超解釈テニスの王子様  人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

人生への圧倒的肯定を描き出す『テニスの王子様』と、その続編『新テニスの王子様』についての個人的な考察を綴ります。 出版社および原作者など全ての公式とは一切の関係はありません。全ては一読者の勝手で個人的な趣味嗜好です。 Twitterアカウント:@namimashimashi

はしがきpart2_このブログを始めようと思った理由

♪君が悲しむ理由を知りたい〜 (跡部景吾/理由)

では、なく。

完全な個人の事ですが、このブログの元になったテニプリの考察をしようと思ったきっかけを書きます。

ある種の悲しみや怒りも混ざったこのブログの元になるテニプリの考察を始めた理由について、です。

自分の個人の心情を語るので過激な表現を使いますが、御ご容赦ください。 

 

身体に電流が走るような、という表現がありますが、まさしくそんな経験でした。 

許斐剛先生に「ありがとうございます」と叫びかけたところ、こちらを向かれて「こちらこそ」と仰っていただきました。

2017年10月15日オールテニプリミュージアムin京都(通称おてみゅ)での出来事でした。

 

その時、私の中に生まれたのは「許斐先生に話しかけていただいて嬉しい」という思いよりも「私、許斐先生に"こちらこそ"なんて言われること、感謝していただくことなんて何もしていない」という思いでした。打ちひしがれました。

自分のできることをやろう

自分にできる方法でテニスの王子様と真剣に向き合おう

と思い、考察として言葉で『テニスの王子様』『新テニスの王子様』が自分自身の生きる糧となるような力を与えてくれるのは何故なのか、について真剣に考え、できる限り理論的に詳細に語る挑戦をしてみようと、始めたのがこのブログです。

 

そして去る2018年6月10日(日)に許斐剛パーフェクトライブ〜一人オールテニプリフェスタ2018(通称おてふぇす)に参戦した今、テニプリに対する感謝の気持ちに後押しされるように、またもう一度『テニスの王子様』『新テニスの王子様』に向き合おう、このコンテンツの多幸感とその所以を考察して、一人でも多くの人に真剣に取り合ってほしい、と改めて強く思いました。

 

宗教という響きがどこかマイナスのイメージを伴ってしまう日本で、漫画・アニメコンテンツがサブカルチャーに属する世間で、それでもどうしても、『テニスの王子様』『新テニスの王子様』を理論的にその特異性と人々に与える好影響を説明したいと志しています。生きる支えとなり、原動力となり、幸せの感情を提供するコンテンツたる所以をできれば一人でも多くの人に正しく知ってほしいと思っています。

 

テニプリはどこか嘲笑めいて「宗教のようである」「テニスをしていない」と評される声が大きく聞こえるのが私は悔しくて仕方がないのです。

私の人生を肯定する力を与えてくれるコンテンツを軽んじて嘲笑めいた言葉を投げかけられるというのは、それは最早、神と聖典への冒頭のように感じられるのです。

 

だから、これは、私の聖戦ジハードです。

私の頭脳と言語表現力をかけて『テニスの王子様』『新テニスの王子様』の奇跡を凄さを理論的に語り尽くしたい。

私の力ごときで世界を変えられるだなんて思ってはいないけれど、何もせずにはもう居られない。何か少しでも良いからテニプリの一漫画・コンテンツを超えた概念や理念といった部分を解き明かして知ってほしい。

 

そもそも宗教や宗教信仰というのは、ヒトの高い精神性が為せる業であり、生物界において多様な言語を操り頭脳を大きく発展させたヒトのみが持つ高度な営みの一つです。

その宗教にも似た、人が生きる拠り所となるような、読み手(ファン)に魂の安心をもたらすコンテンツが唯一無二の奇跡ではなくて何だと言うのでしょうか。

テニプリが"奇跡"である説明をしたい。この"奇跡"を理解したい。

これらの思いに急き立てられて本格的にまとまった文章の形をとった考察をしようと試みているのがこのブログです。

 

その思いが、おてふぇす2018を経てさらに強くなったので、また引き続きこれからも『テニスの王子様』『新テニスの王子様』と向き合い、自らの能力とも戦いたいと思います。

