「桜咲くこの街で 大きく笑おう」
竜崎桜乃は想定される読者の立ち位置を体現する存在なのではないだろうか。
傍観者から当事者になろうとする、物語から正しく勇気をもらう人物のシンボルだ。
彼女の言葉は真実を覆い隠す傍観者ではなく、越前リョーマをまっすぐにみつめる彼女の越前リョーマに対する言葉から『テニスの王子様』と『新テニスの王子様』のストーリーの方向性が見えてくるだろう。
テニスの王子様は、登場人物の構成が他の週刊少年ジャンプ漫画である銀魂と同じような構造になっているように見受けられる。
銀魂はジャンプヒーローは坂田銀時なのであるが、主人公は志村新八であるといえないこともない。
テニスの王子様もジャンプヒーローは越前リョーマであるが、実は主人公は竜崎桜乃であると見ることもできる。
この場合の主人公はいわゆる典型的少年漫画主人公といわれる、ゼロベースから周囲の影響を受けて成長する”普通の”人間に一番近い、すなわち、漫画登場人物とは住む世界を異にする傍観者になるしかない読者と漫画世界とをつなげる人物のことを指す。
要するに漫画主人公とは別に読者との架け橋係が存在する物語構成となっている。
その読者との架け橋的存在である竜崎桜乃は今読者が読んでいる物語がどういう物語であるのか、すなわち我々読者が受け取るべきメッセージを教えてくれる。
『テニスの王子様』『新テニスの王子様』の両方で竜崎桜乃が越前リョーマに向けたセリフを見ると
『テニスの王子様』では、「私も その………リョーマくんにテニスを教えてもらって…すっごくテニスが好きになって…」と言葉の向いている先は”テニス”である。それは、『テニスの王子様』が越前リョーマ(とその他王子様達)がテニスに出会う物語であり、
『新テニスの王子様』では、「どこの代表でもリョーマくんのテニスを応援してるから」と言葉の向いている先は”越前リョーマのテニス”になり、これは、『新テニスの王子様』が"越前リョーマ(とその他王子様達もそれぞれ)のテニス"が確立される物語であると、定義づけることができると考える。
読者は、『テニスの王子様』という漫画の最終回に際して、竜崎桜乃と同じように「Thank you!」と言えるようになることを想定されているのではないだろうか。
“テニスは人生”の法則を思い出せば、
『テニスの王子様』からは我々読者は生きることを好きになるメッセージを受け取り、
『新テニスの王子様』は各々の人生を歩む自己肯定感を受け取る。
そして、
「今までの勇気を たくさん拾い集めて 桜咲くこの街で 大きく笑おう」
最終話まで読んだ『テニスの王子様』からもらった勇気を自ら拾って、集めて、新しい季節がくる自分がいる場所で大きく笑いたい。
今までの『テニスの王子様』が見せてくれた物にありがとうとお礼を言って、今度は自分の番だと、自分の道を今までのことを勇気にして前向きに歩いていこう、というのが、テニスの王子様の描き出した人生への肯定感なのだと思う。
ここから先は想像混じりの憶測になるが、
2020年早春公開予定の映画について、『テニスの王子様』と『新テニスの王子様』の間となる『新生テニスの王子様』は越前リョーマが越前リョーマの自我を獲得する物語になるのではないだろうかと想像している。 だから映画タイトルが「リョーマ」なのであれば非常に納得感がある。
そして越前リョーマがテニスの王子様の物語で果たしてきた主人公の役割から考えると
この
テニスとの出会い
↓
自我の確立
↓
自分のテニススタイルの獲得
一連の流れは王子様として登場した全てのキャラにも当てはまるとすると、要するにテニプリはそういう人間の成長を記す物語と言えるだろう。
人間の成長を描く物語であるがために、テニプリにおける救い・カタルシス・浄化はそのキャラクターが成長する、成長カタルシスの表現方法を取る。つまり、成長した瞬間にそのキャラクターに救いが訪れるのである。