超解釈テニスの王子様  人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)

人生への圧倒的肯定を描き出す『テニスの王子様』と、その続編『新テニスの王子様』についての個人的な考察を綴ります。 出版社および原作者など全ての公式とは一切の関係はありません。全ては一読者の勝手で個人的な趣味嗜好です。 Twitterアカウント:@namimashimashi

テニプリソングとは何か

テニプリの楽曲というのは、キャラソンの中にキャラクターが全部詰め込まれていて役者の想いとかキャラクター性、全部が詰め込まれているので、一曲聞くだけでそのキャラクターの魅力を感じられる事ができて、側に寄り添っているような感覚になるっていう、とても素敵なものだとものだと思っている」

これは、2018年6月18日に公開されたテニラビ半年記念動画「新テニスの王子様 RisingBeat 配信半年記念‼︎ 応援コメント動画第3弾 小野大輔さん」内で語られた徳川カズヤ役 小野大輔氏の言葉である。

この言葉がテニプリキャラクターソングひいてはミュージカルまで含めたテニプリソングの全てを表しているように感じられる。

 

テニプリに関する歌は、アニメOP・EDテーマ、アニメキャラクターソング、ミュージカルソングと様々な歌がある。

聴衆である私達は、その曲がテニプリソングとしてふさわしいのか、良いのか、正しいのか、ということに気をとられることもあるけれど、人それぞれによって聞き心地の良い曲はあるけれど、きっと全てがテニプリの歌なのである。

 

それは、テニプリの創造主、原作者である許斐剛先生がその全てを愛しているからである。

許斐剛パーフェクトLIVE〜一人オールテニプリフェスタ2018〜は、テニプリソングのオリジナルがどのメディアに由来するかという点に対する差異の無さ、テニプリを愛する全ての楽曲達がテニプリを彩る大切な一曲一曲であることを示した一つの形であろう。

 

人それぞれ心地よい音楽は違うけれど、全てテニプリの音楽である。

 

テニプリのストーリーについて原作漫画のストーリーが、アニプリテニミュでストー変更されていることについて論争がおこるけれども、それがキャラクターソングであっても、ミュージカルソングであっても、キャラクターソングが今までのキャラクターのイメージに完璧に沿う内容ではなくても、テニプリを彩る歌であることに変わりはない。作り手、歌い手のテニプリのことを想った気持ちが一曲一曲に詰め込まれているのだ。

 

ただ、論争が起きるということはそれだけ真剣である、ということなので、聴衆が論争を巻き起こすこと自体は否定されるべき事象ではない、とも考えている。 

 

 

どの曲が好きでも構わない。

ただ、全てがテニプリを愛する歌なのである。

だからどの曲もみんながそれぞれの形で歌い継いでいきたい。

それがテニプリを愛する一つの形になる。

漫画を読むのと同じように、アニメを視聴するのを同じように、ミュージカルを観劇するのと同じように、原作者の歌も、アニメ主題歌も、キャラクターソングも、ミュージカル楽曲も全てを愛して歌い継ぎ、その度にテニプリへの理解を深め、テニプリっていいなの気持ちを確かめていきたい。

 

どんなに拙い方法でもファンが愛した様を喜んで受け止めてくれる許斐先生を始めとした製作者側の方々。私は一ファンとして、これからも感謝して、テニプリを愛したいと思う。

原作漫画を読み解く_青春学園考察

テニスの王子様』は越前リョーマから始まる青春学園中等部男子テニス部(青学)の物語だ。

 

連載初期の『テニスの王子様』公式ファンブック達に掲載されている原作者の許斐剛先生のインタビューから引用したい。

 

テニスの王子様 公式ファンブック10.5巻

許斐剛先生 Inside Out Report !!