ただし、これは辛いことではありません。

テニプリに対する新たな知見を得ることは喜びでありそれを考えていく過程は楽しくもあります。

そして何よりも、テニプリに向き合うことはすなわち、行き詰まることや辛いことや大変なことがあっても、人生の傍らを歩いてくれている王子様達の存在を常に思い出せる幸せがあると信じて書き続けて行きたいと思います。

 

原作漫画を読み解く_高校生からの問い掛け

 「お前はその力を自分以外の誰か/何かのために使えるか?」

テニスの王子様』の続編『新テニスの王子様』から登場する高校生達は問い掛ける。

《汝の力を何のために使うのか?》

《何を成し遂げようと生きているのか?》

《自分自身の力は何のためにあるのか?》

 

"生きること"そのものに全力である尊さが全面に出た中学生キャラクターとその周辺人物達の世界が無印の『テニスの王子様』だとするのであれば、 その続編の『新テニスの王子様』の世界では高校生という先達が全力で"生きること"の尊さの先の人間の生き方をその背中で問い掛けている。その問いが<己の生を何に捧げるのか>という命題だ。

すなわち、自らの生を肯定し、前向きに受け止めた、その先の"生き方"の提示と問い掛けが『新テニスの王子様 THE PRINCE OF TENNIS Ⅱ』なのである。

 

平等院鳳凰がU-17日本代表No1 であり"お頭"と呼ばれる所以は、彼が大義:日本代表の勝利を全身で背負う存在だからである。

 

かの有名なマズロー欲求段階説自己実現理論)によると、自己承認欲求が満たされた人間が次に満たすのは自己実現欲求であり、そして自己実現欲求を充した者が到達する自己実現のさらに上位段階が自己超越の段階である。

自己超越の段階では、コミュニティーの発展への寄与、利己的個人的動機の超克、愛の奉仕を行うようになる。

この自己超越の境地にたどり着けるか。

この命題と向き合い続けている先達が高校生の王子様であり、今、目の前にこの命題を提示され向き合い始めたのが中学生の王子様なのではないだろうか。新テニで度々描かれる高校生と中学生の師弟関係はこの人生における段階の違いから来るものだと見ることができるだろう。

 

また、テニプリの自己超越の課題は飽く迄自己承認欲求と自己実現欲求が満たされた者に課される命題である。

自らの人生を全面的に肯定し、自分自身を更なる高みへ進化させようと手を伸ばし続けている者、すなわちテニスの王子様達だからこそ向き合うべき課題である。

ただし、テニプリにおいては、誰もがテニスの王子様になることができる可能性を秘めている存在と暗に仄めかされているので、自己超越の段階にも誰もが挑むことができる可能性があると信じられている世界だと言っても良いだろう。

この選民的に見えながらも実は一切の差別の無い人間観もテニプリの圧倒的肯定感、作品が読者に前向きな力を与える一因だと考えられる。

なお、マズロー自己実現理論では、自己超越に達する至高体験では自我忘却や無我状態を経験することも定義付けされており、つまりは、自己超越段階は無我の境地のその先なのである。

 

さて、原作漫画の作品中においては、平等院鳳凰のトップとしての方法の正しさには議論の余地が多分に残されているものの、その根幹の目的がお頭たるにふさわしいものであるからお頭なのであろう。ただし、方法論においての破壊性を超越できていないあたり、彼もまた完璧な自己超越者ではない。

そこで高校生をも見守るコーチ陣である大人の存在が生きてきている。

少し話が逸れるが、その点においては、数多いる王子様の中で自己超越者に一番近いのは鬼十次郎なのではないか、と見ている。だからこそ、鬼十次郎平等院鳳凰とU-17日本代表のダブルトップを務める存在なのではないだろうか。 

 

新テニ12巻で描かれている一年前の代表合宿で徳川カズヤが平等院に完膚なきまでに叩きのめされたのも、世界と戦うようになってから平等院が徳川を認められるようになったのも、徳川が利己的個人的動機以外の目的として自分の力を使えるようになったからである。

