超解釈テニスの王子様  人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

人生への圧倒的肯定を描き出す『テニスの王子様』と、その続編『新テニスの王子様』についての個人的な考察を綴ります。 出版社および原作者など全ての公式とは一切の関係はありません。全ては一読者の勝手で個人的な趣味嗜好です。 Twitterアカウント:@namimashimashi

"テニスの王子様"って何なのさ (という自分への現時点での回答)

"テニスの王子様"性とは何だろう、と考えている。

時代が変わっても、媒体が変わっても、それを"テニスの王子様"だと認識させるものは何であるのだろう、と考える。

 

BEST GAMES!!手塚vs跡部のオーディオコメンタリーをはじめとしたBEST GAMES!!シリーズで製作陣やキャストが口々に語る"テニスの王子様"の「色褪せ無さ」「普遍的な面白さ」「古くさく無さ」はどこから来るのだろう。

 

 

原作漫画『テニスの王子様』は古い。

なにせ20年前の漫画だ。

作中に登場するギャグや流行歌が変わったこと、洋服や髪型の流行が変わったこと、社会の技術革新が進んで携帯電話はスマートフォンになったこと、という物理的に簡単に目に見える部分だけではない。

1999年~2019年の20年の間に世の中の価値観も変わった。

暴力描写も未成年の喫煙も犯罪行為だし取り締まりもより厳しくなった。

スパルタ指導もパワハラ暴力行為としてきっちり処分されることが望ましいとハッキリ言われるようになった。

今も昔も闇であることには変わりないけれど、2020年を目前にした現代では、これらのことは表現の世界で、とりわけ低年齢層向け創作物において、堂々と描けるような事柄ではなくなった。

男性カップルはもうホモとは呼ばない。

女性グラビア雑誌のような性的商品の消費現場を見せる表現は好ましくない。

スポーツ指導においても、中学生の子が自らの身を犠牲にするようなプレイは指導者に止める責任がある。

20年前には目くじらを立てられず存在していた不良・セクハラ・暴力表現は、20年経った現代ではきっちりとNOを突きつけられる時代になろうとしている。

もう1990年代やそれ以前のようにいわゆる低年齢層向け不良漫画が世に出るような世界ではなくなった。

性と暴力に頼ったドラマは倫理的ではない。そのドラマは受け入れられなくなってきている時代だ。

 

価値観は変わる。良くないものは良くないと言われるようになる。

その先で生き残る価値観がテニスの王子様にはあるのだろうか。

20年経っても古びない価値観感覚があるのだろうか。

 

 

テニスの王子様”と称されたコンテンツに接して、その結果、正しく、自分はテニスの王子様コンテンツに触れている、と感じる感覚を”テニスの王子様”性と呼ぶとする。

テニスの王子様”はどこに宿るのだろう。

 

結局どこまで考えても自分が知りたいのはWhyなのだけれども、そのWhyの答えを明確に示してくれるほどテニスの王子様は優しくないし、分かりやすい構造主義的な理論構造の言葉で表せる物じゃないから原作が漫画なのだ。テニスの王子様世界を描き出すには漫画表現が最適だったのだ。

既存の言語で切り取ると枠外に出てしまう意志を有するから漫画表現で語られる物語だ。そして漫画だしアニメだしミュージカルなのだ。

それでも知りたくて分かりたくて考えてしまう。

「なぜ私はこんなにもいつまでもテニスの王子様に魅せられ続けているのだろう」

テニスの王子様って何なんだろう」

 

 

テニスの王子様』は、誰も特別ではないという手法を用いて全員が特別と表現している。

2002年~2003年に世に出たSMAPの歌謡曲である『世界に一つだけの花』思考とも言える。

誰もがもともと特別なオンリーワンであることをスポーツの大会というナンバーワンを目指すストーリーの中で描き出す。

だから『テニスの王子様』においては誰も”特別”ではない。

主人公の越前リョーマですらも”特別”ではない。

それにともない、

幸村精市は”特別”ではない。

跡部景吾は”特別”ではない。

手塚国光は”特別”ではない。

亜久津仁さえもは”特別”ではない。

それはひとえに全員が等しく特別だからだ。

越前リョーマが特別ならば、幸村精市が特別であり跡部景吾も特別であり手塚国光も特別で亜久津仁も特別だ。

そういう価値観の世界である。

全員がそれぞれにそれぞれの文脈において特別な存在であることを、限定された少人数の特異性に理由を求めない、という手法で語る。

(もちろん、越前リョーマについては”主人公”という特別な役割は担っている。だが、その存在そのものが他のキャラクター達と人間的なものを比べて特別かというとそういうことではないだろう。)

 

テニスの王子様』ではテニスのポイントや勝敗以外の外側からの基準にNOをつきつけているともいえるだろう。

“絶対的な絶対評価”と言えば良いのだろうか。

テニスの勝ち負け以外の事柄では他人の基軸で評価しない。

天才も普通も異端も皆各々にとって唯一無二な点で同じである感覚を覚える。

 

この”特別でなくても良さ”に、多分、自分は一生救われる。 

 

特別な出自がなくても、生まれ持った天賦の才がなくても、焦燥感を煽るような悲惨な過去がなくても、何の理由もなくったって、誰でもただひたすらにそのことが好きで楽しいと思ったことを一生懸命に目指して良い。

 

 

そしてまたテニプリ世界へのトリップを生み出すキャタクターの作り込まれ度合いを考えたい。

キャラ漫画と揶揄される程までにもキャラクターの実在度の高さがある。

だからキャラクター達はもしかしたら現実にいるかもしれないレベルでの作り込まれた設定で生きている人間のような、全人格的な存在感を有している。

ミュージカルのキャスティングにおける「キャラクターの種」を有する人物を探す方法に見られるように、現実を生きる生身の人間に結びつけることができるほどに実在する人間に近いキャラクター作りがされていると考えられるだろう。

漫画というファンタジー世界へのトリップには、精神性または物理的現実的な世界観のどちらかが鍵であると考えられるが、『テニスの王子様』『新テニスの王子様』には正直に言えばそのどちらも無いとも言えてしまう。

キャラクター達の精神的な雑音の少なさ・複雑性の低さはファンタジーであり、また、リアルな物理法則は無視されがちである。

ともすれば全くのファンタジーになってしまい、一切のシンパシーを生み出さなくなってしまいそうな世界観なのだ。

そのテニスの王子様が読者(テニスの王子様・新テニスの王子様コンテンツ全体で言えば観客、視聴者などメディアに触れる消費者全般を指す)のトリップを生み出すのは他ならぬキャラクターの人間感なのではないだろうか。

仮に一般的な精神性や物理的世界観を心技体の心と体とするのであれば、技としてキャラクターの人物像で現実世界とのリンクを生み出していると考えられはしないだろうか。

 

 

 

冒頭の問いに戻ろう。

"テニスの王子様"性とは何であるのだろうか。

 

それはキャラクター達であり、キャラクター達の取り扱い方なのではないだろうか。

というのが、現時点で自らの腑に落ちている感覚である。

 

全員だれも特別ではないが故に誰もが特別であり、全員特別だから誰も特別ではない。

その地平に立っていたい。