覆い隠される真理
本稿は『テニスの王子様』『新テニスの王子様』を宗教的気づきをもたらす物語として解読することを目的としているため、この試合のストーリーにおいて語られる精神的やりとりに着目して解析している。
テニスの王子様はテニスのルールどころか物理法則をも超えてしまうようなその過激な表現から超常現象に注目が行きがちであるが、その姿を通して語られる登場人物たちの魂のやりとりは普遍的な人間の姿である。
それもかなりのファンタジーである。
少なくともテニスシーンに我々の生きている現実の物理的なリアリティは無い。特に原作漫画単行本の22巻以降の作品後半は物理的な現実性・リアリティはかなり低いと言って差し支えないだろう。
そもそも漫画に登場するキャラクター達の身長、BMI、パーソナリティーなどもおしなべて現実味が薄い。
それもその筈である。
というのも、作者である許斐剛がファンタジー漫画と同列で語ることのできる週刊少年漫画を描こうとして描いている作品であり、また、漫画読了後には前向きな気持ちになるべきだとの考えから苦悩や悲壮は極力描かれないストーリーであるからなのである。
仮にテニスの王子様に物理的なリアリティを感じるのであれば、それを持ち込んでいるのは、アニメとミュージカルのキャストなのではないだろうか。
キャストの彼、彼女達によってキャラクター達に人間という存在の多面性が可視化されるようになる。
キャラクターこそが漫画の命とする作者の考えから、ストーリーや絵よりも圧倒的にキャラクターに比重が置かれた漫画となっている。
そんな漫画であるからこそ、キャラクター達の人間性が可視化されることによって一気にリアリティが出てくる。身近なストーリーになってくるのである。
『テニスの王子様』の連載が始まったのは1999年だった。
連載開始から20年が経った現在、西洋人のスポーツでの日本人の台頭や10代前半選手の活躍は、現実において、テニス・卓球・サッカー・スケート・バドミントン・将棋・水泳etc.様々なプロの世界でも現実になってきている。
"日本人の中学1年生が西洋スポーツで八面六臂の活躍をする"越前リョーマの設定もありえないことではなくなってきている。
現実のスポーツでありえることを少年漫画でファンタジーで描いても現実には敵わない。リアルのスポーツを超えるエンターテインメントにはなれない。
では、漫画コンテンツが漫画の中だけてはなく他のエンターテインメントとも比べて選ばれるために魅力的になるためできることはなんだろうか。
テニスの王子様には、ファンタジーがリアルを越えた魅力を放ちたいという意志がある。
科学法則に反した必殺技、物理法則を無視したボールの威力、テニスのルールに即さない試合展開など人智を超えた展開を見せるが、こういった自然科学法則を無視した現象は、聖書や仏陀伝説における超常現象の類だと考えている。
「科学的に否定される事象を全て取り払ったとしてもそれは何ら聖書の価値を損ねることにはならない」
これは私が縁のあるキリスト教教会での礼拝の説教で語られた言葉だ。
この言葉と同様に科学的見地から否定されてもそれがテニスの王子様の価値を損ねることにはならないだろう。
登場人物がより高みを目指して切磋琢磨しあう姿は、自己存在を成長させ、人間としての高みを目指すようだ。
テニスの王子様の深淵を読み取ろうとした時、紙面に表現された目に映る絵だけを捉える「見える側に囚われているようじゃまだまだ」なのではないだろうか。
また、テニスの王子様では効果的に理解していない観客・傍観者=第三者の声が入ってくる。
コアの精神的なやり取りの真髄に近づくとそれを覆い隠すかのように何も理解していない者達からのヤジが飛ぶ。
それが現実的感覚とを繋げる一方で、読解を難しくしている。
テニスの王子様の世界では観客と選手に明確な一線がひかれている。
コート上でのやり取りは同じくコートに立てるだけの力量のある人間たちにしか理解できていないのだ。
原作漫画では、同様に、試合を解説する人物も、出場の如何を問わず、その試合を理解できる者が選ばれている。
さらに、テニスの王子様を読み解くにあたっては、読者と登場人物の間に情報格差があること、それに伴う認識の差異が生じていることにも気づく必要があるだろう。
青学メンバーについてだけでも、例えば手塚の怪我からの復帰に関しては全国大会氷帝戦S2で青学は手塚について評価しているが、九州でのイップスの一件は彼らは知らない。
全国大会決勝D1中で竜崎スミレの語りかけ「そう言えばお前達がピンチの時−常にリョーマがきっかけになりよったわい」によって越前リョーマが青学の柱になっていたことに気がつく(越前リョーマが作中で自他共に認める青学の柱として試合をしたのはおそらく全国大会決勝S1の一戦のみだと思われる)。
「瞳に見える外側に囚われている様じゃ…まだまだだぜ」というのは主人公・越前リョーマの父、『テニスの王子様』における最高到達地点・天衣無縫の極みに一番最初に到達した人物・越前南次郎が全国大会決勝戦前に息子・越前リョーマを指導した際に投げかけた言葉だ。
これは、もっぱら作中世界で息子に語りかけた言葉のように見えるが、もしかすると、テニスの王子様の世界を見つめようとする読者にむけても語りかける言葉なのかもしれない。
参考資料:
・ジャンプGIGA 2017 vol.1 掲載「許斐剛×藤巻忠俊 クリエイティブの秘訣お答えしますスペシャル」 2017年4月28日発売 集英社