平等院はGenius10とのシャッフルマッチを戦う徳川の姿に、「こやつ本当に命を懸けてー」と認識し、徳川を受け入れるようになった。つまりこの瞬間が徳川が自己超越の段階に近づき、真に強くなった時なのである。日本代表のトップになるなどという内向きな願望ではない方向に目が向いたのである。それがその後の「俺は俺のやり方で世界をとってみせる」という言葉に現れている。

 

遠山金太郎も「日本一のテニプスプレイヤーになる」から「世界一の選手になったる」と目標が変わったところで、また金太郎の強さは一段と進化した。

 

そしてテニプリの主人公であるはずの越前リョーマが現在の新テニでも主人公に返り咲いた瞬間は23巻で「日本のテニスをナメんな!」と啖呵を切ったところではないだろうか。

この場面は無印18巻の関東氷帝控え選手によるシングルスが始まる前の「お前は青学の柱になれ!!!」と同じ雰囲気を纏っている。越前リョーマが背負うものを背負い、背負うもののために自らの持てる力を賭す生き方を選択した瞬間である。

 

新テニ22巻のスイス戦で亜久津仁に起きた第八の意識 『無沈識』が最強の状態であるのは、ありとあらゆる利己的個人的自己意識を完全に超越しているからである。

 

人生の肯定の先を目指していく困難と、この困難でさえも乗り越えることができる希望が、今の、第2章の、英語タイトルでは"Ⅱ"と表される、テニスの王子様〜THE PRINCE OF TENNISである。

 

そしてそれはもしかすると、全てを「ファンのため」として執筆、創作活動を続けるハッピーメディアクリエイター時々漫画家、『テニスの王子様』『新テニスの王子様』原作者:許斐剛の姿、人生哲学そのものなのかもしれない。

主人公考_誰もが可能性を秘めた存在である

越前リョーマという主人公は、セオリー通りの少年漫画の主人公とは少し違っている。

遠山金太郎の方が王道少年漫画の主人公に近い。

では何故『テニスの王子様』では越前リョーマが主人公なのだろうか。

 

越前リョーマは"背負わない"主人公である。

これは主人公以外のキャラクターが自立していることにも起因する。

それ以外の周囲のキャラクター達にとっての主人公は、感化されるのではなく、きっかけになる存在である。

誰もがみんな自分の中に元からあった眠れる力を引き出すことができる存在として在る。

特にこの様子は、主人公ではないキャラクターの1人である不二周助で『テニスの王子様』から『新テニスの王子様』の流れを通して明言されており、無印の頃から勝利に執着できない精神的に克服するべき課題があった不二周助は、新テニ21巻Golden age207において「彼(不二周助)は自らの手で壁をブチ壊していく程の心の強さを秘めていた」と評され、己の中の呪縛から自らの中にあった力によって解き放たれることができたことが読み取れる。

 

そして、越前リョーマという主人公は、周囲の目標を取り入れる。

例えば無印において、"青学の優勝"は、ただ目の前のテニスの試合の勝利にしか興味がなかった越前リョーマが、青春学園中等部男子テニス部の先輩達と団体戦に挑む中でリョーマが影響を受けて"青学のために"勝ちたいという目標を後発的に掲げるようになったものである。

つまり、「此奴の為に何かをしてやりたい」と思わせる主人公ではない。

なお、生意気なルーキーと呼ばれる原因もここにあるのではないだろうか。

 

 

この主人公の在り方は、テニプリが「努力・友情・勝利と」いう週刊少年ジャンプの大原則には則っているものの、その在り方が特異だと感じる要因でもある。

 

 

誰もが誰かの王子様である、すなわち、全てのキャラクターが王子様であるのは、誰もが天衣無縫の極みに到達できる可能性を秘めていると明言されていることにもよるが、全てのキャラクターに眠れる力があり、その力を向き合い目覚めさせることができる可能性を秘めた存在であるということなのだ。

その中で主人公として存在する越前リョーマが主人公たる所以の"特別さ"は、一番天衣無縫に近い場所にいるという点である。

 

誰もがそれぞれの人生の物語の主人公でありながら、『テニスの王子様』という物語では"テニスの王子様"に一番近い存在だった越前リョーマを主人公にした物語として構成されていると読める。

