超解釈テニスの王子様  人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

人生への圧倒的肯定を描き出す『テニスの王子様』と、その続編『新テニスの王子様』についての個人的な考察を綴ります。 出版社および原作者など全ての公式とは一切の関係はありません。全ては一読者の勝手で個人的な趣味嗜好です。 Twitterアカウント:@namimashimashi

主人公考_誰もが可能性を秘めた存在である

越前リョーマという主人公は、セオリー通りの少年漫画の主人公とは少し違っている。

遠山金太郎の方が王道少年漫画の主人公に近い。

では何故『テニスの王子様』では越前リョーマが主人公なのだろうか。

 

越前リョーマは"背負わない"主人公である。

これは主人公以外のキャラクターが自立していることにも起因する。

それ以外の周囲のキャラクター達にとっての主人公は、感化されるのではなく、きっかけになる存在である。

誰もがみんな自分の中に元からあった眠れる力を引き出すことができる存在として在る。

特にこの様子は、主人公ではないキャラクターの1人である不二周助で『テニスの王子様』から『新テニスの王子様』の流れを通して明言されており、無印の頃から勝利に執着できない精神的に克服するべき課題があった不二周助は、新テニ21巻Golden age207において「彼(不二周助)は自らの手で壁をブチ壊していく程の心の強さを秘めていた」と評され、己の中の呪縛から自らの中にあった力によって解き放たれることができたことが読み取れる。

 

そして、越前リョーマという主人公は、周囲の目標を取り入れる。

例えば無印において、"青学の優勝"は、ただ目の前のテニスの試合の勝利にしか興味がなかった越前リョーマが、青春学園中等部男子テニス部の先輩達と団体戦に挑む中でリョーマが影響を受けて"青学のために"勝ちたいという目標を後発的に掲げるようになったものである。

つまり、「此奴の為に何かをしてやりたい」と思わせる主人公ではない。

なお、生意気なルーキーと呼ばれる原因もここにあるのではないだろうか。

 

 

この主人公の在り方は、テニプリが「努力・友情・勝利と」いう週刊少年ジャンプの大原則には則っているものの、その在り方が特異だと感じる要因でもある。

 

 

誰もが誰かの王子様である、すなわち、全てのキャラクターが王子様であるのは、誰もが天衣無縫の極みに到達できる可能性を秘めていると明言されていることにもよるが、全てのキャラクターに眠れる力があり、その力を向き合い目覚めさせることができる可能性を秘めた存在であるということなのだ。

その中で主人公として存在する越前リョーマが主人公たる所以の"特別さ"は、一番天衣無縫に近い場所にいるという点である。

 

誰もがそれぞれの人生の物語の主人公でありながら、『テニスの王子様』という物語では"テニスの王子様"に一番近い存在だった越前リョーマを主人公にした物語として構成されていると読める。

 

テニプリに触れて元気が出る、人生に前向きになれるのは、描き手である原作者がキャラクター全員のそれぞれの可能性を信じたままに描くことから生じる、

特別な存在でなくても誰もが可能性に満ちた天衣無縫の極み、つまり、どんな苦しい時にでもテニスって楽しいじゃんという曇りなき肯定感を抱くことができる存在だ

という全ての人の人生への希望を感じることができるからなのではないだろうか。

 

原作者:許斐剛先生作詞の楽曲であるテニプリ☆パラダイスの歌詞にある

"一歩も引くな勇敢な心 眠れる力を引き出せ スプリットステップ 意地と勇気ぶつかり合いの中 その先の可能性見出せ"(漫画の作中では、越前リョーマvs亜久津仁の試合)

"どんな苦しい時にでも天衣無縫でテニスって楽しいじゃん"(漫画の作中では、越前リョーマvs幸村精市の試合)

これらも実は全てのキャラクターに当てはまる事なのだ。

 

越前リョーマは全ての王子様達の代表であって、実は越前リョーマ以外の王子様全員にも同じくその可能性があるというのが『テニスの王子様』という漫画であり、その点こそが全てのキャラクターに読者のファンがいて、全てのキャラクターのキャストが担当するキャラクターを愛してくれる要因でもあるのではないかと考えている。