「桜咲くこの街で 大きく笑おう」
竜崎桜乃は想定される読者の立ち位置を体現する存在なのではないだろうか。
傍観者から当事者になろうとする、物語から正しく勇気をもらう人物のシンボルだ。
彼女の言葉は真実を覆い隠す傍観者ではなく、越前リョーマをまっすぐにみつめる彼女の越前リョーマに対する言葉から『テニスの王子様』と『新テニスの王子様』のストーリーの方向性が見えてくるだろう。
テニスの王子様は、登場人物の構成が他の週刊少年ジャンプ漫画である銀魂と同じような構造になっているように見受けられる。
銀魂はジャンプヒーローは坂田銀時なのであるが、主人公は志村新八であるといえないこともない。
テニスの王子様もジャンプヒーローは越前リョーマであるが、実は主人公は竜崎桜乃であると見ることもできる。
この場合の主人公はいわゆる典型的少年漫画主人公といわれる、ゼロベースから周囲の影響を受けて成長する”普通の”人間に一番近い、すなわち、漫画登場人物とは住む世界を異にする傍観者になるしかない読者と漫画世界とをつなげる人物のことを指す。
要するに漫画主人公とは別に読者との架け橋係が存在する物語構成となっている。
その読者との架け橋的存在である竜崎桜乃は今読者が読んでいる物語がどういう物語であるのか、すなわち我々読者が受け取るべきメッセージを教えてくれる。
『テニスの王子様』『新テニスの王子様』の両方で竜崎桜乃が越前リョーマに向けたセリフを見ると
『テニスの王子様』では、「私も その………リョーマくんにテニスを教えてもらって…すっごくテニスが好きになって…」と言葉の向いている先は”テニス”である。それは、『テニスの王子様』が越前リョーマ(とその他王子様達)がテニスに出会う物語であり、
『新テニスの王子様』では、「どこの代表でもリョーマくんのテニスを応援してるから」と言葉の向いている先は”越前リョーマのテニス”になり、これは、『新テニスの王子様』が"越前リョーマ(とその他王子様達もそれぞれ)のテニス"が確立される物語であると、定義づけることができると考える。
読者は、『テニスの王子様』という漫画の最終回に際して、竜崎桜乃と同じように「Thank you!」と言えるようになることを想定されているのではないだろうか。
“テニスは人生”の法則を思い出せば、
『テニスの王子様』からは我々読者は生きることを好きになるメッセージを受け取り、
『新テニスの王子様』は各々の人生を歩む自己肯定感を受け取る。
そして、
「今までの勇気を たくさん拾い集めて 桜咲くこの街で 大きく笑おう」
最終話まで読んだ『テニスの王子様』からもらった勇気を自ら拾って、集めて、新しい季節がくる自分がいる場所で大きく笑いたい。
今までの『テニスの王子様』が見せてくれた物にありがとうとお礼を言って、今度は自分の番だと、自分の道を今までのことを勇気にして前向きに歩いていこう、というのが、テニスの王子様の描き出した人生への肯定感なのだと思う。
ここから先は想像混じりの憶測になるが、
2020年早春公開予定の映画について、『テニスの王子様』と『新テニスの王子様』の間となる『新生テニスの王子様』は越前リョーマが越前リョーマの自我を獲得する物語になるのではないだろうかと想像している。 だから映画タイトルが「リョーマ」なのであれば非常に納得感がある。
そして越前リョーマがテニスの王子様の物語で果たしてきた主人公の役割から考えると
この
テニスとの出会い
↓
自我の確立
↓
自分のテニススタイルの獲得
一連の流れは王子様として登場した全てのキャラにも当てはまるとすると、要するにテニプリはそういう人間の成長を記す物語と言えるだろう。
人間の成長を描く物語であるがために、テニプリにおける救い・カタルシス・浄化はそのキャラクターが成長する、成長カタルシスの表現方法を取る。つまり、成長した瞬間にそのキャラクターに救いが訪れるのである。
価値観の格付けがされない世界
試合は哲学と哲学のぶつかる場所だ。
どちらの希望の力が強いか。
試合相手は互いにとっての絶望の姿をしている。
主人公を誰にするのか、思い入れを誰にするのか、によって見える正義の形も希望の姿も変わってくる。
そこで『テニスの王子様』は青学が主人公でなければならなかった。
『テニスの王子様』の爽快感はテニス以外に理由の無い青学だからこそ成立する。
不遇な経験をした不動峰でも、地方から寮生活をするルドルフでも、天性の能力をいびつに持ち上げた不均衡を飲み込んだ山吹でも、プライド高い氷帝でも、親の期待を背負う緑山でも、内地への見返しを誓った比嘉でも、ましてや難病から復活した部長と彼のためにと悲壮なまでの覚悟で歴史を守ってきた立海でも成立しなかった物語の爽快感は青学が主人公だから成り立ったものなのだ。
無印『テニスの王子様』で敗退していった学校はチームの形が少しづつ歪だ。
それはテニスに勝ちたい、テニスそのものにだけ向かい合う状態ではないことに起因する歪さだ。また、テニス以外に共有したい哲学があることは、個々人間で理由の捉え方に少しずつずれが生じる可能性があり、ひいてはテニスをするための理由がずれることで結果としてチームの形も歪になる可能性を孕む。
分かりやすく例えばの話を想像してみる。
例えばもしも立海大付属が全国大会で優勝してみよう。
彼らの病気の部長のために掲げた常勝無敗の掟は報われるだろう。
だが、どうだ。
先輩や顧問からのいじめに耐えて這い上がった不動峰の思いはどうなる?