 

テニプリに触れて元気が出る、人生に前向きになれるのは、描き手である原作者がキャラクター全員のそれぞれの可能性を信じたままに描くことから生じる、

特別な存在でなくても誰もが可能性に満ちた天衣無縫の極み、つまり、どんな苦しい時にでもテニスって楽しいじゃんという曇りなき肯定感を抱くことができる存在だ

という全ての人の人生への希望を感じることができるからなのではないだろうか。

 

原作者:許斐剛先生作詞の楽曲であるテニプリ☆パラダイスの歌詞にある

"一歩も引くな勇敢な心 眠れる力を引き出せ スプリットステップ 意地と勇気ぶつかり合いの中 その先の可能性見出せ"(漫画の作中では、越前リョーマvs亜久津仁の試合)

"どんな苦しい時にでも天衣無縫でテニスって楽しいじゃん"(漫画の作中では、越前リョーマvs幸村精市の試合)

これらも実は全てのキャラクターに当てはまる事なのだ。

 

越前リョーマは全ての王子様達の代表であって、実は越前リョーマ以外の王子様全員にも同じくその可能性があるというのが『テニスの王子様』という漫画であり、その点こそが全てのキャラクターに読者のファンがいて、全てのキャラクターのキャストが担当するキャラクターを愛してくれる要因でもあるのではないかと考えている。

閑話_社会問題に触れて_「人を傷つける為にあるんじゃない!」

実名は記さないでいこうと思います。

 

連日マスコミを騒がせている大学スポーツ競技の反則行為に絡む報道を見て、友人から「大学の監督にテニプリ読んでほしいよね。」と言われ、私は『テニスの王子様』全国大会の青学vs比嘉の一戦を思った。

 

結局のところ全くの第三者である身としては、今はただ、当事者の心が救われることを祈り、願うだけしかできない。

そうではありつつも「ラケットは人を傷つける為にあるんじゃない」と強く言い切り、ラフプレーの正当性を真っ向から否定した『テニスの王子様』に救いを見出したい。

 

全国大会の青学vs比嘉戦は「"非道"は意味を成すのか」という命題を掲げ、青学の純粋さや誠実さ(許斐先生作詞テニプリFEVERの歌詞から引けば"勇気と優しさ")を以ってして、非道な手段を真っ向から否定するストーリーである。

青学は、過去に暴力手段の被害被ったことのある部長:手塚国光が「ラケットは人を傷つける為にあるんじゃない!」と身を以て語る存在としてチームを率いていることもあり、チーム全体として人を傷つけるテニスを否定している。

一方、比嘉中の選手は、監督からの要請や長年の苦渋といった周囲の環境等々から非道な手段に訴えることを覚え、取り入れた存在として登場する。

 

余談だが、流血沙汰の多い『テニスの王子様』だが、青学の選手がテニスの試合で意図的に先制して相手を傷つける描写は無い。

 

スポーツは起源に遡れば、軍人がプレイヤーとなり、取り組んだ経緯から、国にとっての戦闘や戦い、即ち、命をかける争いに繋がる側面がある。なお、プレイヤー達自身にとっては、スポーツに取り組むことは、平和的休戦を宣言する、命の取り合いはしない約束をした状態である。しかしながら、プレイヤー達の所属先(国、チームなど)にとっては、自らの組織の力を誇示するための手段となり得るのがスポーツであり、スポーツでの勝利が戦闘での勝利とイコールで結びついてしまう危険性が伴う。そのため、スポーツにおいて勝利を求めると、文字通りの生命を賭けた戦いになってしまう可能性を孕むことは否定できないだろう。

 

"何をしてでも勝つ"

"勝つ為であれば非道な手段に訴えることも辞さない" 

 

比嘉中テニス部顧問である早乙女晴美は作中で選手達に向かって「勝つ為には何でもやるんじゃなかったのか⁉︎」と怒鳴るシーンが描かれている。

"勝つ為には何でもやる"="ラフプレーをしてでも勝つ"方針に従い、従うしかなかった比嘉中を青学が一敗もせずに完全に団体戦に勝利することで、その考えをテニプリは真っ向から完全に否定する。