閑話_社会問題に触れて_「人を傷つける為にあるんじゃない!」

実名は記さないでいこうと思います。

 

連日マスコミを騒がせている大学スポーツ競技の反則行為に絡む報道を見て、友人から「大学の監督にテニプリ読んでほしいよね。」と言われ、私は『テニスの王子様』全国大会の青学vs比嘉の一戦を思った。

 

結局のところ全くの第三者である身としては、今はただ、当事者の心が救われることを祈り、願うだけしかできない。

そうではありつつも「ラケットは人を傷つける為にあるんじゃない」と強く言い切り、ラフプレーの正当性を真っ向から否定した『テニスの王子様』に救いを見出したい。

 

全国大会の青学vs比嘉戦は「"非道"は意味を成すのか」という命題を掲げ、青学の純粋さや誠実さ(許斐先生作詞テニプリFEVERの歌詞から引けば"勇気と優しさ")を以ってして、非道な手段を真っ向から否定するストーリーである。

青学は、過去に暴力手段の被害被ったことのある部長:手塚国光が「ラケットは人を傷つける為にあるんじゃない!」と身を以て語る存在としてチームを率いていることもあり、チーム全体として人を傷つけるテニスを否定している。

一方、比嘉中の選手は、監督からの要請や長年の苦渋といった周囲の環境等々から非道な手段に訴えることを覚え、取り入れた存在として登場する。

 

余談だが、流血沙汰の多い『テニスの王子様』だが、青学の選手がテニスの試合で意図的に先制して相手を傷つける描写は無い。

 

スポーツは起源に遡れば、軍人がプレイヤーとなり、取り組んだ経緯から、国にとっての戦闘や戦い、即ち、命をかける争いに繋がる側面がある。なお、プレイヤー達自身にとっては、スポーツに取り組むことは、平和的休戦を宣言する、命の取り合いはしない約束をした状態である。しかしながら、プレイヤー達の所属先(国、チームなど)にとっては、自らの組織の力を誇示するための手段となり得るのがスポーツであり、スポーツでの勝利が戦闘での勝利とイコールで結びついてしまう危険性が伴う。そのため、スポーツにおいて勝利を求めると、文字通りの生命を賭けた戦いになってしまう可能性を孕むことは否定できないだろう。

 

"何をしてでも勝つ"

"勝つ為であれば非道な手段に訴えることも辞さない" 

 

比嘉中テニス部顧問である早乙女晴美は作中で選手達に向かって「勝つ為には何でもやるんじゃなかったのか⁉︎」と怒鳴るシーンが描かれている。

"勝つ為には何でもやる"="ラフプレーをしてでも勝つ"方針に従い、従うしかなかった比嘉中を青学が一敗もせずに完全に団体戦に勝利することで、その考えをテニプリは真っ向から完全に否定する。

監督と一緒になってラフプレーを指示し、支持した比嘉中部長の木手永四郎を、青学部長の手塚国光が「そんなお前の1勝を部員達は望んでいるのか?」と考え自体を否定し、ラフプレーを退け、圧倒的に勝利するシーンは象徴的である。

非道な手段に訴えてはならない。

非道な手段に訴えてもそこに勝利は無い。

それは強さでは無い。

 

比嘉中は青学との試合の前に六角中と対戦し、六角中の勝利のために鋭いアドバイスをした六角中顧問にボールをぶつけて退場させるラフプレーをしている。

この一件について、新テニスの王子様パーフェクトファンブック23.5巻では原作者より「六角と比嘉は仲直りはしてない。やっぱりオジイにボールぶつけられたからね。」と明かされている。

比嘉中の選手は、たとえ他の学校の選手からは認められたとしても、被害の当事者である六角中にとっては許すことはできない相手であることを踏まえて、作品は描かれていることが分かる。

 

 

ただの第三者が悲しいのは、純粋に競技をしていたであろう選手が非道な手段に訴える精神性(メンタリティー)をもってしまったことだ。その現実がただただ悲しい。

 