勝つために地方から集められたルドルフは、
26年間の不遇の想いを背負って本土に乗り込んできた比嘉は、
彼らの勝ちたかった理由は、バックグラウンドは、立海のそれに比べれば報われなくても構わないものなのだろうか。
立海の想いのみが成就されれば良いのだろうか。
この全ての背景を一蹴してみせる方法こそが勝ちたいがために勝ちたい青学になる。
何かのために理由がなければ戦えないチームではない、テニスに勝ちたい思い、ただそれのみで繋がる青学が優勝することで逆説的に全ての生き方を否定せず順位づけもしない世界を構築することに成功している。
また、この戦う理由や背景、ひいては生き方の格付けをしないことが『テニスの王子様』のテーマである"爽快感"(テニスの王子様 公式ファンブック 40.5 許斐 剛先生百八式破答集 参照)につながる。
しかしながら、実は作中にこの青学と同じく勝つための理由を持たない、勝ちたいから勝ちたい思いで戦うチームが2校登場する。
そのため六角と四天宝寺の敗北は青学が敗北するかのような悲壮感が伴ってしまうはずなのだが、これを『テニスの王子様』はそれぞれ別の方法で綺麗に覆い隠し補う。
六角は青学の仲間として描き、
四天宝寺は彼らの一切の回想をなくし歴史の厚みを見えなくし、敗北の直後に遠山金太郎という可能性の象徴を登場させ、一気に前を向かせる。
六角と四天宝寺は作中での立ち位置も非常に青学に近しい存在になっている。
例えば、六角は合同合宿(ビーチバレーの王子様)エピソードに由来して彼らの果たす役割は青学の身内になる。この昨日の敵が今日の友になる身内への役割転換は比嘉戦で効果を発揮する。
四天宝寺の勝つために勝つという価値観(=勝ったモン勝ち)も『テニスの王子様』の世界観においては爽快感の基準になるポテンシャルがあったため、あえて一切のバックグラウンドが分からないような描かれ方をされているのだろう。
だから原作の四天宝寺は"得体の知れないバケモノ"のような雰囲気を放つのである。
四天宝寺が今まで勝ち上がってきた歴史を目撃してしまっては『テニスの王子様』の"爽快感"が表現しきれなくなってしまう可能性がある。
四天宝寺が全国大会準決勝までどうやって勝ち上がってきたのか、その一切を省かれ、あたかも最初から強いかのように見せることで青学の敵、更に言えば、"今まで対戦してきたどの学校をも上回る、予測不能な存在"で"今までの敵を全て上回っている"(テニスの王子様 公式ファンブック 40.5 許斐 剛先生百八式破答集)存在として見せられている。
そしてこのテニスの勝利以外に目的意識を持たない青学の全国制覇は、どんな事情にも筆者という外部からの視点で順序がつかなかったということだ。
逆説的に、全ての事情がそれぞれにとっては重要であったのだと尊重されたことになるのである。
だからこそ、何の事情も持たない、テニスそのもののみが理由の青学が主人公でなければ成立しない世界がそこにはある。
『テニスの王子様』の世界では、戦う理由、すなわち、生きている理由に格付けがされてない。
『テニスの王子様』の世界では逆説的な手法ではあるが全ての理由が順位づけされず肯定されているのだ。
比較で生きることを強いられない世界が生きる安心感に繋がり、生き生きと生命の輝きを放つことができるのは、想像に難くないだろう。
この世界を作る側から全て人の価値観が平等に尊重されている世界で生きているから、『テニスの王子様』のキャラクター達は生き生きとしているのではないだろうか。
キャラクター考_氷帝学園に魅せられるということ
本稿は、『テニスの王子様』におけるライバル校:氷帝学園について考察する試みである。
最初に断りを入れさせてもらいたいが、無印『テニスの王子様』は青春学園中等部男子テニス部が主人公のため、ライバル校の考察は非常に難しい。
ライバル校はどうしても主人公の属する青学のキャラクター達の目を通しての姿でしか見ることができない。
ライバル校のみをただまっすぐに目撃することは意外なほどに困難である。
当然といえば当然のことであろうが、今まで見てきたテニスの王子様は、全てのキャラクターが主人公だといわんばかりに、あまりに生き生きと描かれていたことで錯覚していたのだと思う。ライバル校キャラクターである彼ら自身が主人公となるストーリーは、漫画『テニスの王子様』で描かれた世界とは別基軸で存在しており、我々読者は漫画となって切り取られた部分のみを、しかも主人公越前リョーマ(とその所属校である青学)の目を通して観察しているにすぎなかった。
そんな中でも、"氷帝狂騒曲"と題した一話が描かれるほどに描写の多い氷帝学園とその所属キャラクターについて、彼らが読者へと語りかけるメッセージや哲学性を読み解こうと思う。
<プライドをもたらす者達>
人間の矜持を置いていこうとするときに、思い出させてくれる、それは忘れてはならぬと語りかけてくる存在、本当にそのプライドは捨てても良いものなのか、と問いかけてくるのが氷帝の人々だ。
だから、我々は氷帝学園中のキャラクターの前に立った時、彼らに恥じぬように生きたい、誇れる生き方をしているのか、と自らを再び鼓舞できるのではないだろうか。
氷帝学園中の正レギュラーキャラクターのそれぞれ代表的な台詞(決め台詞)を見ても、他の学校のキャラクターに比べて彼らのアイデンティティがそれぞれの美学に立脚していることが窺いしれる。