監督と一緒になってラフプレーを指示し、支持した比嘉中部長の木手永四郎を、青学部長の手塚国光が「そんなお前の1勝を部員達は望んでいるのか?」と考え自体を否定し、ラフプレーを退け、圧倒的に勝利するシーンは象徴的である。

非道な手段に訴えてはならない。

非道な手段に訴えてもそこに勝利は無い。

それは強さでは無い。

 

比嘉中は青学との試合の前に六角中と対戦し、六角中の勝利のために鋭いアドバイスをした六角中顧問にボールをぶつけて退場させるラフプレーをしている。

この一件について、新テニスの王子様パーフェクトファンブック23.5巻では原作者より「六角と比嘉は仲直りはしてない。やっぱりオジイにボールぶつけられたからね。」と明かされている。

比嘉中の選手は、たとえ他の学校の選手からは認められたとしても、被害の当事者である六角中にとっては許すことはできない相手であることを踏まえて、作品は描かれていることが分かる。

 

 

ただの第三者が悲しいのは、純粋に競技をしていたであろう選手が非道な手段に訴える精神性(メンタリティー)をもってしまったことだ。その現実がただただ悲しい。

 

被害者側はどうしたって許せない事案なのだ。そう考えると当事者同士の関係性においてはそこに許しが訪れる可能性は極めて低いであろうことは想像に難くない。

そんな現実社会にも、越前リョーマと青学の仲間みたいな王子様であるメシア的存在がいてくれることを願ってしまう。

テニスの王子様』では完結に向かう話の最後に、主人公の父であり伝説のテニスプレイヤーである越前南次郎が「天衣無縫の極みに到達できる素質は誰でも持ってる。テニスを始めた頃の何もかもが楽しかった頃の気持ちを忘れるな」(意訳)と言ってる。

天衣無縫に到達することができる救いがあると信じたい。

 

許斐先生作詞の楽曲Love Festivalの歌詞より

 

「"ありがとう"の意味を 分かってない大人に告ぐ ボクらは決して負けない」

まだこの"ありがとう"の意味が分かる精神性があるのであれば、決して負けずにいてほしいと願って止まない。

 

 

冒頭に言及した大学競技を巡る一連の問題について、当事者の、特にこれから何十年と生きていく若者達の人生が救われることを祈り願いたい。救われる可能性があると信じたい、というのが、全くの第三者としてこの問題に触れた私の今の心境です。

原作漫画通読のすゝめ

生きることが辛くなったら『テニスの王子様』『新テニスの王子様』を読もう。

深いことは考えず、ただ1巻〜最終巻までを一気に読もう。

細かいことは気にしなくて良いから、原作漫画を読もう。

 

"テニプリの世界"は、我々一般読者が思うよりも、もっとずっと前向きで明るい世界なんだと思う。

悲しい空想は打ち砕かれていく世界だ。

負けても良いから仲間と全力で非道な手段に訴えることもなく勝利を目指してひたすらにテニスをする世界。キラキラし続ける世界。

誰だって勝ちたい

結果的には勝てなくても真正面から全力でぶつかりたい

仲間と分かち合いたい

仲間のために強くなりたい

仲間と一緒に上を目指したい

テニプリはある種の永遠性を持っている話だ。

その永遠性は、物事の終焉が持つ負のエネルギーに抗う営みなのだと思う。

永遠性と刹那性が同居し、それぞれの美点が響き合い莫大な輝きを持つのが『テニスの王子様』『新テニスの王子様』のストーリーだ。

  

テニプリは、漫画・アニメ・ミュージカルという3つの公式コンテンツ(3つを総称して"オールテニプリ")を有しているが、その中でも全ての原点になるのが、原作漫画である。

テニプリが好きになった人は、ぜひ、その全ての原点である原作漫画を読んでほしい。

もちろんアニメやミュージカルを見るのが好きでも構わない。

だが、一度で良いから原作漫画を最初から最後まで読んでほしい。

テニスの王子様』全42巻と『新テニスの王子様』1巻〜最新巻(2018年5月現在23巻)合計65巻の単行本が刊行されている漫画を読むのは大変かもしれない。

それでも『テニスの王子様』の1巻1話Genius1から最新話Golden ageまで読んでほしい。

 それが、一番、この作品、テニプリ、『テニスの王子様』『新テニスの王子様』が有する圧巻の前向きエネルギーを受け取ることができる。

 