許斐先生に聞く‼︎『テニスの王子様』誕生のウラ

越前リョーマを主人公に持って行くと作品全体が暗くなる不安を解消させた方法についての問答の流れで)

リョーマの周りにすごく強い青学レギュラーたちを持ってきて、その誰もがリョーマの個性に負けていないという。」

 

テニスの王子様 公式ファンブック20.5巻

許斐剛INTERVIEW OF ALL CHARACTERS

(青学のライバル校のキャラ達を中心にした話は描く予定があるのかどうかという質問に対して)

「やっぱり青学が中心になるでしょう 。ライバル校は、次の試合で青学と対戦する前に強さを見せるなど、ひとつのステップとしては出すかもしれません。基本的には青学絡みで行こうと思っています」

 

魅力的なキャラクターはたくさん居れど、『テニスの王子様』は青学を主人公校として中心に置き焦点を当てて描かれた物語なのである。

 

青学レギュラーは描かれ方が詳細だ。

 

青学内でのランキング戦、部内練習は、青学レギュラーの自己紹介として機能する。

対 主人公の越前リョーマとすることで、各青学レギュラーキャラクター個人の弱みと強みが浮かび上がる。 

これが大会になり、学校対学校の試合になった時に、青春学園が主人公としての役割を発揮することになる。部内描写が学校単位での主人公になった物語において、違和感なくその主人公校の役割を果たさせている。

 

青学はレギュラーが9人(都大会までは8人)いる都合上、大会では2人ずつ試合には出場しない補欠となる。

各試合の試合毎にどの7人が選ばれているのかが漫画を読む上で重要になってくるのだが、それは、各対戦校が連れてくる人生のテーマとの相性の良いメンバーが選ばれていると読むことができるであろう。

例えば、全国大会の対氷帝学園における人生の課題は"情熱"であると考察でき、人間自らのうちに宿る情熱をぶつからせる試合である。

この試合での青学の試合メンバーは

S1:越前リョーマ

S2:手塚国光

S3:桃城武

D1:大石秀一郎菊丸英二

D2:乾貞治海堂薫

補欠:不二周助河村隆

となっており、この全国氷帝戦の時点において、青学メンバーの中でも不二周助河村隆の両名はとりわけ試合へのモチベーションや情熱の掛け方において利他志向が大きく、自らの内部に宿る情熱の量としては青学レギュラー9人の中では弱い方であろう。

 

また、同じ対氷帝学園戦でも関東大会については、向き合う人生の課題が"チーム・仲間"であると考えられるため、D2で3人でダブルスとなったことを鑑み、青学9人全員で挑んだ試合であったことも納得できるだろう。

 

各ライバル校が青学との対戦にあたって、どのような人生のテーマ・課題を提示しているのか、という考察については、2018年4月12日に掲載した記事を参考にされたい:

https://namimashimashi-tpot-373.hatenablog.jp/?page=1523705120

 

なお、『テニスの王子様』を読み解くにあたり、青学の団体戦における各試合毎のメンバーは考慮されても、勝敗については勝ち負けどちらであっても人生の課題に対する向き合い方には影響しないと考えても良いだろう。

それは、『テニスの王子様』の最終巻にほど近い頃に出版された公式ファンブック40.5巻において、原作者許斐剛先生が以下のように語られていることによる。

「無残にやられる中で、どう青学のキャラクター達のよさとか進化を描こうかと考えていました。海堂に関しては、まわりの皆が強くなるレベルに合わせる様に、進化を果たさせたかったんです。」

 

青春学園中等部男子テニス部レギュラーメンバーは、試合をすることでその対戦校が提示する課題と戦い、乗り越えていく存在だ。 各対戦校が連れてくる課題に向き合える青学レギュラーのみが、その時その時で戦うに相応しい存在であったように描かれている。

だからこそ、『テニスの王子様』の主人公越前リョーマは青学に入学しなければならなかったし、青学がそれぞれの瞬間であの状態であったからこそ全国優勝を成し遂げることができた。

そんな唯一無二の奇跡を起こせるよう、青学をしっかりと主人公校に仕立て上げることで、描いてみせている。

 

