超解釈テニスの王子様  人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

人生への圧倒的肯定を描き出す『テニスの王子様』と、その続編『新テニスの王子様』についての個人的な考察を綴ります。 出版社および原作者など全ての公式とは一切の関係はありません。全ては一読者の勝手で個人的な趣味嗜好です。 Twitterアカウント:@namimashimashi

閑話_漫画と現実の話

論考するほどでもないけれど、テニプリの特徴として語りたいのが、現実のスポーツと漫画との捉え方の話。

 

2018年、現実世界が漫画を超えてくるようになったという話題が将棋界や男子フィギュアスケート界で聞こえた。

最年少、歴代最高得点、前代未聞の記録、大金星etc.

勝負の世界で、新たな記録が、一昔前までは考えられなかったことが生まれるようになってきている。

男子卓球界でも中学生がプロに勝利し、シニア大会で優勝した。

男子女子テニス界では日本人選手が元世界ランキング1位の選手に勝利した。

 

テニスの王子様』の連載が始まったのは約20年前の1999年。

そして今現在の2018年。20年前ではありえなかったこともありえるようになってきている。

 

テニスの王子様』の中でも、単行本38巻掲載の立海vs名古屋星徳の中で日本を「テニス後進国の島国」と海外スポーツ留学生選手に言わせている(週刊紙掲載時2007年、単行本発売時2007年6月)。この話は、その後、日本人選手がその留学生にテニスで圧勝するという展開になる。

10年以上前のこの頃であれば、この展開も一種のファンタジーであったかもしれないが、今、現実のスポーツ/勝負の世界では最早この展開はファンタジーではない。日本人が過去とは異なるスポーツにおいても海外勢に勝つというのはもはや夢物語ではなくなってきている現実が見えてきている。

さらに、『テニスの王子様』の主人公は、アメリカ育ちの日本人:越前リョーマであることを加味すると、ストーリー展開は現実味を帯びてきている。

 

かつて、原作者の許斐剛先生はこう語っていた。

「スポーツで感動したければ現実のスポーツを観た方がよっぽど良い。架空世界である漫画は現実には何をしても敵わない。漫画は漫画であるからこそできること、面白さを追求しなければならない」(出典不明)

また、2015年1月にNHKサタデースポーツ全豪オープンの解説/コメンテーター出演した際には「(テニス試合では)必殺技には頼らず、一打一打確実に試合を進めてほしい」(意訳)とも発言している。

そしてこの発言は「漫画ではたくさんの必殺技で魅せることが漫画の面白さとして重要視している」と続く。

テニプリに登場するテニス技は物理原理に従うとありえない技が数多くあるが、最強の年少者が登場する、日本人が海外勢に金星をあげる、というようなストーリー展開では連載時に感じたようなありえなさを読者に感じさせることはできなくなってきている。

漫画の魅力の一つである架空世界のエンターテインメント性がテニプリ世界に時が流れても存在し続けるのは、許斐剛という、"ありえなさへの挑戦"と"現実のスポーツ/テニスへの限りないリスペクト"の2本を両輪として回転させている漫画家が描く話だからこそできることなのではないだろうか。

『テニスの王子様』と『新テニスの王子様』との関係性_新たなる人生テーマの問いかけ

『新テニスの王子様』THE PRINCE OF TENNIS Ⅱは、『テニスの王子様』では描かれきれなかった人間の営みを伝えている。

人生への圧倒的肯定を王子様達の魂が輝く瞬間の連続によって伝えてきた『テニスの王子様』(以下、無印と表する)だが、その人生への圧倒的肯定へ辿り着く所以は主人公:越前リョーマの「テニスって楽しいじゃん」という自覚である。そして、このテニスって楽しいじゃんは、「テニスを嫌いになれる訳ない………」理由だ。恐怖や苦しさを感じ、辛いことがあってもテニスを嫌いになれない、全てを受け入れる、愛する宣言なのだ。

つまるところ、無印で描かれた人生への圧倒的肯定とは、自分や他人の生を愛する力が全ての王子様に宿っており、その愛の力こそが生きる=試合に勝つ最大の原動力だということになる。(なお、この完結に繋がる全国大会決勝の立海戦は全試合を通して「愛」を巡る戦いである。)