生の人間が演じるパワーが授けられたアニメやミュージカルは、その分だけ訴えかけるパワーも強い。

ミュージカルキャストはいつか王子様達も経験するであろう終わりを見せてしまう。良くも悪くも。

だから永遠性に近いアニメ声優キャストの方が分かりやすくテニプリ王子様キャラクターに近いような気がする。

 

生きていて辛い思いをしたら『テニスの王子様』『新テニスの王子様』を読もう。

深いことは考えず、ただ1巻〜最終巻まで一気に読もう。

一気に読んだ果てには、生きるエネルギーが湧き上がる感覚を覚えるのではないだろうか。

それが言語化された感覚でなくて構わない。

何かを感じようと構えて読まなくて構わない。

ただその紙面が発するエネルギーに触れて感じることが、漫画『テニスの王子様』『新テニスの王子様』の最高の読み方であり、この作品が持つパワーなのだと思う。

そして前に進む力をもらってほしい。

王子様達はいつでも人生の隣にいてくれるから。

 

それを感じることのできる漫画読書体験を味わうのが、テニプリのパワーの原点に触れることだと思う。

 

ずっと続くことの有り難み、続くことを大切にしたい気持ちが強いのは、テニプリの王子様達のメンタリティーが影響していることなのだろう。

 

作品の中にいるうちは"先を見なくて良い世界"にいられる。

未来のことを考えないテニプリの世界

何が起こるかわからない怖さを孕む"この先"を考えない見ない世界

"今""この瞬間"に全力で集中するだけ

人間の人生を最大に使う瞬間

その幸せと魂煌めかせる感じは最強だ。

 

でも、王子様達に未来が無いのか?というと、そういうことでも無いのである。

先生が王子様達の10年後を想定されていることを思うと、きっとどんな形であろうと王子様達はそれぞれの人生を前向きに生きているんだと信じている。

テニスともそれぞれがそれぞれの方法ででも良い方法で向き合った結果の未来の人生があるんだと思う。

絶望しない王子様達

 

人は、絶望の中では上を目指すのは困難である。

絶望しながら希望を見ることはできない。

人が生きる中では、時として絶望を覚えることがある。絶望により自らの人生を諦めることがある。前を向けなくなることがある。

そんな時は『テニスの王子様』『新テニスの王子様』を読んでほしい。

テニプリは人生への圧倒的肯定感を描いている。

人が生きること、人生を究極に賛美している。

その肯定感を描き出すテニプリの王子様達は絶望しない存在なのだ。

絶望をはねのける圧倒的な力を有した存在達として存在している。

 

「テニスは人生」 である『テニスの王子様』『新テニスの王子様』において絶望とはテニスを辞めることだ。

その世界において、王子様達は誰一人としてテニスを辞めていない。

このことは、パーフェクトファンブック23.5巻

P233 許斐先生が答える!一問一答ラリー

Q28「代表合宿に来ていない中学生の様子が知りたいです。」

A.「来年に向けてがっつり練習してます!」

この質問・回答からうかがい知ることができるだろう。

新テニで代表合宿に参加しテニスをしている王子様達はもちろん、合宿に来ていない王子様達であってもテニスを続けていることが明言されているのだ。

 

そんな中、作品中で一度テニスを辞めた、すなわち、絶望を味わった王子様がいる。

亜久津仁である。

しかし、テニプリは無印から新テニに続く亜久津仁の描き方で、絶望を克服させている。

亜久津仁は自らの信念によりテニスを辞めざるをえなくなったが、"血のあがない"という文字通りに命をかけた行為により、その手にもう一度テニスを取り戻している。テニスを失った絶望を打破させたのである。

その絶望を克服した決定打として描かれた新テニのU-17W杯予選グループ3戦目スイス戦S3からテニプリにおいて王子様が絶望しない存在であることを示唆しうる一言、『新テニスの王子様』22巻スイス代表アマデウスの台詞を引用する。