以下、余談だが、

テニスの王子様』の続編『新テニスの王子様』はライバル校キャラクターの救いの物語と読むことができるのではないだろうか。

テニスの王子様』では救われなかった、課題に直面するだけで終始したキャラクター達が成長する、個人的な人生の課題と向き合って克服するストーリーである。

テニスの王子様パーフェクトファンブック23.5巻のインタビューにおいて許斐剛は、無印『テニスの王子様』は漫画のコンセプトとしてプロセスを描かないことにしていた、と明かしている。

そのことが『テニスの王子様』での、より一層青学のみにフォーカスが正しくあたる、主人公校として機能するように働いていた。

裏を返せば、ライバル校のキャラクターは青学レギュラーキャラクターに比べて圧倒的に描写が少ない。すなわち、青学と対戦したその後の成長や心境の変化が描かれるのは非常に稀なケースである。

なお、その限りではないライバル校キャラクターとして跡部景吾が挙げられるが、跡部景吾はパーソナリティと生い立ちの特性において課題克服までの期間が圧倒的短期間のため、進化や成長が垣間見えたに過ぎない。

『新テニスの王子様』では時間をかけて一人一人の王子様を描くからこそ、無印では課題が課題のままになっている王子様達が、青学にフォーカスが当たった世界では焦点が結ばれなかった王子様達が、特に、その救いを描いてもらっているように読むことができると捉えている。

原作読み方心得

テニスの王子様 パーフェクトファンブック 23.5巻掲載の"許斐先生が語る!パーフェクトインタビュー"内で「きちんとマンガを見てもらいたいな。」と『テニスの王子様』『新テニスの王子様』の原作者であり創造主である許斐剛先生は話している。

 

その原作漫画『テニスの王子様』『新テニスの王子様』を読む時に心に留めておきたいことを3点を述べる。

 

1)リアリティーを過度に追求しない

テニスの王子様』『新テニスの王子様』はスポーツ漫画というジャンルに分類されるものの、掲載元の週刊少年ジャンプはファンタジー漫画も載っている漫画雑誌である。

テニスの王子様』『新テニスの王子様』はスポーツというよりはジャンプ漫画なのである。

つまり、バトル・ファンタジー物にも勝るとも劣らない展開や表現が多様に用いられている。

2017年4月28日に発売された少年ジャンプ特別編集増刊ジャンプGIGA2017val.1掲載の"許斐剛×藤巻忠俊クリエイティブの秘訣お答えしますスペシャル"の対談内において、藤巻忠俊先生を交えながら、

実際にスポーツものではフィクションのシナリオよりもノンフィクションの筋書きのないスポーツを観る方が面白いこともある。その実際の生のスポーツのワクワク感に勝つために漫画でしか描けないフィクションやドラマを工夫している。漫画でしか表現できない部分に価値がある。(要約)

といったようなことを語っている。

 

2)キャラクター の意志を読みとる

テニプリはキャラクターの設定が非常に細かく決まっている。

前述の対談内でも許斐剛先生は「人がそこに一人生まれるみたいな感じで作っていますね。」と語るほどである。

その細かな設定が原作漫画ではキャラクター自身の意志となり動くようになってくる。

テニスの王子様 公式ファンブック40.5巻掲載"許斐剛先生 百八式破答集 キャラクター編"のQ54「キャラの試合展開はどの様に決めるのですか?」という質問に対して

A.「おおまかな勝敗等、メインの流れは決めてから描き始めるのですが、実際の試合になると、キャラクターがそこで決めていなかったような動きをしてしまうんです。」

と回答している。

すなわち、描き手である原作者の手を離れ、原作者ですらも想定ができきれない意志を持った存在としてのキャラクターが漫画内には生きていることを覚えておきたい。 

 