跡部景吾「俺様の美技に酔いな」
芥川慈郎「ボレーなら誰にも負けねぇ」
忍足侑士「攻めるん遅いわ」
宍戸亮「激ダサだぜ」
向日岳人「もっと跳んでみそ」
鳳長太郎「一球入魂」
日吉若「下剋上だ」
対自分への言葉であったり、美しさが基準になっている言葉が多い。
(補完であるが、新テニスの王子様に登場した氷帝学園中等部OB現高等部所属の越知月光「さして興味はない」も自分基準の価値観をうかがわせる)
さらには関東大会での顧問榊太郎の指導も以下のように己に問いかける言葉が使われる。
D1後「満足いく試合が出来たか?」
S1中「お前のテニスを見せてやれ‼︎」
己の美学を確立させ、それに恥じぬよう戦ってみせるのが氷帝学園中である。
氷帝学園中は作中で青学と二度戦う。
氷帝は作中で唯一真正面から青学に二度負けた学校である。(立海については関東大会は両者万全の状態ではなかったこと、また、不在の部長同士の様子を鑑みると、正面から挑んで負けたとは考えづらい。このことの詳細については、また改めて論考したい。)
「二度負けるつもりはない氷帝は このリベンジに自尊心 油断 過去の栄光など 全てをかなぐり捨てて挑んで来ている」のだ。
敗北してもなお傷つかない魅力を有する。
気絶してもなお君臨した跡部景吾の姿こそが氷帝学園中の本質だ。
その跡部景吾が象徴した姿、負けてもなお凛と立つ折れてはならないプライドと自信
表面的な美を失ってもなお残る美しさを彼らの中に見る。
敗北からの立ち直り、負けから学ぶもの、挫折から這い上がるという姿勢は跡部景吾以外の氷帝メンバーにも強く現れる。
それがわかりやす丁寧に描写されているのは宍戸亮ではないだろうか。
例えば、宍戸亮が自分なりのテニスを築き上げた流れ、橘に負けたことで大きくなったことで確立されたテニススタイルや、油断しなくなった、相手を舐めてかからなくなった精神の確立にもその姿をみることができるだろう。
彼らは総じて敗北との向き合い方が美しいのだ。
人生を生きていれば挫けることもうまくいかないこともままならないこともある。
その時になお歩みを進める、一層強く踏み出す、折れない精神こそが氷帝学園の姿であり、その姿に我々読者も自らの背筋を正したくなる。
正しい自己肯定感や、プライドを手に入れて、なお立ち上がる気概をもらう。
読者に、敗北では消えないプライド、そこから立ち上がる精神力、努力、正しい自己肯定感精神的な高潔さを見せてくれる集団である。
全力で挑んだ物事に敗れるというのは怖い。
負けると分かった上でも全力でぶつかっていけることは稀だ。
そこで失うものの大きさに足がすくむだろう。負けた時の無力感に絶望してしまいそうになる。
そんな時に「負けても自分のプライドの大切な部分は傷つかない」と教えてくれるのが氷帝学園中のレギュラー達だ。
敵わないものへも全力で向かっていくこと、
敗北からも学ぶこと、
それでも折れない傷つかない精神的な志を大切にしていくこと、
彼らの戦い様からはそんな人生との向き合い方を教えられるのではないだろうか。
本当に無様であるとはどういうことか、そういう問いかけを発している。
またその無様であることへの抵抗感と恥と無様にみせない生き方を彼らが掴み取っていく姿が彼らのかっこよさであり魅力である。
それはまさしく『氷のプライド 誇り高き美学』なのである。
氷帝学園の魅力は何かと考えると結局たどり着くのが原作者の許斐剛がテニプリFEVERの歌詞として各校につけたキャッチフレーズになる。
『氷のプライド 誇り高き美学』に惚れ込むのが、氷帝学園に魅せられるということ。
プライドと美学を共有した者たちの集まりが氷帝学園なのではないだろうか。
(なお、他のライバル校についても、その学校の魅力はどこかと尋ねられて一言にまとめようとすると、この各校キャッチフレーズにたどり着くと思っている。このことの詳細についてもまた改めて論考したい。)
以前本ブログでは青学が人生のどんなテーマをかけて各校と対戦したのかについて論考したことがある原作漫画を読み解く_無印で語られる具体テーマ - 超解釈テニスの王子様 人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ)手前ながらこの考察によると関東氷帝戦は「チーム・仲間」をテーマに戦った。
この試合で敗れ、青学に雪辱を誓った氷帝は全国氷帝戦でチームとして勝つことに主眼をおいたオーダー戦い方をするようになる。
原作漫画中のシーンを拾うと、D2の榊監督「竜崎先生 これが勝つ為の我氷帝学園のオーダーです‼︎」、S2樺地「勝つのは氷帝です‼︎」D1「俺達は勝って跡部に繋げなきゃならねーんだよ」S1「しかし今の跡部は違う… 自分の欲求は捨てた」「部長としての選択だ 氷帝の勝利の為に!」
この流れからも氷帝学園が敗北から学び克服するという生き様を全うしていることがうかがい知ることができるだろう。
そしてさらに青学は氷帝を負かしたことでプライドも手に入れる。それはすなわち強豪校の自覚であり、自信だ。
比較による考察を深めるためにライバル校同士を比べてみる。
氷帝学園と立海大附属の部長と他レギュラーとの関係性の書き分けがなかなかに難しいが、あえて表現するのであれば、
跡部景吾は氷帝の中心ではないし、幸村精市は立海の頂点ではない。
氷帝メンバーは濃度の差こそあれど、全員が跡部景吾なのである。