 

「審判…!選手が戦おうとしているのに余計な手出しをするな」

 

生きようとする意志が有る限り、その意志は尊重されるべきであり、外野によって妨げられるべきではない。何人たりとも他人(ひと)のテニスを奪うことはできない。

その意志は無印で辿り着いた「天衣無縫の極み」の要素だ。つまり、最終決戦!王子様VS神の子で越前リョーマが体現して見せた五感を奪う=テニスをできなくする神の子を打破する力が絶望をはねのけるのだ。

この力が存在する限り、そして、越前南次郎が言ったように「天衣無縫なんてもんは誰もが持ってる」のであれば、テニプリの王子様は絶望しない。

 

王子様全員が天衣無縫の力を持っている。

テニスを楽しむテニスをする力が人生を暗く貶める呪文を否定する。

テニスをする意志の光は消えない。

消えても命をかけることで再び灯る。

 

それを見せてくれる王子様は絶望しない存在だ。

 

これこそが、テニプリが描く圧倒的に肯定された人生であり、その人生への肯定感を受け取ることで読者はテニプリに励まされ、生きる活力を得ることができている。

 

 

 

 

"愛"が見える

諸宗教(創唱宗教)ではその教えに神(またはそれに準ずる存在)からの"愛"が語られていることが多い。

絶対的な愛が人々へ救い赦しをもたらす。

 

テニプリにおける"愛"は、原作者許斐剛先生の作品および作中キャラクター達に対するあふれんばかりの"愛"が、ファンやテニプリファミリーと呼ばれる公式製作陣達に伝わり、テニプリを愛する原動力となり、多くのテニプリへの愛を産む。

その原作者からの"愛"とそれに波及する多くの人々からの愛される力を以って、キャラクター達は各々にその人生を光り輝かせることで、テニプリ全体として人生への圧倒的肯定感を放っている。

 

そのテニプリにおける"愛"の実現は目に見える形で表れている。

 

2018年5月2日 新テニスの王子様 パーフェクトファンブック 23.5巻が発売された。

原作者である許斐剛先生が完全監修の正に"パーフェクトファンブック"だ。

その内容や情報量に関しては、ぜひ現物をご覧いただきたい。

 

この23.5巻はテニプリの"愛"を体現したものなのである。

この23.5巻に表れているものこそがテニプリの愛である。

 

23.5巻に掲載されたキャラクター数は196名(除く許斐剛先生)。そして、名前が出ただけのキャラクターもカウントすれば+6名=202名となる。

なお、2016年1月16日に開催された「許斐剛☆サプライズLIVE 〜一人テニプリフェスタ」の物販200キャラクター描き下ろし缶バッジのラインナップによると、23.5巻に掲載も言及もされていないキャラクターは他に30(含む:うさいぬ、熊の大五郎など)ある。つまり、パーフェクトファンブックのキャラクター網羅率は約87%である。

連載19年目を迎え、主人公の所属学校内での部内戦、地区大会という小さい規模の試合からスタートした物語が舞台を世界に移し、登場人物も中学生に加えて高校生が増えた現状でも『テニスの王子様』連載初期のキャラクターのプロフィールを掲載するファンブックを原作者完全監修で刊行するのがテニプリだ。

キャラクターそれぞれを人気の高さや登場時期ではなく、一人一人として尊重しているからこそできる業である。

 

またお気付きの通り、"200キャラ描き下ろし缶バッジ"というグッズとして販売される物を原作者が製作した事実からも、名前のあるキャラクターは全て尊重し愛を注ぐ原作者の姿が見られるだろう。

 

余談だが、2018年6月10日開催予定のおてふぇすでは完全版缶バッジ全198種類が販売される予定だ。名前のある登場人物232人中、約85%のキャラクターがグッズになり値が付き、販売されるのである。→2018年5月25日追記:おてふぇす2018缶バッジ全198種類は、キャラクター缶バッジではなく、原作イラストであることが2018年5月25日に発表されたので、グッズ化されたキャラクター数は196名、その率は約83%となります。

 