被害者側はどうしたって許せない事案なのだ。そう考えると当事者同士の関係性においてはそこに許しが訪れる可能性は極めて低いであろうことは想像に難くない。

そんな現実社会にも、越前リョーマと青学の仲間みたいな王子様であるメシア的存在がいてくれることを願ってしまう。

テニスの王子様』では完結に向かう話の最後に、主人公の父であり伝説のテニスプレイヤーである越前南次郎が「天衣無縫の極みに到達できる素質は誰でも持ってる。テニスを始めた頃の何もかもが楽しかった頃の気持ちを忘れるな」(意訳)と言ってる。

天衣無縫に到達することができる救いがあると信じたい。

 

許斐先生作詞の楽曲Love Festivalの歌詞より

 

「"ありがとう"の意味を 分かってない大人に告ぐ ボクらは決して負けない」

まだこの"ありがとう"の意味が分かる精神性があるのであれば、決して負けずにいてほしいと願って止まない。

 

 

冒頭に言及した大学競技を巡る一連の問題について、当事者の、特にこれから何十年と生きていく若者達の人生が救われることを祈り願いたい。救われる可能性があると信じたい、というのが、全くの第三者としてこの問題に触れた私の今の心境です。

原作漫画通読のすゝめ

生きることが辛くなったら『テニスの王子様』『新テニスの王子様』を読もう。

深いことは考えず、ただ1巻〜最終巻までを一気に読もう。

細かいことは気にしなくて良いから、原作漫画を読もう。

 

"テニプリの世界"は、我々一般読者が思うよりも、もっとずっと前向きで明るい世界なんだと思う。

悲しい空想は打ち砕かれていく世界だ。

負けても良いから仲間と全力で非道な手段に訴えることもなく勝利を目指してひたすらにテニスをする世界。キラキラし続ける世界。

誰だって勝ちたい

結果的には勝てなくても真正面から全力でぶつかりたい

仲間と分かち合いたい

仲間のために強くなりたい

仲間と一緒に上を目指したい

テニプリはある種の永遠性を持っている話だ。

その永遠性は、物事の終焉が持つ負のエネルギーに抗う営みなのだと思う。

永遠性と刹那性が同居し、それぞれの美点が響き合い莫大な輝きを持つのが『テニスの王子様』『新テニスの王子様』のストーリーだ。

  

テニプリは、漫画・アニメ・ミュージカルという3つの公式コンテンツ(3つを総称して"オールテニプリ")を有しているが、その中でも全ての原点になるのが、原作漫画である。

テニプリが好きになった人は、ぜひ、その全ての原点である原作漫画を読んでほしい。

もちろんアニメやミュージカルを見るのが好きでも構わない。

だが、一度で良いから原作漫画を最初から最後まで読んでほしい。

テニスの王子様』全42巻と『新テニスの王子様』1巻〜最新巻(2018年5月現在23巻)合計65巻の単行本が刊行されている漫画を読むのは大変かもしれない。

それでも『テニスの王子様』の1巻1話Genius1から最新話Golden ageまで読んでほしい。

 それが、一番、この作品、テニプリ、『テニスの王子様』『新テニスの王子様』が有する圧巻の前向きエネルギーを受け取ることができる。

 

生の人間が演じるパワーが授けられたアニメやミュージカルは、その分だけ訴えかけるパワーも強い。

ミュージカルキャストはいつか王子様達も経験するであろう終わりを見せてしまう。良くも悪くも。

だから永遠性に近いアニメ声優キャストの方が分かりやすくテニプリ王子様キャラクターに近いような気がする。

 

生きていて辛い思いをしたら『テニスの王子様』『新テニスの王子様』を読もう。

深いことは考えず、ただ1巻〜最終巻まで一気に読もう。

一気に読んだ果てには、生きるエネルギーが湧き上がる感覚を覚えるのではないだろうか。

それが言語化された感覚でなくて構わない。

何かを感じようと構えて読まなくて構わない。

ただその紙面が発するエネルギーに触れて感じることが、漫画『テニスの王子様』『新テニスの王子様』の最高の読み方であり、この作品が持つパワーなのだと思う。

そして前に進む力をもらってほしい。

王子様達はいつでも人生の隣にいてくれるから。

 