3)刹那性

許斐先生が2018年3月のパーフェクトLINE LIVEで言っていた「一度勝ったからと言ってキャラクター間の強弱が決まるのではない」という点だ。

読者からの質問「新人戦では氷帝の日吉若と立海切原赤也はどちらが買ったのですか?」への回答にあたっての1:05:28~の発言「テニスって一回勝ったからその人が強いってわけじゃなくて、錦織選手でもやっぱりランキング下の人にも負けたりするから、その時のコンディションとかサーブがすごく入ったとか、変わってくるので。たまたまその時は。」と、いうことだ。

テニスの王子様』『新テニスの王子様』で描かれる試合結果は、【その時】【その場所】であったからこその試合結果という受け取り方が推奨される。

 

以上3点を『テニスの王子様』『新テニスの王子様』を読む時は心に留めておくと、より真っ直ぐに原作漫画を読むことができるのではないだろうか、と考えて漫画を読むようにしている。

世界平和の到来を願う営み

テニプリは世界平和の実現を目指しているのかもしれない。

 

テニプリキャラクターソングの中でもみんな大好きLove Festivalからテニプリが世界平和を目指す点について考えたい。

Love Festivalという楽曲の人気の高さは先のテニプリフェスタ2016合戦における全楽曲ファン投票でユニット部門第2位、総合第6位を獲得し、また、非公式ではあるものもその後の超A&G諏訪部順一の生放送で甲斐田ゆき氏をゲストに収録されたラジオ番組内でのアンセムテニプリソングどれが一番好き?投票では得票率52%という過半数での圧倒的支持を得て第1位となったこと等から窺い知ることができるだろう。

 

諏訪部、甲斐田両氏の言葉を借りると"Theテニプリソング"であるLove Festival。

このLove Festivalからは、テニプリが世界平和を願い、その到来を試みていることが読み取れるのではないだろうか。

 

一部歌詞を引用する。

見知らぬ人と人とが Yeah!

High-Touch出来るって Fantasticバザール Hi Hi Hi Hi

そうさこれがマジで毎日待ったフェスタ

"

 

テニプリを楽しむことで人と人とが仲良く楽しむことができる世界を理想としているのかもしれない。

テニプリっていいな」という共感を分かち合う平和な世界の到来を真剣に目指している試みなのかもしれない。

 

元々テニプリオールスターズによって歌われているLove Festivalだが、2018年6月10日に開催されたおてふぇすこと許斐剛★パーフェクトLIVE〜一人オールテニプリフェスタ2018〜夜公演では、Love Festivalは原作者・アニメ声優・ミュージカル俳優が一緒になって歌われた。

正にオールテニプリで披露された一曲となった。

全ての垣根を超え、争いは放棄され、みんなでテニプリを楽しむための楽曲なのだ。テニプリ界の平和を象徴するような一曲だ。

 

また、おてふぇすにおいては、原作者の許斐剛先生が、演出で客席プレゼントとして天井から降らせたバルーンを客席が後ろへ後ろへと回す光景をご覧になり「客席のみんながここにいる全員が楽しめるように、という思いでバルーンを広く回してくれた、みんなが優しいこの光景を忘れないよ。」と仰っていた。

テニプリの世界を作った許斐先生ご自身が、テニプリのファン皆が楽しめる世界を望んでいるのだ。

一人でも多くの人とテニプリを好きという気持ちを分かち合い共有できる、そんな優しい世界を本気で願い、実現させようと試み続けるテニプリの営みに感謝したい。

そして、テニプリを好きになった一人として、その優しい世界の構築を担う一端になれるような志を持っていたい、と思わされている。

永遠性を予感させる物

テニプリはどこか絶対的な感ともいえる永遠性を感じさせる雰囲気をまとっている。

この光は、テニプリがファンを幸福にしている力は、決して消えたりなどしない。

そう思わせる物がある。

 