立海レギュラーは幸村精市の方向を向いているが、氷帝正レギュラーは跡部景吾のために戦ってなどいない。
氷帝学園所属として描かれるレギュラーメンバーは全員「より優れた他者の力を認め、自分が劣っていることをきちんと理解し、驕ることなくひたむきに努力をしているところ」(「テニスの王子様 BEST GAMES!! 手塚vs跡部」松竹株式会社 2018年8月24日発行 映画パンフレットP14 CAST INTERVIEWより)が魅力な王子様達なのである。
以下は、氷帝学園中男子テニス部正レギュラー内では芥川慈郎を愛する筆者による願望混じりのキャタクター考察。
跡部景吾が頂点である。
彼は氷帝学園を体現する完全形である。
跡部景吾は「より優れた他者の力を認め、自分が劣っていることをきちんと理解し、驕ることなくひたむきに努力をしているところ」(前述BEST GAMES!! 手塚vs跡部パンフレットより引用)が彼の魅力の本質であろう。
そして氷帝No.2とされる芥川慈郎はその特性が陽の方向に全振りして出現していると見受けられはしないだろうか。(なお頂点である跡部景吾は陰陽全てを内包して「より優れた他者の力を認め、自分が劣っていることをきちんと理解し、驕ることなくひたむきに努力をしている」。)
芥川慈郎は氷帝学園中というチームにおけるバランサーになる。
彼の氷帝の哲学を共有しながらの陽のエネルギーが氷帝のチームとしての全人的なバランスを保つ。
全国大会準々決勝で彼はベンチであったが、このバランサー感覚が非常によく現れている。
氷帝がピンチの時(作品的には青学が活躍する時)氷帝は悔しがったり否定したりするような言動が多いが、芥川慈郎だけは肯定的なメッセージを発するに終始している。すごいものはすごい。驚くべきことは驚く。すごいものにはドキドキする。純粋なまでに。これは団体戦メンバーとしてはチームの勝利に執着しておらず自分勝手ともとれるが、一方で相手のことも素直にすごいと認めることができる人間性でもある。
だからこそこの勝利への渇望や熱量を青学が得た(であろう)この団体戦にはこの精神における対戦相手になり得ず出場できなかったのだろう。
20.5巻において原作者の許斐剛氏がインタビューで「芥川慈郎は一番キャラクターに変化があった。結果的に氷帝を明るくできてよかった」と語ったように、彼はその役割を集団の中できっちりと果たしている。
また、その彼がその真偽はどうであれ、氷帝学園実力No.2という強いキャラクターとして存在していることも、他に陽の方向に振ったキャラクターのいない氷帝学園において、絶妙なバランスをもたらした要因だと思っている。
ペアプリで原作者が「氷帝No2として出したのに、芥川慈郎を活躍させてあげられなかったのは後悔している」と語り、山吹戦で不二がD2で負けたことを「あんな風に簡単に描くべきではなかった。不二は簡単に負けさせてはならない」と語っていたことからも、おそらく本当に対戦相手が悪かっただけなのである。
不二周助を強いキャラにするために使われてしまったのが関東大会氷帝戦の芥川慈郎なのである。
結局関東大会vs氷帝戦を見る限りだと、S2は不二周助を圧倒的に強いキャラクターとして描くためだったような気がする。また、その後のS1への流れに沿うと、おそらくダブルスはダブルス専門、シングルスでも3と2、2と1との間に強大な実力の壁がそびえ立っているように読める。
『BEST FESTA!! 青学vs氷帝』感想とか何か色々書きたくなったこと
(前置き)
本当はTwitterで呟こうと思っておりました。
書きたいことを書き出していったら、あろうことか3,000字(ツイート20個分)近くなったのと、文字数制限140字を数えるのが面倒になった(こっちが本音)ので、ブログ活用します。
(前置き終わり)
>細々としたシーン・曲ごとの心の声
・19日Get out the way
Get out the way「そうさ 俺たちは群れない~」
私(数分前のトークタイムでのカメラ写りこみ大会を思い出す)「
・19日鳳長太郎パート
Days(リズムとか音程取るの難しそうな曲)
私「私も割と不安」(
その後の宍戸&鳳デュエット曲Bring it on!で息を吹き返したようにかっこ良く煌めく鳳長太郎もとい中の人浪川大輔さん
私「宍戸さんの安心感たるや」
>個別感想
ジローのハーフパンツがトランクス設定が公式見解だということは
あえて右足ロールアップ靴下見せうえだゆうじを見てしまった私は
水色ストライプの方がかっこEじゃんっていうやつ…
個人的な今回のMVPは小野坂昌也氏。
スタンディングライブに戸惑うというか遠慮がちで探り探りな客席を
しかもどうやら当日は足を肉離れしていたらしいという話を聞きさらに感服。
桃城武が、都大会決勝山吹戦S3で右足を痙攣したまま試合続行させた姿や全国大会準々決勝氷帝戦S3で額から流血しながらなおも挑んでいった姿を思い出して重なってしまった。
千秋楽の青学トークタイムでベストゲームスの話題になり
不二周助(cv.甲斐田ゆき)「順調にいけば、
会場「きゃー!!」(圧倒的黄色い歓声)
甲斐田ゆき「あ、まだ全然分からないんですけど。来年かもしれませんが」
のくだりで思い出したけど、
ベスゲで青学が勝利するの第三弾の不二周助が一番最初じゃん?
勝って…主人公校…。
誰にとってのベストゲームズなんだ?