それを感じることのできる漫画読書体験を味わうのが、テニプリのパワーの原点に触れることだと思う。

 

ずっと続くことの有り難み、続くことを大切にしたい気持ちが強いのは、テニプリの王子様達のメンタリティーが影響していることなのだろう。

 

作品の中にいるうちは"先を見なくて良い世界"にいられる。

未来のことを考えないテニプリの世界

何が起こるかわからない怖さを孕む"この先"を考えない見ない世界

"今""この瞬間"に全力で集中するだけ

人間の人生を最大に使う瞬間

その幸せと魂煌めかせる感じは最強だ。

 

でも、王子様達に未来が無いのか?というと、そういうことでも無いのである。

先生が王子様達の10年後を想定されていることを思うと、きっとどんな形であろうと王子様達はそれぞれの人生を前向きに生きているんだと信じている。

テニスともそれぞれがそれぞれの方法ででも良い方法で向き合った結果の未来の人生があるんだと思う。

絶望しない王子様達

 

人は、絶望の中では上を目指すのは困難である。

絶望しながら希望を見ることはできない。

人が生きる中では、時として絶望を覚えることがある。絶望により自らの人生を諦めることがある。前を向けなくなることがある。

そんな時は『テニスの王子様』『新テニスの王子様』を読んでほしい。

テニプリは人生への圧倒的肯定感を描いている。

人が生きること、人生を究極に賛美している。

その肯定感を描き出すテニプリの王子様達は絶望しない存在なのだ。

絶望をはねのける圧倒的な力を有した存在達として存在している。

 

「テニスは人生」 である『テニスの王子様』『新テニスの王子様』において絶望とはテニスを辞めることだ。

その世界において、王子様達は誰一人としてテニスを辞めていない。

このことは、パーフェクトファンブック23.5巻

P233 許斐先生が答える!一問一答ラリー

Q28「代表合宿に来ていない中学生の様子が知りたいです。」

A.「来年に向けてがっつり練習してます!」

この質問・回答からうかがい知ることができるだろう。

新テニで代表合宿に参加しテニスをしている王子様達はもちろん、合宿に来ていない王子様達であってもテニスを続けていることが明言されているのだ。

 

そんな中、作品中で一度テニスを辞めた、すなわち、絶望を味わった王子様がいる。

亜久津仁である。

しかし、テニプリは無印から新テニに続く亜久津仁の描き方で、絶望を克服させている。

亜久津仁は自らの信念によりテニスを辞めざるをえなくなったが、"血のあがない"という文字通りに命をかけた行為により、その手にもう一度テニスを取り戻している。テニスを失った絶望を打破させたのである。

その絶望を克服した決定打として描かれた新テニのU-17W杯予選グループ3戦目スイス戦S3からテニプリにおいて王子様が絶望しない存在であることを示唆しうる一言、『新テニスの王子様』22巻スイス代表アマデウスの台詞を引用する。

 

「審判…!選手が戦おうとしているのに余計な手出しをするな」

 

生きようとする意志が有る限り、その意志は尊重されるべきであり、外野によって妨げられるべきではない。何人たりとも他人(ひと)のテニスを奪うことはできない。

その意志は無印で辿り着いた「天衣無縫の極み」の要素だ。つまり、最終決戦!王子様VS神の子で越前リョーマが体現して見せた五感を奪う=テニスをできなくする神の子を打破する力が絶望をはねのけるのだ。

この力が存在する限り、そして、越前南次郎が言ったように「天衣無縫なんてもんは誰もが持ってる」のであれば、テニプリの王子様は絶望しない。

 

王子様全員が天衣無縫の力を持っている。

テニスを楽しむテニスをする力が人生を暗く貶める呪文を否定する。

テニスをする意志の光は消えない。

消えても命をかけることで再び灯る。

 

