閑話_社会問題に触れて_「人を傷つける為にあるんじゃない!」
実名は記さないでいこうと思います。
連日マスコミを騒がせている大学スポーツ競技の反則行為に絡む報道を見て、友人から「大学の監督にテニプリ読んでほしいよね。」と言われ、私は『テニスの王子様』全国大会の青学vs比嘉の一戦を思った。
結局のところ全くの第三者である身としては、今はただ、当事者の心が救われることを祈り、願うだけしかできない。
そうではありつつも「ラケットは人を傷つける為にあるんじゃない」と強く言い切り、ラフプレーの正当性を真っ向から否定した『テニスの王子様』に救いを見出したい。
全国大会の青学vs比嘉戦は「"非道"は意味を成すのか」という命題を掲げ、青学の純粋さや誠実さ(許斐先生作詞テニプリFEVERの歌詞から引けば"勇気と優しさ")を以ってして、非道な手段を真っ向から否定するストーリーである。
青学は、過去に暴力手段の被害被ったことのある部長:手塚国光が「ラケットは人を傷つける為にあるんじゃない!」と身を以て語る存在としてチームを率いていることもあり、チーム全体として人を傷つけるテニスを否定している。
一方、比嘉中の選手は、監督からの要請や長年の苦渋といった周囲の環境等々から非道な手段に訴えることを覚え、取り入れた存在として登場する。
余談だが、流血沙汰の多い『テニスの王子様』だが、青学の選手がテニスの試合で意図的に先制して相手を傷つける描写は無い。
スポーツは起源に遡れば、軍人がプレイヤーとなり、取り組んだ経緯から、国にとっての戦闘や戦い、即ち、命をかける争いに繋がる側面がある。なお、プレイヤー達自身にとっては、スポーツに取り組むことは、平和的休戦を宣言する、命の取り合いはしない約束をした状態である。しかしながら、プレイヤー達の所属先(国、チームなど)にとっては、自らの組織の力を誇示するための手段となり得るのがスポーツであり、スポーツでの勝利が戦闘での勝利とイコールで結びついてしまう危険性が伴う。そのため、スポーツにおいて勝利を求めると、文字通りの生命を賭けた戦いになってしまう可能性を孕むことは否定できないだろう。
"何をしてでも勝つ"
"勝つ為であれば非道な手段に訴えることも辞さない"
比嘉中テニス部顧問である早乙女晴美は作中で選手達に向かって「勝つ為には何でもやるんじゃなかったのか⁉︎」と怒鳴るシーンが描かれている。
"勝つ為には何でもやる"="ラフプレーをしてでも勝つ"方針に従い、従うしかなかった比嘉中を青学が一敗もせずに完全に団体戦に勝利することで、その考えをテニプリは真っ向から完全に否定する。
監督と一緒になってラフプレーを指示し、支持した比嘉中部長の木手永四郎を、青学部長の手塚国光が「そんなお前の1勝を部員達は望んでいるのか?」と考え自体を否定し、ラフプレーを退け、圧倒的に勝利するシーンは象徴的である。
非道な手段に訴えてはならない。
非道な手段に訴えてもそこに勝利は無い。
それは強さでは無い。
比嘉中は青学との試合の前に六角中と対戦し、六角中の勝利のために鋭いアドバイスをした六角中顧問にボールをぶつけて退場させるラフプレーをしている。
この一件について、新テニスの王子様パーフェクトファンブック23.5巻では原作者より「六角と比嘉は仲直りはしてない。やっぱりオジイにボールぶつけられたからね。」と明かされている。
比嘉中の選手は、たとえ他の学校の選手からは認められたとしても、被害の当事者である六角中にとっては許すことはできない相手であることを踏まえて、作品は描かれていることが分かる。
ただの第三者が悲しいのは、純粋に競技をしていたであろう選手が非道な手段に訴える精神性(メンタリティー)をもってしまったことだ。その現実がただただ悲しい。
被害者側はどうしたって許せない事案なのだ。そう考えると当事者同士の関係性においてはそこに許しが訪れる可能性は極めて低いであろうことは想像に難くない。
そんな現実社会にも、越前リョーマと青学の仲間みたいな王子様であるメシア的存在がいてくれることを願ってしまう。
『テニスの王子様』では完結に向かう話の最後に、主人公の父であり伝説のテニスプレイヤーである越前南次郎が「天衣無縫の極みに到達できる素質は誰でも持ってる。テニスを始めた頃の何もかもが楽しかった頃の気持ちを忘れるな」(意訳)と言ってる。
天衣無縫に到達することができる救いがあると信じたい。
許斐先生作詞の楽曲Love Festivalの歌詞より
「"ありがとう"の意味を 分かってない大人に告ぐ ボクらは決して負けない」
まだこの"ありがとう"の意味が分かる精神性があるのであれば、決して負けずにいてほしいと願って止まない。
冒頭に言及した大学競技を巡る一連の問題について、当事者の、特にこれから何十年と生きていく若者達の人生が救われることを祈り願いたい。救われる可能性があると信じたい、というのが、全くの第三者としてこの問題に触れた私の今の心境です。