少なくとも試合した青学っ子当人たちにとってのベストではなさそ
置鮎さんも「
やっぱりテニフェスは最高だな、って思って。
テニフェスに何を観に行っているのか突き詰めて考えると推しが愛
オタクにとって推しは人生じゃないですか。
推しが愛されているのを目撃して共有して体感して「あぁ、
テニプリは人生が肯定される場所。(宗教すぎる)
やっぱり生アフレコ凄いわ。
実在してるのを感覚神経に直撃で感じる。
跡部景吾は決して1人であの場所に立っているのではないのだな、というのをあまりに強く感じてしまった。
榊監督の言葉を借りるなら「氷帝学園200人の頂点に立った男」
それはすなわち跡部には199人(原作設定にそえば正確には211人)の部員達がいて、彼を支えている。
頂点には底辺が、土台がしっかりなければ頂点とは成り立たない。
その跡部景吾が頂点に立つための土台はしっかりと氷帝学園が構えている。そのことを見た気がした。
さらに全員がトップを狙って頂点に向かって鋭利に研ぎ澄まされていく氷山のような雰囲気を形成する跡部景吾と彼に続く8人。がっつりその様子が見えて最高に痺れた。氷帝学園実在していた。
20日夜公演の氷帝トーク「自分が演じるキャラクターの今後の展開の希望」がすご
あんな回答は自分のキャラクターのことを200%
しかも全員キャラ的に大正解じゃん。
3年生卒業させちゃう日吉も、長身とマッチョで迷う向日も。
さらにそれをキャラクターとしてじゃなくてあくまでキャストとし
テニプリ声優キャストは声優がメインの仕事ではない方々もそれなりにいる中、
やっぱり青学チームは出番も多いし長いしでこのキャラクターと1
始まる時のBEST GAMES!!映像
審判「これよりシングルス1の試合を始めます」
置鮎&諏訪部両氏による冒頭5分の生アフレコ
↓
手塚国光/Never Surrender
この流れ感動しすぎて変な声出た。
S1の試合してる手塚を降臨させるのに十分すぎた演出。
千秋楽公演の河村隆/
成さんが「ありがとう」
タカさんは「ありがとう」が似合う人だなぁ。
今回氷帝チーム割と感極まっていたように見えて、そのことに感極まった私。
「うわ〜!いる〜!!」ってなった。
個人的な最も生きてるキャラクターは向日岳人さんでした。
向日岳人「おい、侑士。
私「うわわわわわ岳人いる!!生きてる!!ちょっと!
氷帝ファンへのご褒美テニフェスだったな。
氷帝のフィーチャーされ具合が大きくてキャストさんの熱量もコミ
氷帝の影の濃さは寒さに由来する気がすることに気が付いた。
氷帝が良いとゾクゾクするのが寒気に似ている。
だから氷帝が強くなると温度は下がって空気が凍てついていく。
ゾクゾクさせてくれればさせてくれるほどに空気は冷えていき、
冷たい氷の世界には光もどんどん届かなくなっていく。
だから影が濃くなっていく。
あたり一面が張り詰めたみたいなキーンと凍るようなまさしく氷の
氷の反射する光でのみ輝く世界がどんどん構築されていく。
それがあまりにかっこいいし、THE氷帝学園。
それを体感してまた私たちは寒気にも似たゾクっと感を覚えるとい
そして、
青学は光。
何かが開ける 闇を切り裂く光。
眩しい 暖かい
そして色鮮やか
あらゆる色に光る 光の奇跡の虹。
氷帝が凍らせた世界を切り裂いて届く世界を照らす光。
20.
しかもこの先に続くのが「青学が完全に挑戦者の立場にまわる、関東最大の壁です。」と続く。
特に本編ラストの学校曲Get out the way→Tricolore。
漫画が具現化したと思った。
テニスの王子様という青学が主人号の世界では主人公になることは
お互いが強くなればなるほど互いが強くなるライバル校同士。
それが青学vs氷帝。
いや〜ドラマチック!!
それでいて中の人々は「先輩を卒業させたい」だの「
氷帝学園ってどういう学校なのよ?って考えた時にたどり着いたのが、原作者の許斐剛作詞テニプリFEVERの歌詞で与えられた「氷のプライド 誇り高き美学」という言葉だと思うわけだ。氷帝レギュラー陣の決め台詞も己の美学にこだわった言葉が多い(比較のために持ち出すけど、立海(20.5巻「一番の強敵」)は、対相手への威圧言葉が多い)。
出演校が絞られたことによって氷帝にあたるスポットライトが増えたから見えたのか、青学とはまた違う雰囲気を纏いながらステージを作る氷帝キャストに「氷のプライド 誇り高き美学」を感じた。
氷帝学園は美学を共有する者達なんだよなぁ。(また氷帝についてがっつり考察したい。)
ベスフェス〜Are we cool?〜
ペンラ持って行って振ってたけど、
ライブで拳握って掲げるの力がみなぎるようで大好きなんだよね。
笑って泣いて感動して元気もらって。
テニスの王子様はやっぱり自分がこの世に生を受けたことが祝福されているように感じさせてくれるんだよなぁ。
テニスの王子様に出会えて楽しめたこの奇跡に感謝したい思いでいっぱいになってZepp Divercity TOKYOを出ました。
"解釈違い"の果てに
ここでは、"公式が公式設定を覆したこと"を解釈違いと定義づけよう。
そうすると、テニスの王子様の解釈違いは私個人が簡単に思い返すだけでも以下のような事案があった。
・漫画
上(兄・姉)兄弟が後付けで出てきた
同じファンブック内で試合オーダーが異なる
本編とファンブックで試合結果が違う
キャラクターの名前が変わる
・アニメ
漫画と兄弟姉妹構成、所属委員会が違う
アニオリ展開(アニメオリジナルキャラクター、原作にはない試合、試合展開が異なる)
悪夢の関東立海
ミニキャラコント
一部キャラソン(いわゆる"キャラ崩壊")
キャラ声での声優キャスト私的ラジオトーク(いわゆる"キャラ崩壊")
・ミュージカル
キャラクターが消える
顧問がいないことによるセリフ再編
演者の判断で披露される日替わりネタ
などなど…