それを見せてくれる王子様は絶望しない存在だ。

 

これこそが、テニプリが描く圧倒的に肯定された人生であり、その人生への肯定感を受け取ることで読者はテニプリに励まされ、生きる活力を得ることができている。

 

 

 

 

"愛"が見える

諸宗教(創唱宗教)ではその教えに神(またはそれに準ずる存在)からの"愛"が語られていることが多い。

絶対的な愛が人々へ救い赦しをもたらす。

 

テニプリにおける"愛"は、原作者許斐剛先生の作品および作中キャラクター達に対するあふれんばかりの"愛"が、ファンやテニプリファミリーと呼ばれる公式製作陣達に伝わり、テニプリを愛する原動力となり、多くのテニプリへの愛を産む。

その原作者からの"愛"とそれに波及する多くの人々からの愛される力を以って、キャラクター達は各々にその人生を光り輝かせることで、テニプリ全体として人生への圧倒的肯定感を放っている。

 

そのテニプリにおける"愛"の実現は目に見える形で表れている。

 

2018年5月2日 新テニスの王子様 パーフェクトファンブック 23.5巻が発売された。

原作者である許斐剛先生が完全監修の正に"パーフェクトファンブック"だ。

その内容や情報量に関しては、ぜひ現物をご覧いただきたい。

 

この23.5巻はテニプリの"愛"を体現したものなのである。

この23.5巻に表れているものこそがテニプリの愛である。

 

23.5巻に掲載されたキャラクター数は196名(除く許斐剛先生)。そして、名前が出ただけのキャラクターもカウントすれば+6名=202名となる。

なお、2016年1月16日に開催された「許斐剛☆サプライズLIVE 〜一人テニプリフェスタ」の物販200キャラクター描き下ろし缶バッジのラインナップによると、23.5巻に掲載も言及もされていないキャラクターは他に30(含む:うさいぬ、熊の大五郎など)ある。つまり、パーフェクトファンブックのキャラクター網羅率は約87%である。

連載19年目を迎え、主人公の所属学校内での部内戦、地区大会という小さい規模の試合からスタートした物語が舞台を世界に移し、登場人物も中学生に加えて高校生が増えた現状でも『テニスの王子様』連載初期のキャラクターのプロフィールを掲載するファンブックを原作者完全監修で刊行するのがテニプリだ。

キャラクターそれぞれを人気の高さや登場時期ではなく、一人一人として尊重しているからこそできる業である。

 

またお気付きの通り、"200キャラ描き下ろし缶バッジ"というグッズとして販売される物を原作者が製作した事実からも、名前のあるキャラクターは全て尊重し愛を注ぐ原作者の姿が見られるだろう。

 

余談だが、2018年6月10日開催予定のおてふぇすでは完全版缶バッジ全198種類が販売される予定だ。名前のある登場人物232人中、約85%のキャラクターがグッズになり値が付き、販売されるのである。→2018年5月25日追記:おてふぇす2018缶バッジ全198種類は、キャラクター缶バッジではなく、原作イラストであることが2018年5月25日に発表されたので、グッズ化されたキャラクター数は196名、その率は約83%となります。

 

作中のキャラ一人一人が原作者によって愛される世界がテニプリにはある。 

 

そしてこの原作者の"愛"はテニプリファミリーにも伝わり、原作漫画以外の場所からもファンへ"愛"が伝わるようになっている。

 

アニメ『テニスの王子様』『新テニスの王子様』の声優キャスト2名の話を引用したい。

 

なお、2001年10月10日にテレビアニメ 『テニスの王子様』放送開始。

アニメ『テニスの王子様』は3~4ヶ月で急いでオーディションを実施したという話があることから、初回から登場しているキャラクターの声優キャストは、2001年初夏〜夏頃にオーディションを受けていると推測される。

すると、青学(他、玉林、不動峰など無印の地区大会までに登場するキャラクター)キャストは約17年間(2001年夏〜)キャラクターと付き合いを重ねている。

 

