超解釈テニスの王子様  人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

人生への圧倒的肯定を描き出す『テニスの王子様』についての個人的な考察を綴ります。 出版社および原作者など全ての公式とは一切の関係はありません。全ては一読者の勝手で個人的な趣味嗜好です。 Twitterアカウント:@namimashimashi

価値観の格付けがされない世界

試合は哲学と哲学のぶつかる場所だ。

どちらの希望の力が強いか。

試合相手は互いにとっての絶望の姿をしている。

 

主人公を誰にするのか、思い入れを誰にするのか、によって見える正義の形も希望の姿も変わってくる。

 

そこで『テニスの王子様』は青学が主人公でなければならなかった。

テニスの王子様』の爽快感はテニス以外に理由の無い青学だからこそ成立する。

不遇な経験をした不動峰でも、地方から寮生活をするルドルフでも、天性の能力をいびつに持ち上げた不均衡を飲み込んだ山吹でも、プライド高い氷帝でも、親の期待を背負う緑山でも、内地への見返しを誓った比嘉でも、ましてや難病から復活した部長と彼のためにと悲壮なまでの覚悟で歴史を守ってきた立海でも成立しなかった物語の爽快感は青学が主人公だから成り立ったものなのだ。

 

無印『テニスの王子様』で敗退していった学校はチームの形が少しづつ歪だ。

それはテニスに勝ちたい、テニスそのものにだけ向かい合う状態ではないことに起因する歪さだ。また、テニス以外に共有したい哲学があることは、個々人間で理由の捉え方に少しずつずれが生じる可能性があり、ひいてはテニスをするための理由がずれることで結果としてチームの形も歪になる可能性を孕む。

 

分かりやすく例えばの話を想像してみる。

例えばもしも立海大付属が全国大会で優勝してみよう。

彼らの病気の部長のために掲げた常勝無敗の掟は報われるだろう。

だが、どうだ。

先輩や顧問からのいじめに耐えて這い上がった不動峰の思いはどうなる?

勝つために地方から集められたルドルフは、

26年間の不遇の想いを背負って本土に乗り込んできた比嘉は、

彼らの勝ちたかった理由は、バックグラウンドは、立海のそれに比べれば報われなくても構わないものなのだろうか。

立海の想いのみが成就されれば良いのだろうか。

 

この全ての背景を一蹴してみせる方法こそが勝ちたいがために勝ちたい青学になる。

何かのために理由がなければ戦えないチームではない、テニスに勝ちたい思い、ただそれのみで繋がる青学が優勝することで逆説的に全ての生き方を否定せず順位づけもしない世界を構築することに成功している。

また、この戦う理由や背景、ひいては生き方の格付けをしないことが『テニスの王子様』のテーマである"爽快感"(テニスの王子様 公式ファンブック 40.5 許斐 剛先生百八式破答集 参照)につながる。

 

しかしながら、実は作中にこの青学と同じく勝つための理由を持たない、勝ちたいから勝ちたい思いで戦うチームが2校登場する。

六角中四天宝寺である。

 

そのため六角と四天宝寺の敗北は青学が敗北するかのような悲壮感が伴ってしまうはずなのだが、これを『テニスの王子様』はそれぞれ別の方法で綺麗に覆い隠し補う。

 

六角は青学の仲間として描き、

四天宝寺は彼らの一切の回想をなくし歴史の厚みを見えなくし、敗北の直後に遠山金太郎という可能性の象徴を登場させ、一気に前を向かせる。

 

六角と四天宝寺は作中での立ち位置も非常に青学に近しい存在になっている。

 

例えば、六角は合同合宿(ビーチバレーの王子様)エピソードに由来して彼らの果たす役割は青学の身内になる。この昨日の敵が今日の友になる身内への役割転換は比嘉戦で効果を発揮する。

 

四天宝寺の勝つために勝つという価値観(=勝ったモン勝ち)も『テニスの王子様』の世界観においては爽快感の基準になるポテンシャルがあったため、あえて一切のバックグラウンドが分からないような描かれ方をされているのだろう。

だから原作の四天宝寺は"得体の知れないバケモノ"のような雰囲気を放つのである。

四天宝寺が今まで勝ち上がってきた歴史を目撃してしまっては『テニスの王子様』の"爽快感"が表現しきれなくなってしまう可能性がある。

四天宝寺が全国大会準決勝までどうやって勝ち上がってきたのか、その一切を省かれ、あたかも最初から強いかのように見せることで青学の敵、更に言えば、"今まで対戦してきたどの学校をも上回る、予測不能な存在"で"今までの敵を全て上回っている"(テニスの王子様 公式ファンブック 40.5 許斐 剛先生百八式破答集)存在として見せられている。

 

そしてこのテニスの勝利以外に目的意識を持たない青学の全国制覇は、どんな事情にも筆者という外部からの視点で順序がつかなかったということだ。

逆説的に、全ての事情がそれぞれにとっては重要であったのだと尊重されたことになるのである。

だからこそ、何の事情も持たない、テニスそのもののみが理由の青学が主人公でなければ成立しない世界がそこにはある。

 

テニスの王子様』の世界では、戦う理由、すなわち、生きている理由に格付けがされてない。

テニスの王子様』の世界では逆説的な手法ではあるが全ての理由が順位づけされず肯定されているのだ。

比較で生きることを強いられない世界が生きる安心感に繋がり、生き生きと生命の輝きを放つことができるのは、想像に難くないだろう。

この世界を作る側から全て人の価値観が平等に尊重されている世界で生きているから、『テニスの王子様』のキャラクター達は生き生きとしているのではないだろうか。