要するに何が言いたいかというと、数多の解釈違いを経験しているのだ。
そして、その先に在るのが現在のテニプリ(テニスの王子様・新テニスの王子様)である。
そんな解釈違いとは無縁ではなかった中、連載開始から20年が経ちながらもファンがい続けるテニスの王子様について、ファンや消費者は何を以って、公式供給物をテニスの王子様のコンテンツであると認識しているのだろうか。
「テニスの王子様である」とは、どういうことをいうのだろうか。
多くの人に認識され、発信されてきたテニスの王子様。
その多くの人々の手に渡っても共通して生き残っている要素、異なる部分が有ってもなお全てのテニスの王子様コンテンツで共有される価値観がテニスの王子様の真髄なのではないだろうか。
それはまるで様々な人の手を経て編纂され読み継がれてきた聖書や仏典のようにも見える。
傷ついて傷ついた先にその奥に残ったものがそれでも傷つかなかったものがコンテンツの真髄になるのではないか。
そしてまたそれと同時に、今までとは異なった情報や有り得ないような展開をも受け止めて許して存在を認めること。
発信者を信じ、発信者側も信じる側の人々に真摯に向き合う、という有機的な相互やり取りの関係性であるが故に生じる解釈の余地。
この伸縮性と懐の深さがテニスの王子様なのかもしれない。
絶対に揺らがない"核"
と
全てを受け止める"許容力"
この2つを兼ね備え続けていることを我々はテニスの王子様だと認識しているように思える。
"終わらない世界で 見つけたい答えを 両手広げいますぐ受け止めたい
全て抱きしめて 届けたい未来へ この願いを信じて 歩いてゆくだけ
止まらない世界で 探したいゴールを 一人では見つけられないとしても
今を抱きしめて 託したい思いを 一つ一つ集めて 歩いてゆくだけ"(Gather/青と瓶と缶)
正しいことも正しくはなかったことも全て抱きしめて、今まで一つ一つ歩んできたものと今いる場所とこれからの未来、それらがテニプリ(テニスの王子様・新テニスの王子様)というコンテンツの真の姿なのかもしれない。
(以下、余談。)
(2018年12月Twitterで解釈違い騒動が起きました。その発端となったヒプノシスマイクについて私はほぼ知識ゼロなので詳しいことはよく分かりませんが、「こっちよりもマシだろ」と言うつもりは毛頭ありません。「その傷はいつか見た傷」。おそらく我々も同じ痛みを知っていると思う。そういうこともあるよね。慰めあおう。と思いました。公式が出した設定を公式自ら無視された傷は癒えないと思います。オタクは癒えない傷をかかえてオタクを続けるしかないと思います。それでもその先にしか見えないものもきっとあるんだと思う。多分だけど。)
天衣無縫の極みについて考える_人生の辿り着くべき場所への到達
※本記事は、作品名などの表記にブレがあったり、段落間の接続に違和感があったりするため、後日修正を入れる心づもりです※(2019.1.5)
2007年12月に刊行されたテニスの王子様公式ファンブック40.5によると、
"天衣無縫の極み◉”無我の境地”の奥にあると言われている、3つの扉のうち「開かずの扉」と呼ばれる、最も次元の高い領域。過去数十年前に、1人だけこの扉を開いた人物が存在するらしい。"
と記されている。
なお無我の境地とは、身体の記憶でプレーをするようになる一種のゾーン状態のことである。
旧テニで越前リョーマが天衣無縫の極みの扉を開いた「テニスって楽しいじゃん」の自覚は、ジャンプ展(会期2018年9月)の原画展示キャプションで原作者より「旧テニプリのたどり着いた答え。皆の戦ってきたすべての答えがここにあります。」と語られた。
これはテニスって楽しいじゃんが答えであると同時に、この自覚はあくまで”旧テニプリの”答えだと限定されたことでもある。
新テニでは別の答えが示されても何ら不思議ではない。
喜怒哀楽の感情のうち”喜”と”楽”が五感剥奪や体力・精神の火が消えてしまった状態からの再起に有効なのではないだろうか。
天衣無縫の極みの到達が描かれているのは3人越前リョーマの他にもう2人手塚国光と遠山金太郎がいる(鬼十次郎は目覚めた瞬間が描かれておらず最初からできたことを思い出したのでここでは含まないこととする)。
手塚国光の天衣無縫の極みへの到達シーンから、天衣無縫の極みの扉はその領域に到達していてもリミッターがかかり開かない可能性があることが示唆されている。手塚にはチームのためという没我的な自己欲求を無視する禁欲的な姿勢を解放したことで本来の姿として天衣無縫の極みが現れた。
遠山金太郎の天衣無縫の極み到達のキーワードは面白いではないだろうか。
越前リョーマが父親:越前南次郎によってテニスって楽しいじゃんの気持ちを思い出した時の覚醒の言葉は「テニスを嫌いになれるわけない だってテニスって楽しいじゃん」であったが、遠山金太郎は「面白いわぁ だからテニスは止めれーへん」だ。
(おそらく鬼十次郎は「俺の幸運」)
つまり、天衣無縫の極みという答えが一つ存在していること、その答えに到達する法則性や属性はあれど方法は人それぞれということが分かるだろう。
さて、この天衣無縫の極みとは言い換えると絶望から自力で再び立ち上がった状態ということができるのではないだろうか。
前述の通り、天衣無縫の極みに主人公越前リョーマが目覚めたきっかけ「テニスって楽しいじゃん」の自覚を「旧テニプリのたどり着いた答え。皆が戦ってきたすべての答えがここにある」と原作者である許斐剛氏はジャンプ店にてキャプション付けした。
テニスを楽しい嫌いになれないの自覚がすべての答えということは、テニスは人生であるテニスの王子様の世界観においてそのまま人生を嫌いになることはできないという意味にもなる。
テニスの王子様において越前リョーマは全員の全てを背負いすべてを昇華させた。
越前リョーマとは象徴なのである。