川本成氏オフィシャルブログ「Naru's blog'n boy ブロークンショウネン」

2016年10月27日 1時10分13秒 「テニフェス2016④」の記事より

本当にね、あの先生はね、凄いす。本当に凄い。

許斐先生は本当にウォルトディズニーみたい。許斐先生は愛だ、愛そのものだ。と前に言ったことがありますが、そうか、やっぱりあの先生は愛に加えてピースフルなんだ。誰でもビックリ、楽しんで、そしてみんな笑顔、みたいな事だ。
 
それは言葉で言うとやっぱり「ラブアンドピース」って事になるんだろう。
 
許斐剛先生はつまりラブアンドピースなんだ。
 
 
 
そして、そんな許斐先生自体がガンガンに前を向き続けてるんだよ。走り続けてるんだもの。
誰も傷つかないで、そしてみんながピースな、全うで尊い道を作りながら先頭を走り続けている。」
 
 
 
2018年3月2日 許斐 剛のパーフェクトLINE LIVE!
諏訪部順一氏の発言1h30m15s〜
「テニフェスとかあるじゃないですか やっぱり色々キャラごとにそのソロで歌う場面もあったり見せ場があったりするじゃないですか 僕らキャスト側がいつも言っているのは満遍なくみんながちゃんと出番があるようにセットリストっていうか構成つくってくれっていう どんなキャラ 例えばいわゆるその人気があるとかそういうことじゃなくて みんな同じこのテニプリのキャラクターで並列だから 同じプレイヤー達だから そしてそれの魂込めてやっている役者達が集まってこのステージの上に乗っかるんで これどっかをこうやって持ち上げて このキャラ人気だからこいつをメインにしてどうこうって もちろん主人公の越前リョーマとかメインですけどこれはもう当然のことなんだけど それ以外に関してとかっていうのは みんなが それぞれに愛してくれている人たちがいるわけで、これはどうにかいつもお願いしていることで 僕たちからも」
※許斐先生のテニプリファミリーにもすごく伝わっていて、人気のあるキャラクターだけじゃなくて、制作側がファンの欲しがるキャラクターを作ってくれている〜という話を受けて。
 
諏訪部順一跡部景吾のオーディションに受かった連絡を受けたのは雪が降っていた日だそうだ。テレビシリーズに跡部景吾が初登場したのが2002年3月13日放送分「薫の災難」であることを考えると、おそらく2001年末〜2002年始め頃にキャスティングされている。16年半。氷帝学園(除く日吉若)は青学から半年遅れくらいでのキャラクターとの付き合い。
 
テニプリファミリー=原作・アニメ・ミュージカルというテニプリ公式三位一体3コンテンツのいずれかに関わる製作者達のこと。アニメキャスト、テニミュキャスト、脚本家、プロデューサーなど。
 
 
このように原作者許斐剛先生のテニプリ愛がテニプリファミリーのテニプリ愛となり、オールテニプリのコンテンツを通してファンに伝わることで、ファンは安心してテニプリを好きで愛することができる。
この安心感をもたらす"愛"の源が原作漫画であり、目に見える、実在する形としてあることで、テニプリにおける"愛"が絶対性を帯びるのである。
絶対的な愛は強い。
その強さが読者(ファン)の人生をも支え得る力だ。
王子様達が人生に寄り添う存在となる由縁である。

赦し・救い

テニスの王子様』『新テニスの王子様』において"赦し""救い"はあるのだろうか。と考えた。人生への圧倒的肯定感を感じることができる以上、人が生きていることを全面的に肯定し喜ぶ理、すなわち、人が生きることへの"赦し"や"救い"があるはずである。

テニプリにおける"赦し"はテニスをテニスのためにすることであり、テニスのためにテニスをしている以上そこに"救い"がある。

それは、テニス=人生なテニプリにおいては、生きることに真剣に生きていることが"救い"である。

無印『テニスの王子様』の378話(最終話の1話前)で主人公の父:越前南次郎が「天衣無縫の極み」を「誰でも持っているもの」だと語っている。また、この最終話のタイトルは「Dear Prince〜テニスの王子様達へ〜」。天衣無縫の極みに到達できる、「テニスって楽しいじゃん」と思える、最初にテニスに出会った時の気持ちを忘れずにいられる、そんなプレイヤー達は皆「テニスの王子様」なのだ。そして、「テニスの王子様」になること、「テニスの王子様」でいることが『テニスの王子様』『新テニスの王子様』における"赦し"と"救い"ではないだろうか。