さて、このようにして愛の自覚を手にした王子様達が乗り込んだ『新テニスの王子様』(以下、新と表する)世界での命題は「義では世界は獲れんのだ」である。

要するに、義の心では勝ち続けられない、人として正しい行いをするばかりではいずれ挫けてしまうことがある、ということの検証をするのが新の命題なのである。

しかもこの新で語られる義が足枷となるエピソードから推察できるように、他人への情けを否定し、目的(勝利)のためであれば裏切りや非道さも認める人生の是非を問いかけている。

人生への愛を語るのみだった無印では語られなかった、人間が生きる上で欠かせない他者の存在とその関わり合いを読者に問いかけている。

 

また、その人生における他者との関係性を描く新では、中学生のみがテニスをする無印では居なかった高校生が登場人物になることで生じた6年間の時間幅が、伝承・育成という人の営みの中で欠かせない要素の一つをも伝える。

この高校生の存在は、原作漫画の新しい魅力をもたらす役割も果たしており、中学生達の成長の天井をぶっ壊す高校生達からは、プレイをするばかりが格好良さではないことを感じることができる。 さらに、中学生(特に中3陣)には、無印の頃では描かれていなかった受け取る側としての一面が加わり、1人の人間に対する描かれ方に深みが増している。

 

『テニスの王子様』と『新テニスの王子様』との関係性_無印時代の「テニスは人生」

圧倒的人生への肯定感を描き出し、紙面から迸らせる漫画『テニスの王子様』。

原作者も言う通り「テニスは人生」である。

テニスの王子様』の最終決戦中Geenius376(最終話まで残り4話)に主人公:越前リョーマが天衣無縫の極みにたどり着いた「テニスって楽しいじゃん」はそのまま「人生って楽しいじゃん」なのだ。さらには、その後に続くリョーマの父:越前南次郎の「天衣無縫なんてもんは 誰もが持ってるもんだぜ」「誰もが最初にテニスに出会った時の気持ち……… テニスを楽しむテニス…か」は人間皆この世に生まれ落ちたその瞬間はこれから生きる人生への希望を抱き生まれたということを比喩している。

テニプリには、人が生きることに対する前向きなエネルギー=圧倒的肯定感が描かれているのだ。

これは余談だが、2018年3月18日には通称ラジプリこと新テニスの王子様オンザレイディオの番組中で、幸村精市役の声優永井幸子氏は「テニプリにおいて勝ちたい=生きたい。試合は命の営みだ」と語った。

テニプリは、人の魂が輝く瞬間を描いた人間の生命讃美の物語なのである。

 

さて、その「テニスって楽しいじゃん」へのアンチテーゼでストーリーを展開してみせるのが、続編『新テニスの王子様』である。(続く

 

『テニスの王子様』と『新テニスの王子様』との関係性_完結による世界の安定性

1999年7月、週刊少年ジャンプで連載が始まり、翌2000年1月に『テニスの王子様』第1巻が発売された。その後、連載は続き、2008年3月に全379話で完結した。単行本は2008年6月に発売された42巻が最終巻となり、公式ファンブック10.5巻、20.5巻、40.5巻を含む全45巻が刊行された。(30.5巻はイラスト集。)

現在、原作漫画は『新テニスの王子様』となり、2009年4月から月刊ジャンプSQで連載が続いている。2017年12月には22巻の単行本が刊行された。

 

このことから分かるように、というよりは、周知の通り、『テニスの王子様』は一度完結している話なのである。

この"一度は完結している"、ということがテニスの王子様に揺るぎなさをもたらしている。原作漫画が原作として完結を迎えることで、原作世界は不変の絶対性を獲得した。

つまり、今後どのようなことがあっても、『テニスの王子様』は不変であり続ける。揺るがない物語としてこの世に存在し続けることになった。

これはある種の安定性が原作漫画世界に備わったことになる。

すなわち、読者は、安定した拠り所として、全45巻の『テニスの王子様』を読み、解釈し、楽しむことができる。

この完結した絶対世界であるという点こそ、テニプリが信じるに足りる世界である、といえる重要なポイントなのだ。

 