もちろん『テニスの王子様』が最終話を迎えて連載が終了したように、アニメテニスの王子様が最終回を迎えたように、現実的に物理的な永遠性があるのではない。

テニプリが感じさせる永遠性は、人々の内に宿る、人々の心の中で生き続けるという永遠だ。

ストーリーに触れることで得られるパワーや新しい発見は、衰えることなくいつでも新しくて深いテニプリをもたらしてくれる。

 

テニスの王子様』と『新テニスの王子様』を読み継いでいくこと、そしてキャラクターソングやミュージカル楽曲といったテニプリソングを歌い継いでいくことが、ファンの人々の生活に、時が経っても生き続けるテニプリをもたらしている。

 

つまり、テニプリを永遠にするのはファンの日々の営みなのである。

 

漫画・アニメ・ミュージカルと様々なメディアで繰り広げられる 『テニスの王子様』『新テニスの王子様』が作り出した物達を享受することで、テニプリはファンの人々の内に宿る。

人の内部で生きる精神的な永遠性を獲得できるように作られたコンテンツ達だ。

 

また、読み継がれ、歌い継がれることで、世代を超えてテニプリが伝わっていくことになる。

例えば、既にその片鱗はテニミュで垣間見得ており、テニミュは一定期間が経つと役者が代替わりしていくことで演じ続けられるシステムをとっており、また、ストーリー展開においても、原作『テニスの王子様』を第1巻〜最終巻まで公演し終えるとまたもう一度最初に話を戻して公演を始めるシーズン制をとっているが、役者が替わっても、時が経っても、変わらずに受け継がれている歌や踊りや物語があり、そしてそこに込められた思いがある。

 

テニプリフェスタ2016合戦に合わせて世に発表されたテニプリ☆パラダイスの歌詞から以下箇所を引用する。

 

10年…20年…100年経ったとしても

胸の中刻まれた物語よりも

負けない強さもって飛んでいけるから きっと

 

テニプリは100年経っても力強く生き続ける物語だ。

現実の物理的な永遠を超えて、胸の中に刻まれ人々の内に宿る永遠を有する物語だ。

そして、我々ファンは、テニプリが自らの内に宿るようにテニプリに触れ、その胸の中に刻まれたテニプリの物語から常に新しくて強い力をもらい日々を生きていきたい。

 

はしがきpart2_このブログを始めようと思った理由

♪君が悲しむ理由を知りたい〜 (跡部景吾/理由)

では、なく。

完全な個人の事ですが、このブログの元になったテニプリの考察をしようと思ったきっかけを書きます。

ある種の悲しみや怒りも混ざったこのブログの元になるテニプリの考察を始めた理由について、です。

自分の個人の心情を語るので過激な表現を使いますが、御ご容赦ください。 

 

身体に電流が走るような、という表現がありますが、まさしくそんな経験でした。 

許斐剛先生に「ありがとうございます」と叫びかけたところ、こちらを向かれて「こちらこそ」と仰っていただきました。

2017年10月15日オールテニプリミュージアムin京都(通称おてみゅ)での出来事でした。

 

その時、私の中に生まれたのは「許斐先生に話しかけていただいて嬉しい」という思いよりも「私、許斐先生に"こちらこそ"なんて言われること、感謝していただくことなんて何もしていない」という思いでした。打ちひしがれました。

自分のできることをやろう

自分にできる方法でテニスの王子様と真剣に向き合おう

と思い、考察として言葉で『テニスの王子様』『新テニスの王子様』が自分自身の生きる糧となるような力を与えてくれるのは何故なのか、について真剣に考え、できる限り理論的に詳細に語る挑戦をしてみようと、始めたのがこのブログです。

 

そして去る2018年6月10日(日)に許斐剛パーフェクトライブ〜一人オールテニプリフェスタ2018(通称おてふぇす)に参戦した今、テニプリに対する感謝の気持ちに後押しされるように、またもう一度『テニスの王子様』『新テニスの王子様』に向き合おう、このコンテンツの多幸感とその所以を考察して、一人でも多くの人に真剣に取り合ってほしい、と改めて強く思いました。