作中のキャラ一人一人が原作者によって愛される世界がテニプリにはある。 

 

そしてこの原作者の"愛"はテニプリファミリーにも伝わり、原作漫画以外の場所からもファンへ"愛"が伝わるようになっている。

 

アニメ『テニスの王子様』『新テニスの王子様』の声優キャスト2名の話を引用したい。

 

なお、2001年10月10日にテレビアニメ 『テニスの王子様』放送開始。

アニメ『テニスの王子様』は3~4ヶ月で急いでオーディションを実施したという話があることから、初回から登場しているキャラクターの声優キャストは、2001年初夏〜夏頃にオーディションを受けていると推測される。

すると、青学(他、玉林、不動峰など無印の地区大会までに登場するキャラクター)キャストは約17年間(2001年夏〜)キャラクターと付き合いを重ねている。

 

川本成氏オフィシャルブログ「Naru's blog'n boy ブロークンショウネン」

2016年10月27日 1時10分13秒 「テニフェス2016④」の記事より

本当にね、あの先生はね、凄いす。本当に凄い。

許斐先生は本当にウォルトディズニーみたい。許斐先生は愛だ、愛そのものだ。と前に言ったことがありますが、そうか、やっぱりあの先生は愛に加えてピースフルなんだ。誰でもビックリ、楽しんで、そしてみんな笑顔、みたいな事だ。
 
それは言葉で言うとやっぱり「ラブアンドピース」って事になるんだろう。
 
許斐剛先生はつまりラブアンドピースなんだ。
 
 
 
そして、そんな許斐先生自体がガンガンに前を向き続けてるんだよ。走り続けてるんだもの。
誰も傷つかないで、そしてみんながピースな、全うで尊い道を作りながら先頭を走り続けている。」
 
 
 
2018年3月2日 許斐 剛のパーフェクトLINE LIVE!
諏訪部順一氏の発言1h30m15s〜
「テニフェスとかあるじゃないですか やっぱり色々キャラごとにそのソロで歌う場面もあったり見せ場があったりするじゃないですか 僕らキャスト側がいつも言っているのは満遍なくみんながちゃんと出番があるようにセットリストっていうか構成つくってくれっていう どんなキャラ 例えばいわゆるその人気があるとかそういうことじゃなくて みんな同じこのテニプリのキャラクターで並列だから 同じプレイヤー達だから そしてそれの魂込めてやっている役者達が集まってこのステージの上に乗っかるんで これどっかをこうやって持ち上げて このキャラ人気だからこいつをメインにしてどうこうって もちろん主人公の越前リョーマとかメインですけどこれはもう当然のことなんだけど それ以外に関してとかっていうのは みんなが それぞれに愛してくれている人たちがいるわけで、これはどうにかいつもお願いしていることで 僕たちからも」
※許斐先生のテニプリファミリーにもすごく伝わっていて、人気のあるキャラクターだけじゃなくて、制作側がファンの欲しがるキャラクターを作ってくれている〜という話を受けて。
 
諏訪部順一跡部景吾のオーディションに受かった連絡を受けたのは雪が降っていた日だそうだ。テレビシリーズに跡部景吾が初登場したのが2002年3月13日放送分「薫の災難」であることを考えると、おそらく2001年末〜2002年始め頃にキャスティングされている。16年半。氷帝学園(除く日吉若)は青学から半年遅れくらいでのキャラクターとの付き合い。
 
テニプリファミリー=原作・アニメ・ミュージカルというテニプリ公式三位一体3コンテンツのいずれかに関わる製作者達のこと。アニメキャスト、テニミュキャスト、脚本家、プロデューサーなど。
 
 
このように原作者許斐剛先生のテニプリ愛がテニプリファミリーのテニプリ愛となり、オールテニプリのコンテンツを通してファンに伝わることで、ファンは安心してテニプリを好きで愛することができる。
この安心感をもたらす"愛"の源が原作漫画であり、目に見える、実在する形としてあることで、テニプリにおける"愛"が絶対性を帯びるのである。
絶対的な愛は強い。
その強さが読者(ファン)の人生をも支え得る力だ。
王子様達が人生に寄り添う存在となる由縁である。