越前リョーマが主人公としてまっさらな状態から一つずつ背負うものを増やし最終的に天衣無縫の極みに到達してみせることは、作中に登場しテニスをプレーする全員にその可能性が宿っていることを表現したことになる。
天衣無縫の極みとは何かといえば結局はテニスをするためにテニスをする状態なのではないだろうか。
ただテニスが楽しいから(正の感情をもたらすから)テニスをする
テニスを上手くなりたいからテニスを上達させる
テニス以外のところに目的がない、つまり、勝つためや見返すためなどといった何か目的達成を念頭に置いていない報酬系の思考から脱却し、体が実践している状態が天衣無縫の極みなのではないだろうか。
また、新テニ遠山金太郎の天衣無縫の極み状態を観察するとそこに勝ち負けと満足度の相関性がないことがわかる。
天衣無縫の極み到達状態のプレイヤーにおける試合の勝敗はテニスに対する感情に影響を及ぼさない。
つまり、テニスは人生のテニスの王子様世界の文脈で語ると、生きるために生きることができる状態が最強のレジリエンスをもたらすという答えになるといえるのではないだろうか。
何かの目的を果たすために生きるのではない。
今、目の前のそのものをそのまま愛し楽しむことができるだろうか?それが出来た時が精神的に満たされ、折れない心や、ひいては充足感につながる状態が天衣無縫の極みの扉を開いた者の人生観であり、この境地を人生が到達すべき最高次元と定めたうえで主人公に到達させたのがテニスの王子様である。
“なんのためにテニスをするのか、それはテニスをするため”=”なんのために生きるのか、それは生きるため”この思想に到達するための物語であるからこそ、テニスの王子様は、人生への圧倒的肯定感、つまりは生きていることそのものの賛美であり、受け入れられている感覚であり、~~ができるから、~~を成し遂げたから賞賛されるような条件付きでない生が肯定されているので、読者は物語から力や勇気や安心を得ることができると考えている。
テニスの王子様とは人間賛歌の物語である。
そして、その続編である新テニスの王子様では天衣無縫の極み以外の人間が到達すべき境地を模索して提示する挑戦(物語)であることが幸村精市の姿を通して示唆されていると読んでいる。
このキーマンになるのが幸村精市だ。
幸村精市は旧テニ中では最後に登場する最強の敵、すなわちラスボスであるが故に主人公に背負われない唯一のキャラクターのため、作中では他キャラクターと別次元に立たされている。
その幸村精市が他キャラクターと同次元に立ち、成長すべき存在としての物語が描かれるようになるのは新テニスの王子様の物語である。(旧テニの作中で仮に幸村精市に他キャラクターと同様に成長、テニスの王子様世界における人間存在への救い、がもたらされているとするならば、唯一全国大会決勝シングルス1で越前リョーマに敗北し握手をした後のDear Prince~テニスの王子様達へ~の歌詞が描かれる数コマの時間に訪れているだろう。)
その幸村精市は、新テニスの王子様16巻17巻においてU-17W杯のエキシビジョンマッチ対ドイツ戦に出場し、相手の強さの前に自らがイップスの五感剥奪状態に陥ってしまう。その幸村精市がイップスを克服のきっかけに、旧テニでは示されなかった人生の到達すべき境地の示唆が垣間見える。
イップスの自力脱却を試みるにあたり幸村精市は、「ただ一人あの王子様を除いて」というモノローグで無印テニプリで描かれた全国大会決勝シングルス1で対戦相手であった越前リョーマが同様の五感剥奪状態から自力で脱却したことを思い出す。
その上で、越前リョーマがテニスの王子様で天衣無縫の極みに到達したきっかけ「テニスって楽しいじゃん」を否定し、「テニスをできる喜びは俺は誰よりも強いんだ」という喜びを自覚したことでイップスからの自力脱却を果たした。
ここで幸村精市は、五感剥奪状態を自覚してその恐怖を認識した上で克服するという、自らが今までに他人に施してきたことを自らが体感し、認識し、乗り越えるという自己の再定義に成功している。またこの再定義によって人生の次の段階へ進むことができた。
おそらく、五感剥奪状態は絶望のメタファーである。
この絶望は”テニスができない”という絶望だ。
幸村精市は、病に倒れてテニスができなくなる絶望を克服し、さらに試合中の五感剥奪状態からの自力脱却を経ても、なお極みに達しない。
幸村精市のテニスへの執着は、テニスをする=生きることの価値観であるテニプリ世界においてそれはそのまま生への執着だ。
従来、幸村精市は無我の境地を使えるが好まないという理由により自らの意思で境地の扉を開かない、使わないようにしていた。
天衣無縫の極みが一つの答えだとすると、このことは天衣無縫の極みの扉を開く以外の別解としての存在が幸村精市であり、これは病を克服して這い上がり再びテニスの元に戻ってきた幸村精市を通してだからこそ挑戦できる人生の答えであろう。
まとめると、天衣無縫の極みとは、喪失からの再獲得およびその自覚と定義づけられるかもしれない。
天衣無縫の極みのレジリエンス
それはさながらイエス・キリストの復活の様である。
奇跡の復活は死という絶望があるからありえる希望なのだ。
絶望を克服するから奇跡であり、信仰の対象となるのだろう。
テニスの王子様における天衣無縫の極みの扉を開くのも、絶望を克服し、その先に前向きな感情を抱くことができた者なのかもしれない。
広辞苑第七版より
天衣無縫
てん-い【天衣】
①天人・天女の着る衣服。また、天の織女の着る衣裳。あまのはごろも。(②は略)
−•むほう【天衣無縫】(天人の衣服には人口の縫い目などがない意から)詩歌などに、技巧をこらしたあとがなく、いかにも自然で完美であるさまの形容。また、人柄が天真爛漫でかざりけのないさま。
(かん-び【完美】①完全で美しいこと。②完全に充実すること。)
極み
きわみキハミ【極み】きわまるところ。限り。はて。