その一方で、テニプリは一度終わりを迎え、『新テニスの王子様』としてまた新しく始まった。

略称であるテニプリの元になっている英題は、『テニスの王子様』がTHE PRINCE OF TENNISで、『新テニスの王子様』がTHE PRINCE OF TENNIS Ⅱだ。原作者も明言している通り、新テニスの王子様は正しくテニスの王子様の続編である。そして、今なお連載中だ。つまり、読者にとっては、ストーリーは不確定で、未知の世界が待っている状態である。

 

この完結し完成された世界『テニスの王子様』の安定性と、連載でこれから何が起こるかわからないドキドキ感を残す『新テニスの王子様』世界とが両方存在することで、テニプリは、安定が必要な信仰と期待感のエンターテインメントを両立させているのだ。

傾向

2017年5月14日livedoor NEWSにミュージカル『テニスの王子様』の舞台プロデューサーを務めた片岡氏のインタビュー記事が掲載された。記事中においては「原作を超えるものはできない。けれど、原作に恥じないものを作ろう」という意識が語られていた。

 

では、ファンも原作を原点としてテニプリを楽しんでいるのか、というと実は皆が皆そういう訳ではない。

テニプリファンの中には、原作を読んだことのないファンも一定数存在する。

「声優がきっかけでアニメから観始めた。」

「ミュージカルしか観たことがない。」

という層は少なくない。

 

そして、アニメとミュージカルは原作漫画をそれぞれの媒体にするにあたり、脚色やストーリー変更が行われている。アニメについては、オリジナルストーリーも多々存在するほどである。

原作者が実際に描いているのは漫画(原作)のみであり、"人生への圧倒的肯定"という大きなテーマは変わらないものの、そこにたどり着くまでのストーリーや描き方は漫画・アニメ・ミュージカルでは異なっているのである。

つまり、一口にテニスの王子様のファンと言っても共有しているストーリーの詳細が一致しないのだ。

その不一致に伴い、テニプリファンの間でも公式3媒体への重要度が個々人によって違いがある。

その趣味嗜好の傾向は、まるで、仏教やキリスト教などの創唱宗教における宗派のように。

具体的には、原作原理主義、アニメ派、テニミュ派、原作者信仰型、公式信仰型、同人否定(肯定)派、リベラル派、など公式3媒体の重要度以外の要素も加わってテニプリを楽しむ傾向分けができるだろう。(ちなみに、私(筆者)は原作至上主義の原理主義です。)

 

と、ファンの傾向は色々とあれど、公式もとい原作者より順位づけのない公式媒体として公言された今、どの媒体に重きを置いて楽しむのかどうかは、ほぼ完全に私事化されていると言えるだろう。

 

また、趣味嗜好の傾向の宗派分けを、創唱宗教的な見方ではなく、テニスの王子様自然宗教的な対象と捉えると、宗派の分け方も変わり、キャラクター信仰となる。すると、学校、キャラクター別の宗派となるのだが、この場合、組み合わせが無限大になってしまい、宗派というには些か細かすぎるように感じる。という観点も付け加えておきたい。

キャラソンとの親和性

テニスの王子様はキャラクターソングと親和性が高いのだ。

テニプリフェスタ等で舞台上でキャラクターソングを歌う声優を通してファンはそのキャラクターが生きている様を見る程の力を持つ。

2002年7月に主人公越前リョーマのキャラクターソングがリリースされてから15年間で世に出たキャラクター及び許斐先生名義の楽曲数は731曲(2016年10月テニフェス2016時点。"テニプリソング"という呼称)。なお、CD数は411タイトルがリリースされている。正直、到底理解のできない次元に及んでいる。

 

歌には人間の内面を紡ぎ出す側面があるが、作り込まれたキャラクター設定が深堀りできるほどの人間性を与えているため、歌に乗せる主題が各キャラにある。それも、人間的な内面の複雑性も備わっているため、一人一曲分以上の主題があるのだ。

さらには、固定ダブルスペアとなるキャラクター同士でのデュエット曲にしても、各ペアに固有の人間関係があるため、歌の主題はここにも存在する。

そして、テニスの王子様においては、各キャラクターが所属する学校毎にも制服、校風、生徒規模などの詳細設定が決まっており、多様な学校色が見受けられる。この各校のカラーの違いと濃度はやはり歌にするのに最適なものになっている。