そして、テニスのためにテニスができなくなった人々に"赦し"を与えるのが主人公の存在である。

越前リョーマ(と遠山金太郎)は対戦相手の"呪い"を解き"赦し"を与える存在だ。彼(ら)に対峙し、彼(ら)のテニスに敗北した相手は目が覚まされていく。(※とりわけ伊武深司と幸村精市は漫画でもその描写が分かりやすい。対戦前後で目の輝き(塗り方)が変化しており、試合が始まる前や試合中は目が催眠にかかったようなハイライトのない描かれ方をしているが、対戦後(越前リョーマに敗けた後)は他のキャラクターと同様の光を宿した目に変わっている。)

主人公とテニスで対峙することで、再びテニスのためのテニスに気づき、再び赦し救われる存在としての息遣いが始まる。

テニスのためにテニスをすること。

テニスに正面から自分の全てを以ってして向き合うこと。

テニスは人生のテニプリが発する圧倒的人生への肯定感は、そんな生きることそのものへの賛美と生きる楽しさや素晴らしさを取り戻し、忘れずいることの輝きからくるものなのだろう。

 

ちなみに、越前南次郎は、『新テニスの王子様』では、幼い息子達に「そうだ テニスをやれ」とテニスを勧めており、ここからも「テニスをすること」そのものこそがテニプリでキャラクターが息遣いを始める出発点であることが読み取れるだろう。

 

なお私は、新テニは、テニスを"何かのために"することという命題の考察をしているのではないか、と推察している。

キャラクター考_W主人公補足

前記事で述べた主人公としての越前リョーマ遠山金太郎について補足したい。

テニプリ読者には馴染み深い話ではあるが、連載開始前の構想段階では、テニスの王子様は「金テニ」というタイトルで遠山金太郎が主人公、越前リョーマは主人公のライバルとなる予定であった。それが入れ替わったような形となり、実際の越前リョーマが主人公の『テニスの王子様』として世に出たのである。

 

遠山金太郎は結局主人公ではなかったものの、主人公になるポテンシャルを持った存在なのである。

実際に原作漫画に遠山金太郎が登場する第245〜247話では、話数冠言葉が従来の"Genius"ではなく、"Wild"という遠山金太郎を表す冠言葉が使われ、その話の間は遠山金太郎が主人公、越前リョーマがライバルの立ち位置で描かれている。

その後『テニスの王子様』は再び越前リョーマが主人公の話として完結するが、潜在的には主人公が2人、W(ダブル)主人公の話となっている。

 

この2人はそれぞれ別の"答え"を宿した中心人物である。

"天衣無縫の極みに到達する希望の塊である"という根幹は共通しているものの、その出発点とも言うべきテニスとの出会い方や性格に表裏の様な違いがある。

例えば、テニスの試合に"負けること"に関して、

越前リョーマにとって負けは認めるものであり、

遠山金太郎にとって負けは体感するものである。

一見、全く違う物の様に見えるが、それは世界の理解の仕方、捉え方の違いであって、真には同じことを意味する。

 

また、遠山金太郎の方がより感覚的野生的な主人公である。

越前リョーマも直感や感覚的な主人公ではあるが、その感覚のスイッチや目覚めの瞬間が第三者である読者に見えやすい。遠山金太郎はその野生性のためか、勢いやエネルギーが強く速く、成長が第三者には突発的であり、読者がストーリー展開に置いていかれる可能性がある。

その点において、『テニスの王子様』が「テニスって楽しいじゃん」という人生への圧倒的肯定感を紙面から伝えることができたのは、主人公が越前リョーマであり、遠山金太郎は最初はライバルとして登場したことも一つの要因であると考えられるのではないだろうか。