 

宗教という響きがどこかマイナスのイメージを伴ってしまう日本で、漫画・アニメコンテンツがサブカルチャーに属する世間で、それでもどうしても、『テニスの王子様』『新テニスの王子様』を理論的にその特異性と人々に与える好影響を説明したいと志しています。生きる支えとなり、原動力となり、幸せの感情を提供するコンテンツたる所以をできれば一人でも多くの人に正しく知ってほしいと思っています。

 

テニプリはどこか嘲笑めいて「宗教のようである」「テニスをしていない」と評される声が大きく聞こえるのが私は悔しくて仕方がないのです。

私の人生を肯定する力を与えてくれるコンテンツを軽んじて嘲笑めいた言葉を投げかけられるというのは、それは最早、神と聖典への冒頭のように感じられるのです。

 

だから、これは、私の聖戦ジハードです。

私の頭脳と言語表現力をかけて『テニスの王子様』『新テニスの王子様』の奇跡を凄さを理論的に語り尽くしたい。

私の力ごときで世界を変えられるだなんて思ってはいないけれど、何もせずにはもう居られない。何か少しでも良いからテニプリの一漫画・コンテンツを超えた概念や理念といった部分を解き明かして知ってほしい。

 

そもそも宗教や宗教信仰というのは、ヒトの高い精神性が為せる業であり、生物界において多様な言語を操り頭脳を大きく発展させたヒトのみが持つ高度な営みの一つです。

その宗教にも似た、人が生きる拠り所となるような、読み手(ファン)に魂の安心をもたらすコンテンツが唯一無二の奇跡ではなくて何だと言うのでしょうか。

テニプリが"奇跡"である説明をしたい。この"奇跡"を理解したい。

これらの思いに急き立てられて本格的にまとまった文章の形をとった考察をしようと試みているのがこのブログです。

 

その思いが、おてふぇす2018を経てさらに強くなったので、また引き続きこれからも『テニスの王子様』『新テニスの王子様』と向き合い、自らの能力とも戦いたいと思います。

ただし、これは辛いことではありません。

テニプリに対する新たな知見を得ることは喜びでありそれを考えていく過程は楽しくもあります。

そして何よりも、テニプリに向き合うことはすなわち、行き詰まることや辛いことや大変なことがあっても、人生の傍らを歩いてくれている王子様達の存在を常に思い出せる幸せがあると信じて書き続けて行きたいと思います。

 

原作漫画を読み解く_高校生からの問い掛け

 「お前はその力を自分以外の誰か/何かのために使えるか?」

テニスの王子様』の続編『新テニスの王子様』から登場する高校生達は問い掛ける。

《汝の力を何のために使うのか?》

《何を成し遂げようと生きているのか?》

《自分自身の力は何のためにあるのか?》

 

"生きること"そのものに全力である尊さが全面に出た中学生キャラクターとその周辺人物達の世界が無印の『テニスの王子様』だとするのであれば、 その続編の『新テニスの王子様』の世界では高校生という先達が全力で"生きること"の尊さの先の人間の生き方をその背中で問い掛けている。その問いが<己の生を何に捧げるのか>という命題だ。

すなわち、自らの生を肯定し、前向きに受け止めた、その先の"生き方"の提示と問い掛けが『新テニスの王子様 THE PRINCE OF TENNIS Ⅱ』なのである。

 

平等院鳳凰がU-17日本代表No1 であり"お頭"と呼ばれる所以は、彼が大義:日本代表の勝利を全身で背負う存在だからである。

 

かの有名なマズロー欲求段階説自己実現理論)によると、自己承認欲求が満たされた人間が次に満たすのは自己実現欲求であり、そして自己実現欲求を充した者が到達する自己実現のさらに上位段階が自己超越の段階である。