すなわち、

「200を超える膨大なキャラクター数(2016年1月許斐先生ワンマンライブのライブグッズ缶バッジ種類数に因る)」×「それぞれのキャラクターに与えられた詳細な設定」=「多種多様な膨大なキャラクターソング」

という式が成り立つのだ。

 

また、人生への圧倒的肯定を描き出す『テニスの王子様』では、試合描写において、それぞれの王子様の生命が一番輝く瞬間が描かれている。試合は、魂と魂のぶつかり合いであり、描かれているのは王子様達の生き様そのものなのである。

それが、演技を生業とし、自らの声で生きている声優であるキャスト陣にとって、声で魅せる歌での表現は、作品中の王子様達が魂を剥き出しにする試合の瞬間と重なるのである。

だからこそ、ファンは"テニプリソング"を歌う声優キャストを通して生きる王子様の姿をそこに見つけるのだ。

 

"テニプリソング"は王子様達それぞれ個人の内面や人間関係を描くことに加え、ストーリー中の王子様と重なるような声優キャストの生き様と力が乗ることによって、そこに宿る生きるエネルギーやオーラをも伝える存在として、テニスの王子様世界をより深く色鮮やかにしている。

三位一体

2017年10月に遂に公式から「原作×アニメ×ミュージカル」の「オールテニプリ」という概念が発表された。オールテニプリミュージアム in 京都である。

これは、つまり、『テニスの王子様』は

・原作(漫画)

・アニメ

・ミュージカル

この3つが全て公式コンテンツであるという宣言ともいえるだろう。

テニプリとしてのメッセージを発する公式媒体が三つ存在するということだ。

この状態が正しく「三位一体」なのである。

 

三位一体という言葉を広辞苑第七版を検索すると下記のように記載されている。

さん-み【三位】(サンヰの連声)

正三位または従三位。また、その人。

キリスト教で、父と子(キリスト)と聖霊との称。

--いったい【三位一体】

①(The Trinity)キリスト教で、父なる神と、贖罪者キリストとして世に現れた子なる神と、信仰経験を与える聖霊なる神とが、唯一なる神の三位格(ペルソナ)であるとする説。

②三つの要素が互いに結びついていて、本質においては一つであること。三者が協力して一体になること。

 

②については、オールテニプリそのものである。

オールテニプリという呼称については、オールテニプリミュージアム後も2018年6月に開催される原作者許斐剛先生の2ndライブでもライブタイトルに使用され、原作者公認かつ持続的な概念であることがうかがえる。

確固たる原点の原作(漫画)に加え、アニメはキャラクター達に声や動きを与え命を吹き込み、王子様達はよりリアリティのある人物へと成長させ、さらにミュージカルは最もリアルに若い男子の生き方が反映されることで、作品・コンテンツそのものへのリアリティを提供している。

つまり、「原作×アニメ×ミュージカル」三位格が互いに結びつき、『テニスの王子様』という一つのコンテンツを構成している。

そして、オールテニプリミュージアム(略称:おてみゅ(発案:原作者許斐剛先生))や今後のオールテニプリフェスタ(略称:おてふぇす(発案:原作者許斐剛先生))のように三者が一体となり、世界観に広さ、深み、奥行きをもたらしていっている。

 

また、②の意味を非常によく満たしていることから、①のキリスト教信仰との類似性の高さも見受けられるのではないだろうか。

 

(後日追記分_2018.3.21)

「三位一体」とは、「三つの位格、一つの実体」のことである。(四字熟語における略する前の文章が、「三つの位格、一つの実体」。)

これは、一つの物の違う側面が3つある、という意味ではなく、一つの物が3つを内在しているということである。これをテニプリの三位一体と照らし合わせると、オールテニプリと称される「原作×アニメ×ミュージカル」は、テニプリの異なる側面ではなく、テニプリ公式が原作・アニメ・ミュージカルを有する、すなわち、その3つ全てを以ってテニプリ=テニスの王子様&新テニスの王子様ということだ。そして、この三位一体の状態こそが現状なのではないだろうか。