超解釈テニスの王子様  人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

人生への圧倒的肯定を描き出す『テニスの王子様』と、その続編『新テニスの王子様』についての個人的な考察を綴ります。 出版社および原作者など全ての公式とは一切の関係はありません。全ては一読者の勝手で個人的な趣味嗜好です。 Twitterアカウント:@namimashimashi

宗教性_経験

2.経験

ここでいう経験とは宗教的経験のことである。

宗教的経験がどういった物であるかについては議論のあるところだが、ここでは主体の転換、自意識におけるコペルニクス的転回を体験することとしてみたい。

テニスの王子様」が漫画という、独自に構成された世界観に読者を引き込むことで楽しませるエンターテインメントの形をとっていることから、読者が無意識の働きを感じるいわゆる宗教的経験を提供するのは難しいことではないだろう(面白い本や漫画などストーリーには"読者自らが読む"というのではなく"読まされている/読まずにはいられない"という思いを感じさせることができるため)。

テニスの王子様」の読者における宗教的経験は以下のような点が考えられないだろうか。

・原作者により作品世界に迎えられている

許斐剛先生は読者(ファン)に対して「君たち(ファン)が王子様達(作中登場キャラクター)を好きでいる時、君たちもまた王子様と同じように中学、高校生になっているんだよ」と語っている。つまり、今まで自らの妄想で作中世界との接点を作っていたようで、実は作品側から読者を迎え入れるような作り方をされていたとみられる。

 

・漫画世界への没入、ストーリーへの興奮、期待

テニスの王子様の世界では、特にテニスシーンにおいて、現実世界では"有り得ない"描写が頻繁に出てくる。しかしながら、「テニスの王子様」の読者達はその"有り得ない"展開を受け入れ、さらにそのストーリーを楽しんだ上、次を楽しみにするようになる。

すなわちテニプリを読み進めている内に俗世の基準から離れ、漫画独自の世界に没頭し、自己意識も漫画世界に馴染むようになっているのではないだろうか。

実際に私自身はテニプリへの信仰を覚えているのだが、私はテニプリを一気に読み、その展開を自然と受け入れて王子様達のテニスを応援するようになるという経験をしている。また、私の友人の1人は、「途切れ途切れに数話ずつ読んでいる内は試合の"有りえなさ"が気になったが、一気に1〜42巻を通して読んだところ、その展開を自然と受け入れられるようになった」という経験をしている。

 

・キャラクターへの感情移入

→これも作品の読み方の一つではあるのだが、テニプリのキャラクター達は非常に細部まで設定作り込まれているため、その人格や感情をリアルに感じることができる。また、作り込まれたキャラクター数が非常に多い(主要キャラクターだけで50人以上)ので、自分の感覚に近いキャラクターと出会うこともある。

シンパシーを感じるキャラクターとの出会いを果たした読者は作中でのキャラクターの悩みや課題を自分事のように感じ、まるで自分自身が自分自身の課題と向き合うような感覚を覚えることになるのだ。