自己超越の段階では、コミュニティーの発展への寄与、利己的個人的動機の超克、愛の奉仕を行うようになる。

この自己超越の境地にたどり着けるか。

この命題と向き合い続けている先達が高校生の王子様であり、今、目の前にこの命題を提示され向き合い始めたのが中学生の王子様なのではないだろうか。新テニで度々描かれる高校生と中学生の師弟関係はこの人生における段階の違いから来るものだと見ることができるだろう。

 

また、テニプリの自己超越の課題は飽く迄自己承認欲求と自己実現欲求が満たされた者に課される命題である。

自らの人生を全面的に肯定し、自分自身を更なる高みへ進化させようと手を伸ばし続けている者、すなわちテニスの王子様達だからこそ向き合うべき課題である。

ただし、テニプリにおいては、誰もがテニスの王子様になることができる可能性を秘めている存在と暗に仄めかされているので、自己超越の段階にも誰もが挑むことができる可能性があると信じられている世界だと言っても良いだろう。

この選民的に見えながらも実は一切の差別の無い人間観もテニプリの圧倒的肯定感、作品が読者に前向きな力を与える一因だと考えられる。

なお、マズロー自己実現理論では、自己超越に達する至高体験では自我忘却や無我状態を経験することも定義付けされており、つまりは、自己超越段階は無我の境地のその先なのである。

 

さて、原作漫画の作品中においては、平等院鳳凰のトップとしての方法の正しさには議論の余地が多分に残されているものの、その根幹の目的がお頭たるにふさわしいものであるからお頭なのであろう。ただし、方法論においての破壊性を超越できていないあたり、彼もまた完璧な自己超越者ではない。

そこで高校生をも見守るコーチ陣である大人の存在が生きてきている。

少し話が逸れるが、その点においては、数多いる王子様の中で自己超越者に一番近いのは鬼十次郎なのではないか、と見ている。だからこそ、鬼十次郎平等院鳳凰とU-17日本代表のダブルトップを務める存在なのではないだろうか。 

 

新テニ12巻で描かれている一年前の代表合宿で徳川カズヤが平等院に完膚なきまでに叩きのめされたのも、世界と戦うようになってから平等院が徳川を認められるようになったのも、徳川が利己的個人的動機以外の目的として自分の力を使えるようになったからである。

平等院はGenius10とのシャッフルマッチを戦う徳川の姿に、「こやつ本当に命を懸けてー」と認識し、徳川を受け入れるようになった。つまりこの瞬間が徳川が自己超越の段階に近づき、真に強くなった時なのである。日本代表のトップになるなどという内向きな願望ではない方向に目が向いたのである。それがその後の「俺は俺のやり方で世界をとってみせる」という言葉に現れている。

 

遠山金太郎も「日本一のテニプスプレイヤーになる」から「世界一の選手になったる」と目標が変わったところで、また金太郎の強さは一段と進化した。

 

そしてテニプリの主人公であるはずの越前リョーマが現在の新テニでも主人公に返り咲いた瞬間は23巻で「日本のテニスをナメんな!」と啖呵を切ったところではないだろうか。

この場面は無印18巻の関東氷帝控え選手によるシングルスが始まる前の「お前は青学の柱になれ!!!」と同じ雰囲気を纏っている。越前リョーマが背負うものを背負い、背負うもののために自らの持てる力を賭す生き方を選択した瞬間である。

 

新テニ22巻のスイス戦で亜久津仁に起きた第八の意識 『無沈識』が最強の状態であるのは、ありとあらゆる利己的個人的自己意識を完全に超越しているからである。

 

人生の肯定の先を目指していく困難と、この困難でさえも乗り越えることができる希望が、今の、第2章の、英語タイトルでは"Ⅱ"と表される、テニスの王子様〜THE PRINCE OF TENNISである。

 

そしてそれはもしかすると、全てを「ファンのため」として執筆、創作活動を続けるハッピーメディアクリエイター時々漫画家、『テニスの王子様』『新テニスの王子様』原作者:許斐剛の姿、人生哲学そのものなのかもしれない。