーが主体として関わっていると言えるだろう。
それはまるで、ミュージカル新テニスの王子様The First Stageの楽曲『テニスの子』の歌詞「俺がテニスを選んだのか テニスが俺を選んだのか」に対して、俺がテニスを選んでいるのだ、と宣言するように。
ここからさらに、準決勝ドイツvs日本の全5戦をドイツ観念論として読めるのではないかとも考える。
準決勝ドイツ戦は 第1試合がカントから始まり最終第5試合がヘーゲルで決着する。
準決勝ドイツ戦は全てS3Q・Pvs鬼を以って成立するように見えるのである。
Q・Pが『矜持の光』の全ての精神派生を吸収してレベルアップしたことは、『矜持の光』の別呼称『天衣無縫の極み』に到達した無印テニプリからのコペルニクス的転回になっているのではないだろうか。
新テニではプレイヤーがテニスに依存するのではなくテニスがプレイヤーに依存するというコペルニクス的転回だ。
この初戦S3でのコペルニクス的転回により、テニスの客観性が確立したことで、テニスは普遍的となり、プレイヤーによって見えるテニスの側面が変わる。
プレイヤー固有のスキルの発現とスキルバトルへの展開がスムーズになるのである。
U-17 W杯準決勝ドイツvs日本のS3は、『テニスの王子様』『新テニスの王子様』のパラダイムシフトだとも言えるのではないか。
第三試合S2手塚vs幸村がジャンプSQ.に掲載が始まった2020年5月号のコンテンツページの作者コメントで「テニプリ人生の集大成♪」と原作者の許斐剛が書いたことも、準決勝ドイツ戦が丸ごと無印テニプリの最終到達地点だった天衣無縫の極みを反駁し、その先に進む団体戦だったと捉えると、全五試合のちょうど真ん中にあたるS2は、まさしく無印”テニプリ”の集大成だと言えるだろう。
S2手塚vs幸村は、S3Q・Pvs鬼を踏まえ、矜持の光はキャンセルされうるものとして扱われる。
加えて、手塚国光の『手塚ゾーン』と『手塚ファントム』を一つにした『至高のゾーン(アルティメットゾーン)』や、幸村精市の『五感剥奪(イップス)』が「未来を奪う」になったように、スキルの拡張を示唆があり、一人だけで能力共鳴を生じさせるS1ボルクvs平等院に繋がる展開が入ってくる。
S2の手塚vs幸村は、"テニスに選ばれる"みたいな発想の転換点であった。
S2の幸村が切原赤也の「湿気った導火線にも火を着けた」のは、プレイヤー主体のテニスの認識の世界を証明してみせたからであり、 ボルクがD1でジークフリートに「お前がやるべき事は」「『矜持の光』になる事ではない」と叱咤したのが劣勢打開の突破口になるのも、D1とS1が天衣無縫の極みを超えた先の世界だからと言えないだろうか。
第一試合のS3でQ・Pが鬼と対戦してカントの啓蒙主義を思わせるプレイヤーの主体のテニスへとコペルニクス的転回を見せたことが、テニプリシリーズを通したテニスとテニスプレイヤーとの認識の転換点となり、第二試合D2以降のスキルバトルへの展開をスムーズにし、最終第五試合S1ボルクvs平等院での1人ハウリングのアウフヘーベンへと続くようになったと、読みたいのである。
以下、なお、余談となるが、切原赤也が自身の中に眠る『悪魔』と『天使』を飼い慣らして青い瞳の切原赤也となったのも、同一性と差異性の移行を止揚させたアウフヘーベンであったと見ることができ、その次元の高次の能力を開花させられたから相手ペアのハウリングに互角で対抗できた、つまり、ハウリングと同次元の能力が開花したから『存在境界』を解除させられたのかもしれない。
また、『存在境界』を初めとしたドイツ代表チームが発現させる能力がドイツ観念論に結びつく部分は、ドイツ代表チームは”勝利への哲学者”ユルゲン・バリーサヴィチ・ボルク主将が集めたチームである印象を強めるように思う。
ヘーゲルの弁証法において、ヘーゲルは世界とは無秩序混沌とした状態であって落ち着いている境地であるとした、との見方もあるようで、これは、新テニで現れる有象無象の個々の『能力(スキル)』をボルクが一人ハウリングとして統括する境地に達したと見えよう。
能力の開花と他者との共鳴、個人のエンカレッジと他者との共働、このはたらきが無限に繰り返される中で人類社会が発展していくと、『新テニスの王子様』はストーリーとして描いているのかもしれない。
以上、
自らの考えを支持する部分を拾って裏付けているに過ぎない側面が大きいが、こんな読み方もできるということで、ご笑覧いただくことができたのであれば、幸いである。